富山鹿島町教会

礼拝説教

「平和を告げる者として」
詩編 122編1〜9節
ルカによる福音書 10章1〜12節

小堀 康彦牧師

 先週に続きまして、主イエスが72人の弟子を遣わされた御言葉から聞いてまいりたいと思います。先週も申しましたように、この72人というのは、当時考えられていた全世界の国々を示す数字であり、72人を派遣するというのは、全世界の全ての所に向かって派遣することを意味している訳です。ですから、ここで主イエスが弟子達にお語りになられたことは、富山の地に派遣されております私共に向かっても語られたこととして聞いて良いし、そのように聞かれるべき言葉なのであります。先週は、2節の「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」を中心に御言葉に聞きましたが、今日はその次から聞いてまいりたいと思います。ただ、7節以降については、9章の十二弟子を遣わされた時に学びましたので、繰り返さないことにしたいと思います。

 さて、主イエスは弟子達を遣わされるに際して、「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」と言われました。主イエスに遣わされて、神の国を伝えに出て行こうとする者に対して、何とも不安を与えるような言葉であります。「大丈夫、安心して行きなさい。」と言うのではないのです。どうして、主イエスはこのような言い方をされたのでしょうか。あまり複雑な意図はないと思います。まさに、遣わされていく弟子達を見ていると、そう言わざるを得なかったのでしょう。この世の中に遣わされていく主イエスの弟子達。彼らはこの世で通用する武器を何一つ身に付けていないのです。富も権力も名声も、何一つないのです。私共もそうです。しかし主イエスは、この小羊にたとえられる弟子達に、「狼の中に送り込むようなものだから、あなたたちは小羊がトラやライオンになれるような武器を持て。」とは言われなかったのです。それどころか、続いて4節では「財布も袋も履物も持って行くな。」と言われたのです。つまり、何一つ持たず、小羊のままで行きなさい。そう言われたのです。
 それは、弟子達が遣わされた目的と関係しています。弟子達は何の為に主イエスによって遣わされたのか。それは、神の国を言い広める為です。主イエスと共に神の国が来ている。だから、「悔い改めて、福音を信ぜよ。」と告げる為であります。それはもっと具体的に言うと、5節にあるように、「この家に平和があるように。」と平和を告げる、平和という神の祝福を告げる者として遣わされたからです。このことは、とても大切なことです。私共は何よりも、「この家に平和があるように」と告げ、そのことを祈る者として遣わされているということなのです。平和を告げる者に、戦う為の、争う為の武器は要らないのです。狼の中に送り込まれても、狼をやっつけるトラやライオンになる必要はないし、なってはならないのです。あくまで、小羊でなければならないのです。狼になっても、トラやライオンになってもならないのです。何も武器を持たない小羊として狼の中に入っていかねばならないのです。平和を告げる者だからです。
 しかし、それは何と勇気が必要なことでしょうか。もし、何の保証も無しに、ただ「小羊あるあなた方を狼の中に送る。」と言われたら、私共はどうでしょうか。そんな恐ろしいことならご勘弁願いたい、そう思うのではないでしょうか。或いは、決死の覚悟で出て行くということになるでしょう。しかし、主イエスの弟子達はそうではなかったようです。彼らが嫌々遣わされていったわけでもないし、決死の覚悟で遣わされていったとうわけでもないようです。どうしてでしょうか。それは、主イエスのこの言葉の中に、弟子達を不安にさせる以上のものがあったということなのではないでしょうか。私はここで、主イエスが弟子達を小羊のようなものと言われた時、弟子達をご自身と重ね合わせておられたのではないかと思うのです。「神の小羊」と言えば、主イエスご自身を指すことは、誰でも判るでしょう。私は「神の小羊」である主イエスがご自身と弟子達を重ねて言われたのではないかと思うのです。主イエスがエルサレムに入城された時に乗られたのは何だったでしょうか。子ロバでした。将軍や、この世の王が乗る馬ではなかった。力で人々の上に君臨する人が乗るのが馬です。だから公園におる将軍の像は、みな馬に乗っているのです。しかし、愛をもって人の上に立ち、ご自分の命を捨てて、人に仕えられるまことの王、平和の君であられる主イエスは子ロバに乗ったのです。主イエスは神の小羊として、十字架にかけられ、全ての人の身代わりになられました。その神の小羊である主イエス・キリストに代わって、主イエスの福音、神の平和を告げる者として遣わされている。それが主イエスの弟子であり、私共なのだということなのでありましょう。小羊には目に見える武器はありません。しかし、弟子達も私共も、神の平和を告げる者としてキリストと一つにされ、神の平和の中に、神の国に、神様の御臨在の中に生きている。そのことが、狼の中に送られても、なお大丈夫である保証なのであります。狼と同じ有様になって、狼と争っては、平和を告げることは出来ないのです。私共は狼になってはいけないのです。小羊のままでなければならないのでありましょう。神の小羊である主イエス・キリストの平和を身に帯びて、主の平和を告げていくのであります。もし、私共に持っている武器があるとすれば、それは信仰であり希望であり愛なのであります。それはこの世の争いにおいて、相手をやっつける為には何の力も持たないものであるかもしれません。しかし、この武具こそ、神の平和を告げていく歩みを為す者には、無くてはならないものなのであります。そして、更に言えば祈りです。主イエスの名によって祈る祈りなのです。弟子達も私共も、それ以外の武器を持たないのです。それが、平和を告げる者のふさわしい姿だからであります。
 ここで、使徒言行録3章に記されておりますペトロとヨハネによる「美しい門」でのいやしの記事を思い起こします。生まれながら足の不自由な人がペトロとヨハネを見て、施しを乞いました。ペトロはその男をじっと見てこう言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、手を取って立ち上がらせると、彼は立ち、歩き出したのです。ペトロとヨハネには、金も銀もありませんでした。しかし、主イエス・キリストの名を持っていました。これこそ、平和を告げる私共が持っている最も大いなるものなのでありましょう。

