富山鹿島町教会

礼拝説教

「私たちに与えられている尊厳」
エレミヤ書 1章4〜10節
ルカによる福音書 10章10〜16節

小堀 康彦牧師

 聖書を読んでおりますと、少し変な言い方ですが、読み易い所と読みづらい所というものがあります。もちろん、それは人によって違う訳ですけれど、聖書というのはどこを読んでも同じように読めるというものではありません。濃淡があると申しますか、デコボコがあると申しますか、スーっと読んでいくことが出来ない。あっちこっちで引っかかるのです。まことに読み物としては読みづらい本だとも言えるかと思います。皆さんはどうでしょうか。聖書を最初に手に取った時、どこを読んでもさっぱり判らないというのが正直な思いだったのではないでしょうか。私は聖書を読んで、「初めからとても良く判った」という人に出会ったことがありません。しかし、それでも読み続けていくと、少しずつ判り始めます。多分、最初に判った気がするところは、「こうしなさい」、あるいは「こうしてはいけない」という倫理的な所ではないかと思います。例えば、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい。」という言葉に、本当にそうだと思ったり、自分には出来そうにないと思ったりいたします。そんな風にして、私共は聖書の言葉に少しずつ馴染んでいくのですが、これは大変時間がかかることなのであります。それは半年、一年という単位ではありません。10年、20年と読み続けて、それでも良く判らない所、読みづらい所というものに出会うのです。聖書という書物は、どんなに読み続けましても、これで全部判ったということにはならない、まことに不思議な本なのです。それが、聖書は神の言葉であるということなのでしょう。神様の言葉ですから、人間である私共が完全に判りきるということはないのです。しかし、いつも新しく、私共に神様の御心を教え続けてくれるのです。

 さて、今日与えられております主イエスの御言葉も、読みづらい個所の一つではないかと思います。私共はイエス様は愛の方であると信じております。この世界を、私共を救って下さる方と信じております。ですから、主イエスの口から慰めの言葉、喜びの言葉を聞くと、そうだ、そうだ、と思うのですけれど、今日のような裁きの言葉に出会いますと、よく判らなくなる。どうしてイエス様はこのようなことを言われたのだろうか判らない。混乱してしまうのであります。今日は、この聖書における「裁きの言葉」というものについて、最初にお話ししたいと思います。
 聖書には、たくさんの裁きの言葉があります。多くの場合、それは裁きの預言という形をとっておりますけれど、それは実におびただしくあるのです。特に旧約の預言の書には、どこを開いても裁きの言葉というくらいにたくさんあります。正直に申しまして、私はこの裁きの預言の言葉というものが良く判りませんで、ずいぶん長い間、そういう所は飛ばして読む。そんな読み方をしておりました。しかし牧師になりまして、そんなこと言ってられない。聖書にある裁きの言葉もちゃんと読まなければなりません。私は神学校を卒業して前任地の東舞鶴教会に遣わされたのですけれど、そこでの17年間、毎週の聖書を読み祈る会ではずっと旧約聖書を学び続けました。旧約のほとんどの所を学び終わりました。大きいので残っているのは詩編くらいだと思います。詩編は将来の楽しみに、まだとっておいてあるのですが、その学びの中で判ったことは、裁きの預言、裁きの言葉というのは、実に神様の愛の言葉であるということだったのです。実に単純なことです。このことが判ったときには、目から鱗が取れるような、喜びと感動がありました。つまり、聖書の裁きの言葉というのは、「お前は、こんなことをしているからもうダメだ。滅びる。」そんな風には言っていないのです。そうではなくて、「お前は、どうしてこんなことをしてしまうのだ。これでは滅んでしまうではないか。」そう言われているのです。この違いが判るでしょうか。神様は私共が滅びることを望んでもいないし、それで仕方がないとも思っておられないのです。何とかして救いたいのです。そういう思いの中で、心を痛めながら、「そんなことをしていてはダメだ。滅んでしまう。悔い改めなさい。私に従い、救いの道を歩みなさい。」そう言われているのが、裁きの言葉だということなのです。そもそも、滅んでも仕方がないということであるならば、預言者を送る必要なのないのです。これはちょうど、道をはずして不良になってしまった子に対して、赤の他人は「もう、あの子はダメだね。」と言うでしょう。しかし、親や本当に親身になってくれる先生は、「何をやっているんだ。そんなことではダメになってしまうではないか。」と言うでしょう。この違いなのです。聖書の言葉は、神様の言葉でありますが、この神様の言葉を、私共は冷たい他人の言葉として聞くのか、自分を愛している親の言葉のように聞くのかということなのです。 私はずいぶん長い間、裁きの言葉が判らなかった。それは、聖書の言葉を、私を愛してやまない父なる神様の言葉として聞くことが出来なかったからなのだろうと思うのです。私と神様との関係が、深く結び合わされていく中で、神様の愛を味わい知っていく中で、裁きの言葉の中にある、神様の愛を受け取ることが出来るようになってきたということなのであります。

