富山鹿島町教会

礼拝説教

「御名が崇められますように」
イザヤ書 8章11〜15節
ルカによる福音書 11章1〜4節

小堀 康彦牧師

 先週から「主の祈り」について、御言葉を受けております。今朝は、「主の祈り」の第一の祈り、「御名が崇められますように」です。私共が慣れ親しんでいる言葉ですと、「御名を崇めさせたまえ」ということになります。翻訳の問題ですが、「御名が崇められますように」の方が判りやすい日本語かと思いますので、今日の説教の中では「御名が崇められますように」という言葉を使おうと思います。
 この「主の祈り」において驚くのは、まず最初にこの「御名が崇められますように」と、神様の為に祈るということであります。私共の思いの中で、「祈る」ということを考えます時に、神様の為に祈るということはまず出てこないのではないかと思います。私共は祈るといえば、すぐに自分の願いを思うのだろうと思います。しかし、主イエスは何よりもまず最初に神様の為に祈るということを教えて下さったのであります。しかし、ここで思うことは、神様は私共に祈ってもらわなければならないような方なのだろうかということであります。神様は完全であり、何も私共の祈りを必要とされるような方ではないはずなのであります。私共に祈っていただかなければならないようなお方ではないのです。だったら、どうして主イエスは、まず最初に神様の為に祈るということを私共に教えられたのでしょうか。この「主の祈り」とは、何よりも私共の為に主イエスが与えなれた祈りです。主イエスが、私共人間の為に、祈るということはこういうことだと教えて下さった祈りなのです。ということは、このまず最初に神様の為に祈るということの中に、私共が祈るということは何であるか、どういうことなのかということが示されている。そういうことなのではないかと思うのです。

 「御名が崇められますように」との祈りは、直訳しますと、「御名が聖とされますように」となります。神様ご自身は聖なる方です。その聖なる方が、まことに聖なる方とされますようにと祈るというのです。それは言い換えれば、神様が神様とされますようにということになるだろうと思います。神様が神様とされる、神様が聖なる方とされるということです。逆に言いますと、神様が神様とされていない、神様が聖とされていない、そういう私共人間の現実があるということなのであります。神様を神様としていない。それは、神様を侮っているということでもありましょう。あるいは、神様以外のものを神としているということでもあります。この祈りは、まずそのような人間の現実から決別するということを私共にうながすのであります。
 先週の礼拝において、私はキリスト者となるということ、キリスト者であるということは、「主の祈り」を祈ることだ、「主の祈り」を自分の祈りとして祈りつつ生きるということだと申しました。まさに、この「御名が崇められますように」との祈りを祈る中で、私共は神を神とする、神以外のものを神とはしない、そのような者として生きることになるのであります。この祈りは、そのような者として生きる道を私共の前に開いていくのです。もうお気付きかもしれません。この「主の祈り」の第一の祈りは、十戒の第一の戒、「あなたはわたしのほか、何ものをも神としてはならない」と対応しているのです。主の祈りの第一の祈り、「御名が崇められますように」と祈りつつ生きる時、私共は十戒の第一の戒である「あなたはわたしのほか、何ものをも神としてはならない」を全うすることとなるということなのであります。
 御名が崇められることを祈る者。それは、神を神とし、人間を人間とする者であります。まことに、この祈りに導かれる中で、私共は本来の自分を取りもどし、神様とのあるべき関係を回復するということが起きるということなのであり、この祈りを祈り続ける中で、私共はその神様との関係を保持し続けることが出来るということなのであります。こう言っても良いかもしれません。この「御名が崇められますように」という祈りを知る者は、自分を神とすることはない、出来ない。