 私共は平和を告げる者、神の祝福を告げる者として遣わされています。平和を告げる者は、自分自身が平和の中にいなければなりません。私は、このことが最も大切な所だと思っているのです。主イエスに平和を告げる為に遣わされた弟子達は、この時、何よりも主イエスの平和を与えられていた、主イエスの平和の中に生きていたはずなのです。だから、狼の中にも送られていくことが出来たのです。狼さえも破ることのない、小羊の平和です。それはインマヌエルの恵みの中に生きる平和と言っても良いでしょう。伝道するということは、この平和を伝えていくということなのであります。そして私共は、この平和を与えられているのです。
 牧師の歩みは、この平和を告げ、「この家に平和があるように」と祈ることであります。私は基本的には訪問をする際に、前もって連絡することはありません。いくつか理由がありますけれど、牧師が訪問する家の多くはお年寄りやご病気の方の所です。前もって連絡いたしますと、きれいにお掃除をして待っておられる。これでは、訪問されることはその人にとって負担でしかありません。でも連絡しないで行けば留守ということもあるではないかと思われるかもしれませんが、私は留守でもちっともかまわないのです。留守なら玄関で「この家に平和があるように」と祈って帰ってくるだけです。それで良いのです。お訪ねした方が居られれば、しばらくお話しをして、最後には「この家に平和があるように」と祈って帰ってくる。この言葉通りではありませんけれど、今まで何万回この祈りをしてきただろうかと思います。この言葉を告げるために、この祈りを捧げるために生きているのが牧師という者なのだと思っています。
 神の平和を告げる者は、神の平和の中に生きていなければならない。これは当たり前のことです。しかし、このように申しますと、自分はとても平和であると言えるような日々の中にいないと思う人もいるかもしれません。牧師だって、いつも平穏無事な日々を送っている訳ではありません。しかし、牧師はそのような日々の中にあっても、平和を告げることをやめたりはしないのです。どうしてか。それは、この私共に与えられている平和というのは、いわゆる平穏無事な日々という意味ではないからです。これは言うなれば「水底の平和」とでも言うべきものではないかと思います。水の表面は波立ち、荒れることはあるのです。私共は日々の歩みをしていれば、心配ごとは次々にやってきます。しかし、私共の心の表面は波立ち、動揺します。しかし、どんなに水の表面が波立っていても、水の底は静かで落ち着いているでしょう。それと同じように、私共の心の底には、いつもこの神の平和があるのではないでしょうか。主が共におられる、すでに神の子とされている、永遠の命に生きる者とされている。この神さまの約束は、どんなに厳しい状況の中にいても、私共から奪われることはありません。この神の平和が私共の心の底にどっかりとあって動かない。それが大切なのです。信仰が与えられているとは、そういうことなのではないかと思うのです。