 今日与えられております、主イエスの言葉、13節以下の所で裁きの日には大変な罰を受けると言われている町があります。コラジン・ベトサイダ・カファルナウムです。この三つの町は、みなガリラヤ湖の北側にある町です。これらの町々があるガリラヤ地方、それはイエス様が最初に伝道を開始され、多くの奇跡をなさった所でした。ベトサイダは、主イエスの弟子であるペトロ・アンデレ・フィリポ達の故郷でしたし、カファルナウムは主イエスがガリラヤ地方で伝道された時の中心地でありました。主イエスはこの町で説教をし、多くのいやしの奇跡をしました。「ガリラヤの春」という言葉あります。主イエスが伝道を開始された当初、主イエスは人々に受け入れられ、まさに春の日差しを受けての日々であったという理解を示す言葉です。しかし、本当にそうか。実は主イエスがこれらの町々で受け入れられることはなかったのではないでしょうか。だからイエス様は、あれだけ語り、あれだけの奇跡をしても、どうしてあなた方は信じないのだ。それでは滅びるばかりではないか。そう嘆いておられるのではないかと思うのです。「コラジンよ、あなたは不幸だ。ベトサイダよ、お前は不幸だ。」とありますが、ギリシャ語の本文には「不幸だ」という言葉はありません。「ああ」あるいは「おお」と言いますか、嘆きの感嘆語があるだけなのです。「ああ、コラジンよ、あなたは。ああ、ベトサイダよ、あなたは」と言われているのです。イエス様はここで嘆いておられるのです。この嘆きは、神の言葉を聞いても信じない、この世界に向かっても告げられていると言っても良いと思います。私共はこの主イエスの嘆き、神の嘆きを聞かなければならないのであります。私は、この主イエスの嘆きを思う時、もうそのように主イエスを嘆かせたくないと思うのではないでしょうか。主イエスよ、私はコラジンやベトサイダやカファルナウムの人々のようにはなりません。そう心を決めるのではないでしょうか。
 ここで、ティルスとシドンという町の名前が出て来ます。この二つの町は地中海に面した町で、ギリシャ系の人々が住んでいた貿易都市です。つまり異邦人の町です。イエス様は、「この異邦人の町で主イエスがなされた奇跡が行われていれば、彼らは悔い改め、主イエスを信じ、救いへの道を歩んだであろう。しかし、コラジン・ベトサイダ・カファルナウムよ、お前たちはそうではなかった。」と言っている訳です。この三つの町は、ティルスやシドンに比べて、実に豊かな救いの恵みを受けた。しかし、それを拒んだ。だから、恵みを受けなかった者よりも、もっと大きな罰を受けると言われたのです。ここには、将来の異邦人の救いということも預言されていると見ても良いと思います。私共日本人は、いつも言うことでありますが、聖書の文脈で言えば、異邦人なのであり、救いから遠い民なのです。ところが、神様のあわれみの中で、私共は異邦人であるにもかかわらず神様の救いの中に入れられ、神の民とされたのであります。まことに、ありがたいことであります。ここで言われているティルス・シドンの人々こそ、私共自身に他ならないのではないかと思うのであります。

