富山鹿島町教会

礼拝説教

「和解への道」
創世記 33章1〜20節
ローマの信徒への手紙 5章8〜11節

小堀 康彦牧師

 アドベントの第三週を迎えています。来週はクリスマスを迎えます。週報にありますように、教会学校では、昨日の夜に中高生のクリスマス会が行われ、今日の午後には子供のクリスマス会が行われます。教会にクリスマス・カードも届いています。まだクリスマスではありませんが、すでにクリスマスの喜びの中を歩んでいる私共であります。クリスマスに向かって歩む私共は、改めて、神様が御支配される私共の人生、私共の歴史というものは、和解へと至る、和解へと導かれていく、そういうものであることを覚えるのであります。聖書は天地創造の記事から始まりますが、人類の歴史はアダムとエバによる失楽園、食べてはいけないと神様に言われた木の実を食べてしまって、罪を犯してしまって、神様との親しい交わりを与えられていた楽園を追放されてしまったという所から始まっております。神様と人間との間の溝、罪という壁。これが次の、アダムとエバの息子であるカインがアベルを殺すという出来事へと展開していきます。この兄のカインが弟アベルを殺すという兄弟殺しの出来事の中に、聖書はその後の人類の歴史、私共の人生の歩みの全てを見ていると言っても良いのであります。この本来愛し合うべき兄弟が、互いに争うという現実。ここに救われるべき道があるのか。癒されていく道があるのか。聖書は、その互いに相争う私共の為に、主イエス・キリストは来られた、和解を与えられるために来られた、そう告げているのであります。カインとアベルの争いの根本に、その親であるアダムとエバによる神様との関係の崩れがあったとするならば、主イエス・キリストの到来は、まずこの神様と私共との関係を築き直す。和解へと至らせる。そしてそのことによって、私共の兄弟との関係も又、和解へと至らしめるということなのであります。実に、聖書が告げている神様の救いの歴史は、人類を、私共を和解へと至らしめる、そういう目的、ゴールを持ったものであるということなのであります。私共は、歴史というものは大きく言えばその時その時の政治的、軍事的、経済的力関係によって決まり、個人的にもその時の人間関係や状況によって決まり、動いていくものだぐらいにしか考えていない所がある。しかし聖書は実に、歴史には目的があり、ゴールがある。そして、それは「和解」なのであると告げているのであります。私共が生きる、生かされているというのもそういうことなのです。私共を和解へと導いていこう、和解へと至らしめようという神様の御心、神様のご決断があるということなのであります。そのような神様の御心の中で私共は今という時を生かされているということなのであります。

 今朝私共に与えられている創世記33章は、弟ヤコブと兄エサウの再会の場面が記されています。彼ら二人が離れてから20年が経っていました。ヤコブが兄エサウのもとから離れたのは、ヤコブが兄エサウの長子の特権も父イサクからの祝福もだまして奪い取ってしまったからでした。兄エサウは憎い弟ヤコブを殺そうとした。だから、ヤコブは逃げたのです。これは言うなれば、父親の財産や相続、跡継ぎをめぐっての兄弟の争いであったと言っても良いだろうと思います。そう考えるならば、このヤコブとエサウの話に似たような話を私共はいくつも知っているでしょう。財産をめぐって兄弟が争う。よくある話です。しかし、このように仲違いした兄弟が和解する、それはよくある話ではありません。財産をめぐって争うことになった兄弟が再び和解するということがどんなに難しいことであるかを私共は知っています。多くの場合、私共はこの様な関係においては和解するということを諦めるのだと思います。いや諦めるというよりも、この人とのことは考えたくもないこととして忘れ、捨て去ろうとするのではないかと思います。
 ところが今朝私共に与えられている御言葉が告げていることは、そのような私共の思いとは正反対のことなのです。ヤコブとエサウは和解したというのです。4節「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」とあります。ヤコブとエサウが仲違いをしてから20年。20年ぶりの再会の場面は、実に美しい和解の場面となっているのです。これは私共とは関係ない、遠い昔の、異国での出来事なのでしょうか。そうではありません。確かに、このヤコブとエサウの話は、三千年以上昔の、パレスチナにおける話です。しかし、これは聖書の話なのです。神様の救いの歴史の一コマなのです。とするならば、この出来事の背後にあるのは、神様の御心であり、その神様の御心は、今も変わることなく私共の人生をも導いているものなのであります。この御心が明確な形として現れたのが主イエス・キリストの到来、クリスマスなのであります。

