富山鹿島町教会

礼拝説教

「キリストにより結ばれて」
エゼキエル書 11章14〜25節
コロサイの信徒への手紙 2章19節

小堀 康彦牧師

 今日、私共はこの礼拝後に2006年度の教会総会を行います。すでにお手元に配られた教会総会の資料に目を通されたかと思いますが、今年の教会聖句は今お読みいたしましたコロサイの信徒への手紙2章19節の「この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。」という御言葉です。今朝は、この御言葉からこの2006年度の私共の歩みを示されてまいりたいと思います。この聖句はお気付きの方も多いと思いますが、4月9日の週報から、週報の表紙に記されておりました。週報の表紙について言いますと、宮窪長老の工夫で4月2日から日付が入り、又、4月9日から祈祷室のステンドグラスを清水律子姉がトレースして下さったものが描かれるようになりまして、少し表情が出たかなと思います。
さて、この2006年度の教会聖句でありますが、これを見てすぐに示されることは、私共の教会の交わりについてでありましょう。節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされる。実にこの教会が、私共の体のように、互いに結び合わされ、支えられている交わりとなっているかということなのであります。
 私もこの教会に着任いたしまして3年目に入った訳ですが、近頃やっと、この講壇に立って、今日はあの人が居られない、今日はこの人が来ている、そんな風に見えるようになりました。それまでは、今日の礼拝に誰が来て、誰が来ていないのか、正直な所一人も漏らさないという程には判っておりませんでした。やっとこの教会の牧師らしくなってきたということなのだと思うのですが、皆さんはどうでしょうか。たとえ、毎週の礼拝のたびごとではないにしても、最近あの人が見えないな、というようなことを感じられているでしょうか。もっと言えば、教会員の名前と顔と、どれ程一致しているでしょうか。教会総会の資料にある教会員の名簿を見て、数えてみるのも良いのではないかと思います。全員の顔と名前を一致させることの出来る人は、それ程多くはないのではないでしょうか。もちろん、全ての人が互いに顔と名前と一致するということが、教会の交わりにおいてどうしても必要であるということではありません。しかし、たとえ全員のことが判らなくても、何人かの人とは互いに深く結び合い、支え合っているということは、どうしても必要なことではないかと思うのです。
 それは例えば、全員の人は判らないけれど、自分は教会学校の奉仕において、あるいは婦人会・壮年会の交わりにおいて、家庭集会において、互いに結び合い、支え合う交わりの中にあるということは、とても大切なことだと思うのです。それは別の言い方をすると、この教会の中に自分の居場所があるということでもあります。年老いた者も幼子も、古くからの人も最近来られた人も、皆が自分の居場所を持っている。そういう交わりを形成していくことが、今、私共の教会にとって大切なことであり、必要なことなのではないかと思わされるのであります。

 しかし、私は皆で仲良くしましょうというようなことを言いたいのではないのです。又、この与えられた聖句も、単に仲良くしましょうというようなことを告げているのでもありません。この御言葉は、「この頭の働きにより」と始まっております。「この頭」とは、主イエス・キリストです。主イエス・キリストを頭として、主イエス・キリストの働きによって、互いに支えられ、互いに結び合わされるのであります。そして、「神に育てられて成長してゆくのです。」と続いています。ここに示されているのは、互いに仲良くしましょうということとは、全く別のことです。この19節のイエス・キリストの働きによって、互いに支えられ、結び合わされ、神に育てられ、成長していくということは、6節にあります「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」ということを展開する中で、告げられていることなのです。このコロサイの信徒への手紙2章の6節以下、2章の終わりまでの所は、主キリスト・イエスを受け入れた。主イエスを信じ、主イエスの名によるバプテスマを受けた。主イエスの救いの中に入れられた。だったら、キリストに結ばれた者としての歩みをするのが当然ではないか。それなのにどうして、むなしい哲学や星占いや新しい戒律や割礼といった、主イエス・キリストの救いの御業によって何の力も持たないものになってしまったものに心惹かれ、そんなものを教会の中に持ち込もうとするのか。それは、頭であるキリストにしっかり付いていない人のやることだ。そのように告げられているのです。キリストに結ばれている人は、頭であるキリストにのみ従う。キリストの救いの中に生きる。そこで、互いに支え合い、互いに結び合わされる交わりの中に生きる者となるということなのです。この頭であるキリストに結ばれ、キリストに従うという所においてきちんとしなければ、キリストを頭とする交わりは立たないのであります。
 ここで聖書が私共に告げる交わりは、お互いがしっかりと「キリストに結び合わされることによって生まれる交わり」なのです。キリスト以外の何かが救いには必要であるなどということが入り込んできますと、教会は必ず混乱するのであります。この聖句に示された交わりを形成していこうとする時に、何よりも大切なことは、キリストに結び合わされている、キリストのものとされている、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられた、キリストの救いに与っているということです。このキリストによって救われたという事実の上に生きるということです。主イエスに救われたのだから、主イエスに救われた者として生きるという単純さが大切なのです。福音に生きる者の単純さ、単純な明るさと言っても良い。それが、この教会の交わりを包んでいるはずなのであります。
 教会の交わりというものを、人間関係で見たり、人間関係で保とうとすると、訳が判らなくなるのであります。私共の中にある罪が必ず頭をもたげ、あの人とは合うの、合わないの、そんな話になってしまう。そして、教会もやっぱりこの世の集まりと変わらないなどということになりかねないのであります。しかし、教会の交わりというものは、決してこの世の交わりと同じということはないのです。この交わりは、キリストの働きによって保たれている交わりだからです。教会という所は、まことに簡単な、単純な所なのです。それを難しい所にしてしまうのは、人間の罪なのです。私たちは主イエスに救われた。だから救われた者として生きる。この単純な恵の事実の上に成立している交わりなのです。この単純さの中に、天からの明るさが宿るのです。キリストの救いに与っている。このことだけが大切なことなのです。それ以外はどうでも良いと言えば、言いすぎでしょうか。しかし、このどうでも良いことに、心をうばわれるということが起きるのが私共の罪の現実なのでしょう。
 ある牧師がこんな話をしてくれたことがあります。自分がある教会に赴任して、教会の玄関の横にあった木が邪魔で、切りたいと長老会で申し出た。すると、反対にあった。あの木は誰々が植えた木でなどという話があったのかもしれません。結局、木は切らなかったのですが、その時、その若い牧師はとても傷ついたというのです。その牧師は笑い話として話してくれました。木を切ろうと、切るまいと、教会がキリストにお従いするということには何も関係ない。どうでもいいこと。しかし、こういう所で、労力を使い、傷ついたり、傷つけたりということが起きる。本当に愚かなことだと話されました。本当にそうだと思います。
 キリストに救われた。だからキリストに結ばれて生きる。この単純さが生み出す明るい交わりについて、具体的に考えてみましょう。私共が生活しておりますと、様々な悩みや不安というものを抱え込みます。家族のことであったり、自分の健康のことであったり、仕事のことであったり、内容は様々です。そうすると、ついつい愚痴が出てきます。愚痴を言わないで済めば、それはそれで良いのですけれど、ついつい出てしまう。そういうものでしょう。問題はそこからなのです。その愚痴を聞いて、私共はどうするのでしょうか。「キリストに救われた者が、そんなことを言ってどうする」と説教するのでしょうか。時にはそういうことも必要かもしれませんけれど、やはり、まずていねいに聞くのでしょう。心を傾けて、その人の話に耳を傾ける。それから、様々なやり取りがなされ、最後には「共に祈る」ということになるのではないかと思うのです。そこが大切なのだと思うのです。愚痴が愚痴だけで終わらない。まして、愚痴が愚痴を生み出し、愚痴の競争をするようなことにはならない。勿論、人の悩みや痛みというものは、なかなか判るものではありません。「あなたの気持ちは判る。」と言えば嘘になるでしょう。しかし、この人が今、大変な思いの中で生きている。そのことは判る。そして大切なことは、「それにもかかわらず、私たちはキリストによって救われている。」ということを全く共有出来るということなのではないでしょうか。私共はキリストのものとされている。キリストは私の主、私の頭、だからキリストが必ず働いて下さる。そのことを共有することが出来るのです。そして、そのことを信じ、一緒に祈ることが出来るのです。この祈りによって結ばれ、祈りによって支えられる交わりこそ、私共に与えられている交わりであり、決して他では与えられない交わりなのだと思うのであります。