 もう30年近く前になるでしょうか。まだ神学校に行く前だったと思いますが、私が大変お世話になりました教会の婦人、この方は牧師であり神学校の先生をしていた方の娘さんで、もう80才くらいになられたでしょうか。この方が祈祷会の後で、「小堀さん、人は一番何が欲しいのだと思う?」と聞かれまして、まだ若くて何も判らない私は何と答えていいのか判らずにおりますと、この方は「私は平安だと思う。それさえあれば、人はもう何も要らないのではないかと思う。」と言われました。何ということはない会話でありますが、私の心に残りました。その頃は、何となく、そんなものかと思っていただけでしたが、年を経る程に、本当にそうだと思うようになりました。平和、平安。人はそれを一番求めている。そして、人が一番求めているものを、ここにあると告げていく。何と素敵な務めに私共は召されているのだろうかと思うのです。
 人は平和を平安を求めている。それは逆に言えば、人はなかなかそれを手にしていないということでもあるでしょう。何故、人は平和になれないのか。平安になれないのか。そこには、罪としか言いようのない私共の現実があるのではないでしょうか。それは、たとえ親子であっても夫婦であっても、ただそれだけでは乗り超えていくことが出来ない私共の罪というものがあるからなのではないかと思います。それは、互いに小羊になれなくて、いつの間にか互いに狼になってしまう。自分の力で相手を支配しようとしてしまうからかもしれません。互いに仕え合う、キリストが神の小羊として歩まれた道こそ、私共の平和への道でもあるのでしょう。
 6節には「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」とあります。私共は神の平和を告げ、神の平和を祈ります。しかし、それを受け取る人がいなければならないのです。狼であることを止め、自分の正しさばかりを主張するのを止め、相手をせめることを止め、神の愛の中に生かされていることを発見する人、「平和の子」がそこに生まれなければならないのです。平和の子とは、神の子と言い換えても同じでしょう。自らの罪を憎み、これと戦い、神様との和解に生かされる人。その人は又、隣り人との和解を求め、その為に自ら仕える人となるはずなのであります。
 神の平和は、私共の内側から生まれてくるものではありません。私共の外側からやってきます。与えられるものなのです。私共の所にも、神の平和を告げる人が来た。そして、私共はそれを受け入れた。だから、私共は平和の子となり、神の平和が私共の中に宿り、今、平和を告げる者とされたのでしょう。私共は、この礼拝の最後に祝福を受けます。「主が御顔をあなたがたに向けて、あなたがたに平安を賜るように。」この祝福を受ける。祝福のない礼拝はありません。御言葉をアーメンと言って受け取った者には、必ず神様の祝福が告げられ、神の祝福を受け取るのです。私共は、この祝福を受け取った者として、新しい一週を歩み出すのです。それは、人々に平和を告げ、祝福を与えていく歩みとならざるを得ないのであります。それは、「御国を来たらせ給え」と祈る者の、その祈りによって備えられる歩みでもあるのでしょう。神の民、それは御国を求めつつ、御国の平和を告げて歩む民なのであります。

[2006年5月21日]

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