 私共が不思議に思うのは、どうしてヤコブがわざわざエサウと和解する為に戻って来たのかということではないでしょうか。ヤコブは母リベカの故郷において家族も与えられ、財産も与えられた。確かに自分の妻たちの父、伯父のラバンとの関係は悪くなりました。ですからいつまでもそこに居るわけにはいかない。そういう事情はあったでしょう。しかし、何もわざわざ兄のエサウの所に来て和解する必要はなかったのではないか。ヤコブの仕事は放牧です。放牧というのは、この土地でなければ出来ないというものではありません。水と草さえあればどこでもいいのです。三千年以上前のこの地方には、今私共が考えるような、領土を持ち、統治機構を持つような国家は存在しません。人口だって、今の何十分の一、何百分の一でしょう。土地はいくらでもあるのです。ヤコブは家族を連れて何処に行くことも出来たのです。しかし、ヤコブは兄エサウと和解する為に戻って来たのです。先週見ましたように、ヤコブにはエサウは自分を赦してくれないかもしれない、憎しみは解けていず自分は殺されるかもしれない、そんな恐れ、不安があったことが32章には記されています。ですから彼は神様と格闘し、祈りに祈ったのです。しかし、どうしてそこまでして、彼は戻ろうとするのでしょうか。エサウと和解したいと願ったのでしょうか。
それは28章にある、ヤコブが故郷を離れる時に与えられた神様の約束の言葉に戻らねばなりません。28章13節「わたしは、あなたの父祖、アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。」ここに、「この土地を与える」とあります。15節「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」ここに「必ずこの土地に連れ帰る。」とあります。神様のこの約束によって歩み出したヤコブの20年間の歩みでした。この約束の故に、ヤコブはアブラハム・イサクに神様が与えると約束され、そしてヤコブに約束したこの土地に戻ってこなければならなかったのです。ヤコブが神様の祝福を受け継ぐ者である以上、どうしても、ここに戻らなければならなかった。そして戻る為には、兄エサウとの和解がどうしても必要であったということなのです。彼が神様の祝福を受け継ぐ者である以上、神様の祝福を受け継ぐ者であることを止めにしない以上、どうしてもこの和解を避けていくことは出来なかったということなのであります。もし、ヤコブが神様の祝福を受け継ぐ者であることをやめてしまうということであるならば、話は別であったかもしれません。しかし、ヤコブは「自分は神様の祝福を受け継ぐ者である」という思いを捨てることは出来ませんでした。そうである以上、この和解を避けることは出来なかったということなのであります。

