富山鹿島町教会

ペンテコステ記念礼拝説教

「私共の真の喜び」
イザヤ書 14章12〜17節
ルカによる福音書 10章17〜20節

小堀 康彦牧師

 今日は、ペンテコステ記念礼拝です。イエス様がご復活されて50日目に、主イエスの霊、神の霊である聖霊が弟子達に降りました。その出来事を記念する礼拝です。ペンテコステという言葉は、元々は50日という意味の言葉でしたが、今は50という意味は薄くなりまして、この出来事を示す「聖霊降臨日」と訳されております。この日に起きた出来事については、使徒言行録の第2章に記されております。少し思い起こしてみましょう。主イエスは十字架にかかり、三日目に復活されました。そして、40日の間、その御姿を弟子達に示し、又、教えられました。そして、天に昇られました。それから10日して、弟子達に聖霊が降ったのです。この10日間、弟子達はイエス様が天に昇られたので、肉眼で主イエスを見ることは出来ませんでした。しかし弟子達は、聖霊が降り、地の果てに至るまで、主イエスの証人となるとの約束を信じ、祈りつつ待っていたのです。そして、ついに主イエスの復活から50日目、主イエスの昇天から10日目に、弟子達の上に聖霊が降ったのです。この日、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、…炎のような舌が…一人一人の上にとどまった。」と聖書は記します。どういうことが起きたのかイメージしづらいのですけれど、この表現は旧約以来、聖霊を表す「風」と「炎」という言葉を用いて、聖霊が降ったということを表現しているのだと思います。そして、弟子達は当時の全世界と考えられる様々な言葉で語り出しました。この日はユダヤ教の祭りの日でもありましたので、全世界からエルサレムに巡礼の人々が集まっていたのですが、その人々の前でその人々の国の言葉で弟子達が語り出したのです。その語られた内容は、「十字架にかけられた主イエスこそ救い主であり、彼は三日目に死人の中から復活し、神の右に上げられた。そして、今、聖霊を私達に注いで下さった。あなたは悔い改めて、主イエスの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」というものでした。そして、その説教を聞き、悔い改め、その日洗礼を受けた者は三千人であったと聖書は記しています。これが、二千年前に起きた、ペンテコステの日の出来事です。

 このペンテコステの出来事をもって、キリスト教会が誕生したと、私共は考えております。今日は、教会学校では教会のお誕生会をいたしました。お誕生会ですから、おいしい物を食べました。今回は、フルーツパフェを作って食べました。教会というものは、実に人間の計画や努力によって生まれたのではなくて、聖霊なる神様が弟子達に注がれて誕生したのです。このことは、今も同じなのです。私共は教会というものを、どこか人間の力で盛んにしたりすることが出来るかのように考えてしまう所がありますが、それは全くの間違いです。キリストの教会というものは、いつでもどこでも、聖霊なる神様によって生まれ、建てられ、守られ、導かれているのです。もちろん、聖霊なる神様は見えません。しかし、この見えない聖霊なる神様が弟子達、つまり私共の上に注がれ、主イエス・キリストを証しし、夢を与えられ、導かれ、歩んでいるのです。聖霊は、ペンテコステの日に初めて現れた訳ではありませんし、この日だけ弟子達に注がれたわけではありません。旧約以来、聖霊は神の民の上に注がれてきました。天地創造以来、聖霊なる神さまは三位一体の神さまとして、いつもおられました。そして、旧約以来いつも神の民と共におられたのです。神の民は、いつも聖霊の導きの中にあったのです。今もです。ただ、このペンテコステの出来事によって、その働きが明確に示されたということなのでありましょう。
 では、その働きとは何か。それは今ペンテコステの日に起きた出来事を思い起こし、明らかにされましたように、主イエス・キリストがまことに救い主であり、この方を信じて洗礼を受け、罪を赦されよと告げ知らせることであります。この営みの上に、聖霊の働きは明確に現れるのであります。
 皆さんは、現在、キリスト者が世界中にどれだけいるかご存知でしょうか。これは統計上の数字ですから、おおよそのことでありますが、世界の人口が55億人としますと、19億人がキリスト教、10億人がイスラム教、7億人がヒンズー教、3億人が仏教ということになっています。この数字は、二千年の間、キリスト教が全世界に向かって、聖霊の導きの中で、聖霊なる神様の御支配の元で、主イエス・キリストの救いを宣べ伝えた結果なのです。そして、その営みは、今も続いています。私共の教会では、残念ながら、今日洗礼を受ける人はいませんけれど、目を全世界に向けるならば、全世界で今日洗礼を受けている人、新しくキリスト者となる人が、多分何十万人、或いは何百万人と居るはずなのです。これは19億人/60年/365日≒10万人という単純計算から想像できます。私共は、今もキリストの弟子達の上に聖霊は注がれ、働いていること。聖霊なる神様の御業の中で私共が生かされていることを、忘れてはならないのです。
 もう一つの数字を紹介しましょう。これは2004年の数字ですが、私共が手にしている聖書、これは元々、旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシャ語で書かれているのですが、これが一体どのくらいの言語に翻訳されているか。聖書協会世界連盟によりますと、私共が手にしている様な、旧・新約全てそろった形で422の言語。これは、全世界の主な言語の全てを網羅しています。新約だけ、旧約だけという形で1,079の言語。更にルカによる福音書だけとか、創世記だけとかいう分冊の形で876の言語。この新約だけ、旧約だけ、あるいは分冊というのは、現在も翻訳が続行中であるということなのですが、それが合計で1,955の言語となります。これは、この言葉を使っているのは、5千人、1万人しかいないという、少数民族に対しての翻訳がこのような、おびただしい数の翻訳を生んでいるということです。すでに全てを翻訳した言語422と合わせますと、実に2,377の言語に聖書は翻訳され、今も翻訳され続けているということなのです。これは驚くべき数字でしょう。これは、ペンテコステの日に起きた、全ての民族の言葉で弟子達が主イエスを証ししたという出来事が今も継続しているという、一つのしるしであると言って良いだろうと思うのです。