 「祈り」とは、本来祈る者を神様の御前に小さくするものです。神は神であり、人は人である。自分は人であって、神ではない。この当たり前の所に人間を立たせるものなのです。しかし、しばしば人間はこの祈りの中でも罪を犯すのです。自分が神になるということが起きるのです。具体的に考えてみましょう。私共が何かお願いごとをするとします。この時、願っている自分が主であって、願いごとをかなえる神様は主人である私共の召使いになってしまう。そういうことが起きないでしょうか。ここで「魔法のランプ」の話しを思い起こしていただければよいと思います。ランプの精は力があり、どんな願いでもかなえることが出来ます。しかし、それはランプの持ち主であるご主人様の言うことを聞かなければならないのです。祈りの中で、一歩間違うと私共と神様との関係が、ランプの精とランプの持ち主のような関係になりかねないのです。そこでは、神様の御心などというものは関係ない。とにかく、自分のこの願いをかなえてくれればよい、ということになります。こうなりますと、祈りの中で私共は自分を見失い、自分が神になるということになってしまうのです。まことに恐ろしいことでありますが、私共が神様に向かって「父よ」と呼びかけることを知らなかった時、「御名が崇められますように」と祈ることを知らなかった時、私共の祈りは、そのようなものになっていたのではないでしょうか。
 或いは、私共は自分の目に確かと思えるものを、神様以上に信頼してしまうという罪を犯してしまう。それが金であったり、力であったりします。先程お読みいたしましたイザヤ書8章には、神様に頼らず、同盟という手段によって国を守ろうとしたイスラエルに対しての非難が記されています。そうではなく、神を神とする。神様を聖なる方とする。神様だけを信頼し、頼る。そこにだけ人間の正しい道があることを告げているのです。

 私共は計画を持ちます。これをしたい、こうなったらいいのに、様々な思いの中で計画をし、実現していこうとします。その思いが真剣であればある程、私共はその計画、思いにとらえられます。それが実現しなければ、自分が生きていることさえ意味がないかのように考える程に、そこに囚われていきます。若い人にとっては、受験や就職や恋愛がそうかもしれません。大人になれば自分の仕事や子供のことがそうかもしれません。そのような何かに囚われた心の中で、何としても実現したいという思いの中で、祈りというものに至るということもあるのだろうと思います。しかし、本当は、私共は祈りの中でそのように囚われている自分の心から自由になるということが起きるはずなのです。祈りは、私共を自由にするのであって、何かに囚われた心をいよいよ強くするというものではないはずなのであります。しかし、そうならないことがしばしば起きるのです。私はこのことをこれだけ祈ってきたのだから、こうなるはずだ、こうならなければ困る。祈れば祈るほど、そのことに心が囚われていくということだって起きるのです。しかし、私共の祈りはそのような祈りで良いのか。まさに「御名が崇められますように」との祈りは、私共をその祈り願っていることからさえも自由にする、そういう祈りへと私共を導いていくものなのです。神は神であられる故に、神様には神様のご計画がおありになる。そのことの前に、私共は自分を小さくする。そのような祈りなのであります。
 先週、私は月・火と北陸学院短大の食物栄養科のバイブルセミナーに行ってまいりました。二つの講演をしてきましたが、あまり眠っている人はいなかったので、ホッとしましたが、その講演の合間にマザー・テレサの映画を見ました。この映画も講師として指定しなければならなかったのですが、自分が見たいと思って見られなかった映画を指定させてもらいました。とても良い映画でした。ほとんどカトリック教会の伝道集会のような映画でした。献身するということ、祈るということ、いろんなことを考えさせられました。いくつもの場面が心に残っておりますけれど、その中で、マザー・テレサが何度か口にした言葉がありました。「出来ないということは、御心ではないということ。それだけのこと。」心をこめ、知恵を集め、こうすることが御心なのだと信じて計画を進めていく。しかし、マザー・テレサにしてもそれがみんな成功して軌道に乗っていく訳ではないわけです。そういう時に、彼女の口から出た言葉です。私はその言葉に打たれました。この人は本当に祈りの人だったのだと思わされました。「御名が崇められますように」との祈りの中で生きた人だったと思わされました。「出来ないということは、御心ではないということ。それだけのこと。」自分の願いや計画が成就していくことよりも、神様の御心が現れることを願う。自分は神様の鉛筆。私共が何かをする、出来る、それ以前に神様の御心があるのです。
 以前、前任地の地区の集会にFEBCの吉崎恵子さんに来ていただいたことがありました。その時、吉崎さんがご自分のお母さんの話をされました。この方は牧師夫人として生きられた方だったそうですが、高齢になられたお母さんを吉崎さんが介護されていた時に、お母さんにたずねたそうです。「お母さんの一番の願いは何?」お母さんは、今さら何を言っているのという顔をされて、「御名が崇められますように。それしかないでしょ。」と少し怒ったように言われたそうです。ご自分の宝箱を開けるようにして話して下さったことを忘れられません。