 さて、イエス様は72人の弟子達を遣わされる最後にこう言われました。16節「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」これは、主イエスによって遣わされる72人の弟子達は、実に主イエスの代理者、神の代理者であるということでありましょう。主イエスの弟子達を受け入れる者は主イエスを受け入れるのであり、それは天地を造られた神様を受け入れるということだと言うのです。逆も同じです。主イエスの弟子達を拒む者は、主イエスを拒むのであり、それは父なる神様を拒むことになる。主イエスを受け入れ、主イエスを信じる者は、神様を受け入れ、信じる者であり、その者は全き救いを与えられ、神の子とされ、永遠の命に生きる者とされるのであります。しかし、主イエスを受け入れず、信じない者は、神様を拒む者であり、その者は裁きの日に罰を受ける。つまり滅びるのであります。これは、残酷なことのように思うかもしれませんが、まことに厳しい神の現実なのです。救われる者がいるということは、逆を言えば、救われない者がいる、すなわち、滅びる者がいるということなのであります。滅びがなければ、救いもないのです。救いというのは、滅びから救われるということです。
 このように申しますと、「自分は救われるのだろうか、滅びるのだろうか。」と不安になる方もいるかもしれません。しかし、不安になるには及びませんし、そんなことを考える必要もないのです。イエス様は、私共を救いへと招いているのであって、決して滅びへと追いやろうとしているのではないのです。ですから私共は、ただ、主イエスの救いへの招きに応えれば良いのです。それだけのことです。主イエスのもとには、光があり、希望があり、喜びがあり、平和があり、命があります。良きもの全てがあるのです。この主イエスが、私共を、この世界を招いているのです。わたしのもとに来なさい、そう招いているのです。私共はこの主イエスの招きに応えるだけです。
 私は「信じるのも、信じないのも、あなたの自由です。」などとは決して言いたくありません。それは、こういうことです。神通川に大水が出ました。中州に取り残されている人がいます。その人に向かって岸からロープが投げられました。その時、私共は「早くそのロープにつかまりなさい。」と言うのではないでしょうか。「そのロープにつかまるのも、つかまらないのも、あなたの自由です。」そんな風には、決して言わないだろうと思うのです。ですから、主イエスは、「私を受け入れても、受け入れなくてもどっちでもいいですよ。」などとは言わず、受け入れない者の為に嘆かれたのでしょう。私も、そうです。「信じなさい。」それ以外に言うことはありません。信じないと言われれば、それは嘆くしかないのであります。その嘆きは神の嘆きであり、主イエスの嘆きであります。まことに深い嘆きなのであります。

 私は先程、主イエスに遣わされる弟子達は主イエスの代理者、神の代理者とされていると申しました。それは、何か主イエスの福音を告げる私共が偉い者になるというようなことでは、もちろんありません。価値があるのは私共ではなくて、私共の告げる福音であり、私共が宣べ伝える主イエスというお方なのです。勘違いをしてはいけないのです。私共が救ったり、滅ぼしたりする訳でもないし、それを決めたり、あるいはその決定を知っている訳でもないのです。それは、全て神様がなさることです。ただ、私共は主イエスに遣わされた者として、主イエスに告げ知らせよと言われたことを告げていくだけなのです。しかし、それは実に大きな意味を持っているのです。私共は、まだ十分にその意味の大きさを知らないのではないかと思います。私共を受け入れる者は、主イエスを受け入れ、神様を受け入れ、救いに与る者となる。その人の救い、この世界の救いが、実に私共にかかっているというのです。私共は、もっと真剣に、まじめに、この御言葉を受け取らなければならないのだと思うのです。確かに、私共は弱く、小さく、欠けの多い者です。罪人です。しかし、私共は主イエスに選ばれ、救われ、神の子とされ、更に主イエスの福音を告げていく者とされている。神の代理者とされている。それが、神様の目から見た私共なのであります。良いですか皆さん。私共は、自分で思っているよりも、もっともっと大きな者なのです。この世界の救いのカギを握っている者なのです。このことを知る時、私共は自らの歩みを、姿勢を正さないではいられないのではないかと思います。キリストの香りを放つ者として、キリストの福音を告げる者として、この一週も又、真実に主と共に、主の御前を歩んでまいりたいと願うのであります。

[2006年5月28日]

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