 この祈りの交わりということに関して言えば、私の中に一つの願いがあります。それは祈祷会が盛んになるということです。今は、二階の祈祷室で行っていますが、時々座る所がない程になりますが、いつか、二階では入りきらないのでいつも一階の集会室で祈祷会をしなければならなくなる。毎週、40人、50人の人達が祈りを合わせる為に集う。そんな教会になりたいと願っているのです。祈祷会に出て、聖書を学ぶのはいいけれど、どうも、あの順番に祈りが回ってくるのがイヤだと言う人がいるかもしれません。私は無理に祈らなくても良いのではないかと思っています。どうも人前では祈れないという人は、隣の人に合図して、「お先にどうぞ」とすれば良いのです。自分の言葉で祈らないからといって、その人が祈っていない訳ではない。「アーメン」と唱和するのですし、主の祈りを共に祈るのですから、その人も立派に祈祷会に参加しているのです。その祈りの輪の中に自分がいるということがとても大切なのだと思うのです。祈祷会で為される祈りの一つに、「執りなしの祈り」があります。牧師から、教会員の具体的な状況が報告され、この人の為に祈って欲しいと告げられることもあります。又、その週の誕生者の為には、牧師が一人一人の名前を挙げて祈りが為されます。この「執りなしの祈り」の交わりは、私共が互いに結び合わされ、互いに支え合っている交わりの一つの具体的な姿なのではないのかと思わされるのです。ここには、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く交わりの具体的な姿があるのではないでしょうか。

 私は牧師として、教会員の様々な困難な状況の中にある話を聞きます。そしてもちろん、その人の為に祈るのですけれど、同時に、私はこの困難な状況は、新しい神様の救いの恵みの証しが生まれようとしている時だと思い、信じているのです。神様が必ず何かを起こされることを信じ、そのことを願い、祈るのです。何故なら、私共はキリストに結ばれて歩んでいるならば、必ずキリストの復活の恵みに与ることになっているからです。神様をほめたたえるようになることになっているからです。これは、神様のstoryです。私の見通しや、私の計画、私の努力の結果としての結末ではなくて、私共の思いを超えた神様の救いの物語、神のstoryの中に私共は生きる者とされているのですから、そういうことになることになっているのです。これは、牧師の希望的観測などというものではありません。神様の救いのstoryなのです。この神様の物語の中で、私共は全き救いへと導かれることになっているのです。キリストと結ばれているならば、必ずそういうことになることになっている。それが、神のstoryだからです。このことを知らされている者の交わりは、天の光に包まれ、明るいものにならざるを得ないのであります。このことを忘れて、交わり、交わりと言っても、それはお互い仲良くやりましょうという所から一歩も踏み出すことは出来ないし、私共はそんな人間関係に疲れて、この神様の御前に集っているのでしょう。ここには、人間関係を超えた、神の救いのstoryによって備えられた交わりがあるのであります。この恵みを喜び、心から感謝して、この一年、しっかりとキリストに結ばれて、共に主の御国へと歩んでまいりたいと願うのであります。

[2006年4月30日]

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