 「御名が崇められますように」。この祈りに生きる人は、自分の栄光を求めません。ただ神にのみ栄光があることを願うのです。自分の思いよりも、御心が現れることを喜ぶのです。ここに生まれるのが、「ささげる」という新しい生き方なのです。何かを手に入れる為に生きるのではなく、神様の為に自分が与えられている全てをささげることを何よりも喜ぶ者となる生き方です。主の祈りは、そのような新しい人間を生み出していく祈りなのです。
 「ささげる生き方」、それは「仕える生き方」と言っても良いでしょう。私共は互いに仕え合う者として神様に造られました。しかし、いつの間にか支配し合うようになってしまいました。そこに争いが生まれました。新聞を開くたびに、私共は新しい争いを目にします。人と人、国と国とが争っています。神様の栄光ではなく、自分の栄光ばかりを求めているからです。悲しいことです。しかし、その世界の中に主イエス・キリストが来られました。そして、主イエスは「主の祈り」という武器を私共に与えて下さいました。この祈りによって、この祈りに生きることによって、この互いに争っている世界の中で闘うことを教えられたのです。主イエス・キリストこそ、「御名が崇められますように」との祈りの中で生きるとはどういうことなのかを、その歩みにおいて私共にお示し下さいました。
 人は誰を、何を崇めるかによって変わっていきます。神様を崇める者は、神様に似た者に変わっていくのです。その完全な姿が、主イエス・キリストにあるのです。  御名を崇める。それは、神様を賛美すると言い換えることも出来るでしょう。私共自身が、そして神様に造られたもの全てが、神様を賛美する。それこそ、御心にかなったことであります。何故なら、全てのものは神様を賛美する為に造られたからです。全ての被造物が神様を賛美する、主をほめたたえるということは、天地創造の時の神様の御心であると同時に、終末において完成される全ての被造物の姿でもあります。世界は罪の故に、その姿を失いました。今はまさにそれを回復しようとしている時なのです。そういう時にささげられるべき私共の祈りは、「御名が崇められますように」、「主がほめたたえられますように」との祈りなのであります。この祈りに導かれ、私共は主を賛美する者、主を崇める者へと変えられていくのです。
 ある音楽をしている方と話しておりまして、「賛美するということが判らない。」と言われたことがあり、答えに困ったことがあります。「讃美歌を歌うことですか。」と言われて、そういうことではないのですがと言うしかなかったのです。音楽とは、文字通りには音を楽しむということになります。良い演奏をしたり、歌ったり聞いたりするのは楽しいことです。しかし、それが賛美ということにつながるとは限りません。賛美というのは、主をほめたたえること、主を崇めること、主に祈ること、そこに音楽が用いられることでしょう。そこには「主」がおられるのです。主に向かって、主にささげられるものなのです。ですから、音楽をすることだけが、主を賛美することではないのです。この礼拝の始めから終わりまで、主をほめたたえているのですし、この礼拝の心をもってそれぞれ遣わされている所で生きる時、私共は主をほめたたえているのです。「御名が崇められますように」との祈りは、私自身が、そして神様に造られた全てのものが神様をほめたたえて、賛美して生きていくことが出来ますようにと祈ることなのであり、神が神となり、人が人となることにより、神様に造られた本来の姿をこの世界が回復していきますようにという祈りなのであります。
 私共は「主の祈り」を知っています。いや、知らされています。この祈りを知らされた私共は、この祈りに導かれ、この祈りによって示された健やかな神様との交わりの中に生きるのであります。そしてそれは、この世界にあって、世の光、地の塩としての存在とされているということなのでありましょう。まことに、恐れ多いことでありますけれど、この一週間、この祈りと共に、この恵みの中を歩ませていただきたいと、心から願うものであります。

[2006年7月16日]

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