 「聖霊がよく判らない。」という質問をよく受けます。私自身、洗礼を受けてもしばらくの間、正直な所よく判りませんでした。天地を造られた神様がおられる。これは判る。イエス様も福音書に書いてあるから判る。しかし、聖霊なる神様というのは、何ともつかみ所がない。それは、その通りなのです。聖霊なる神様が判るというのは、私共が神様を信じ、イエス様を信じて生きていく中で、「ああ、これも神様の導きだったのか。神様の守りの中にあったのか。」そういう体験を通して、少しずつ目が開かれていくことだからです。この目が開かれていきますと、ここにも聖霊なる神様の働きがある、あそこにもあるという風に、実に私共の周りには、聖霊なる神様の御業だらけだということに気付いていくものなのです。私共が祈る、「主よ」と神様に呼びかける時、私共はすでに聖霊なる神様の御業の中にありますし、私共が主イエスを伝えたいと思えば、そこにも聖霊なる神様が働いているのです。また神さまの御業に仕えたい、用いられたいと思うならば、そこにも聖霊なる神様が働いているのです。
 私共が何故、聖霊が判りづらいのか、考えたことがあります。私共は聖霊は判らないのですけれど、不思議なことに悪霊と言うと判る。「あなたは悪い霊に憑かれています。」なんて言われると、不安になります。テレビだって映画だって、悪霊を扱ったものは、いつでもやっています。問題はここからです。悪霊を追い出すのに、どうするかといいますと、祈祷師なる人が出て来て、何か呪文を唱える、お祓いをする、そうすると出て行くのです。聖霊はここでは出てこないのです。何故、私共は聖霊が判りづらいのか。それは、私共日本の文化の中に聖霊はなかったからなのです。日本は、まだ聖霊を知りません。悪霊しか知らない。だから判らない。馴染みがないからです。呪いは判るけれど、祝福が判らないということも、同じなのです。私共は祝福を告げる者です。呪いを告げるのではありません。悪霊の支配から、聖霊の支配の中に生きる者へと、人々を取り戻すのです。「呪いから祝福へ」「悪霊から聖霊へ」です。この業に仕えることが、聖霊の道具として、神さまの救いの業に用いられるということなのです。
 人は何故苦しむのか。それは悪霊の支配にあるからです。この悪霊が、私共の中にある罪と響きあって、神様の御支配の中に生きることを拒んでいるからなのです。この闇を打ち破り、まことの神の光が私共の中に射してきて、私共を全き光の中に生きる者として下さる方。それが聖霊なる神様なのです。この聖霊なる神様の光の中で、私共は自らの罪を知ります。知るだけではなくて、それを悔いる者となります。そして、自らの罪と戦い、神様の御心に従う者とされていく。その全ての営みが、聖霊なる神様の働きなのです。そこには自由があります。人をうらやんだり、ねたんだり、人を責めたり、憎んだり、人を見下したり、バカにしたり、自分は正しく、相手は間違っている。そのような心の動きの中で、私共は悪霊の支配に入ってしまうのです。しかし、聖霊は、そのような私共に悔い改めを求めます。自分の非を認め、神様に赦しを求め、人を赦し、人を愛し、人に仕える者として生きることを求めます。この聖霊なる神様の促しを受け入れる時、私共の中に神の光が入り込んでくるのです。
 しかし、そうは言っても、私共の中の罪は簡単には降伏しません。何か何かと理由を付けては、神様に従うのではなく、自分の欲、自分の自尊心を満足させようとします。そこに戦いが起きます。それが、信仰の戦いです。この戦いは、すぐに終わるようなものではありません。しかし、聖霊なる神様の助けを求めて、祈りつつ歩む中で、この戦いは必ず勝利するのです。この戦いを放棄すれば負けます。しかし、祈りつつ、聖霊の助けを求めていくならば、この戦いは、必ず勝利します。そういうことになっているからです。天地を造られた神の霊、三日目に死人の中から甦られたキリストの霊である、まことの神なる聖霊が、悪霊に敗れることはあり得ないことだからです。私共はそれを信じて良いのです。