 この神様の祝福の地、神様の約束の地、これは私共にとって「神の国」と読み替えて良いでしょう。私共が神の国に入ろうとするならば、私共も又この和解を避けて通ることは出来ないということなのではないでしょうか。この神の国への和解というものには、二つの側面があります。第一には神様との和解です。そして第二には人との交わりにおける和解です。
 第一の神様との和解の為に、主イエス・キリストはクリスマスに馬小屋でお生まれになり、十字架にかかり、三日目によみがえられました。この主イエス・キリストの御業により、私共の罪は赦され、神の子とされ、神様との和解を与えられました。まことにありがたいことであります。そして、第二の和解であります。神様との和解は、私共に隣り人との間の和解を求めるのであります。このことは、これはちょうど、ヤコブが兄エサウと再会する前に、神様と祈りの格闘をなし、神様からの祝福を受けたことにより、神様との和解が与えられ、それに続いて兄エサウとの間の和解へと事柄が進んでいったということで示されていることです。ヤコブは神様からの祝福を受けた。ああ、よかった。それで終わりではないのです。神様の祝福を受けたヤコブは具体的な兄エサウとの和解という場に一歩を踏み出さなければならなかったのであります。
 ヤコブはここで、いろいろと作戦を立てます。1、2節「ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。ヤコブは子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女とに分け、側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。」これは明らかに、ヤコブにとって大切な者ほど後ろに置いて、いざという時に助けたいというヤコブの心の表れでしょう。こういう所を読むと、ほとほとヤコブという人は嫌な奴だというふうに思ってしまいます。でも3節「ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。」とあるように、その先頭に自分が立ったという所で、少しほっとします。ヤコブは兄エサウと会うに際して、七度地にひれ伏した、とありますが、これは王様に対して行う僕のあいさつの仕方であったと言われています。ヤコブは、すでに32章15、16節にある、おびただしい数の家畜をエサウのもとに贈っています。エサウはヤコブと会う前に、これを目にしています。そして、目の前のエサウです。ヤコブは最大限の尊敬を表すしぐさでエサウの前に出ています。そして4節「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた」のです。確かにヤコブは人間の知恵としての作戦を立てました。贈り物であり、逃げる算段にしろ、会った時のしぐさにしろ、いやらしいくらいに計算しています。兄エサウに対しては「ご主人様」と呼ぶほどです。しかし、この計算通り、エサウは動いたということなのでしょうか。そうではないと思うのです。もちろん、この時ヤコブがエサウに対して偉そうな態度をとれば大変なことになっていたでしょう。売り言葉に買い言葉で、再び争いに違いありません。その意味では、ヤコブの取った行動はいやらしい計算とばかりも言えないので、ある意味、和解を求める際の当然の知恵と言っても良いものだったのではないかとも思います。もっと言えば、悪いのはヤコブの方だったのですから、このくらいのことはしなければいけなかったのだろうと思います。なかなか、私共が和解することが出来ないのは、「悪いのはあなた、可哀相なのは私」と思っているから、どうしてもヤコブのようになれないからなのではないかとも思います。頭を下げてくるのはそっちで、どうして自分から頭を下げなきゃいけないのか。お互いにそう思ってしまうところでは和解は起きないのでしょう。しかし、この和解の出来事が告げているのは、それ以上のことなのです。ヤコブは、エサウが自分を憎んでいるとばかり思っていた。しかし、そうではなかったということなのです。 「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた」のです。ヤコブが思っていたのとは違う反応をエサウはしたのです。

 私はここで放蕩息子のたとえ話を思い出すのです。財産を全て使い果たして家に戻った放蕩息子を待っていたのは、彼を遠くから見つけて走り寄り、首を抱き、接吻する父だったのです。もう、お前など私の息子でも何でもないと言われるかと思って帰って来たのに、父はそのようには迎えませんでした。父はこの息子の為に晴れ着を着せ、履物を履かせ、指環をはめさせ、子牛をほふって祝いの席を設けたのです。悔い改め、和解を求める私共の為に、神様は私共の思いを超えた祝福をもって応えて下さるのであります。悔い改めたヤコブをエサウは喜び迎えたのです。これこそ、神様がヤコブに備えていた祝福だったのであります。私共にも、このような神様による祝福が備えられているのです。そう信じて良いのです。何故なら、主イエス・キリストが来られたからです。主イエスは私共と神様とを和解させる為に来られました。そして、事実、私共は神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来る者とされたのです。そうである以上、私共には隣り人との和解も又、備えられているはずなのであります。
 毎年、クリスマスを迎えようとしているこの時期、今年は悪いニュースではなく、喜びのニュースの中でクリスマスを迎えたいと思う。しかし、残念ながら、世界中に今年も又悲惨な現実が満ち、その様なニュースばかりが目に飛び込んできます。国と国とが争い、民族と民族が争い、銀行と企業が争い、家庭の中にも様々な争いがある。しかし、このクリスマスを迎えようとする時期、私共は和解する者として、平和を造り出す者として召されているのであり、和解こそ神様が私共に与えようとされているものであることを知らされているのです。神様は全能の力をもって、その和解への道を私共に備えて下さっている。そのことを知る者として、地に平和があるように祈りつつ、和解する者として、この一週も主の御前に歩んでまいりたいと願うのであります。

[2006年12月17日]

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