 聖書は、このように告げています。17節「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。』」主イエスによって遣わされた72人の弟子達。彼らは主イエスの御名を伝える為に、神の支配が来ていることを、神の祝福を告げる者として遣わされました。彼らは、悪霊の支配の中にあった者、罪の苦しみの中にあった者を、主イエスの御名によって、聖霊の力をもって解き放ちました。自由にしたのです。悪霊を追い出したのです。彼らは手応えを感じたことでしょう。主イエスの御名の力、聖霊なる神さまの力を知らされたことでしょう。そして、喜んだのです。しかし、主イエスは報告を受けて、こう答えました。18、19節「イエスは言われた。『わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。』」これは、すでに悪霊による支配の時は終わった。最早、キリストの支配に敵対し得る者はいないということを示しています。私共に害を加えるものは何一つないのです。そういうことになっているのです。主イエスの御名を宣べ伝える聖霊の御業を何ものも止めることは出来ないし、その業に仕える者に害を加えることが出来るものも何一つない。そう、主イエスが宣言してくださっているのです。ですから、安心して良いのです。
 しかし、この戦いは先程も申しました様に、簡単に終わりになることはありません。そこで私共は、ついつい目の前に起きることに一喜一憂することになってしまいます。しかし、このことについて私はいつも先輩の牧師に教えていただいた一つの譬えを思い出すのです。それは、関ヶ原の戦いです。「主イエスの十字架と復活によって、すでに、関ヶ原の戦いは終わった。徳川の勝利は決まっている。しかし、まだ残兵は残っている。残兵と言えども、なかなか手ごわい。時には一対一では負けることもあろう。しかし、もう勝利は決まっている。それが覆ることはない。」というものです。すでにキリストの勝利、神の勝利は決まっているのです。サタンは稲妻のように天から落ちたのです。ですから、私共はもう目の前のことに一喜一憂することはないのです。私共は目を天に向けなければなりません。主イエスは言われます。20節「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」私共は伝道が進展すると喜び、少しでも停滞すると心配になります。そして、いつの間にか、伝道という聖霊の御業を自分の努力、自分のに業であるかのように錯覚してしまうのです。私共は主の御業に仕えるのです。そして、主の救いの御業を見せていただきます。それは喜ばしいことです。本当に嬉しいことです。しかし、主はそんなことで喜ぶな、もっとあなたに変わることのない喜びを与えるものがあるではないか、そこに目を向けよ、と言われるのです。それは、私共の名が、天において、救われることになっている者の名簿に記されていることです。「私共はすでに救われることになっている。」今、どんな状況の中に生きていようとも、そういうことになっている。そのことに目を注いで喜べと言われるのであります。
 私共は、今から聖餐に与ります。この食卓は、天において私共が与ることになっている神様と共にいただく食事の先駆けです。私共が、神の食卓に与ることになっていることを示しているのです。私共の名が天に記されていることの「しるし」なのです。この聖餐に与り、私共の救いの確かさを心に刻み、聖霊の導きの中で、共々に主の御名を宣べ伝えていく業に遣わされてまいりたいと思うのです。

[2006年6月4日]

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