富山鹿島町教会

礼拝説教

「後の者が先に、先の者が後に」
詩編 107編1〜9節
ルカによる福音書 13章22〜30節

小堀 康彦牧師

 「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。」(22節) 今朝与えられた御言葉において、ルカによる福音書はそう語り始めます。主イエスは様々な教えを語られました。様々な御業を為されました。それらは、主イエスがエルサレムに向かって進んで行かれる途上において、お語りになられたことであり、為された事であったと言うのです。ルカによる福音書は、時々このように、主イエスはエルサレムに向かって進んで行かれる中で様々の御業を行い、教えを述べられたのだということを思い起こさせるような言葉を、ひょいっと入れるのです。今、その一つ一つ挙げることはしませんけれど、6ヶ所ほどその様なところがあります。エルサレム、それは言うまでもなく、主イエスが十字架におかかりになり、よみがえられた所です。ルカは、主イエスの御業と御言葉が、まさに十字架への歩みの中で為され、語られたことであるを忘れてはならない、そう私共に語ろうとしたのでありましょう。主イエスの御業や御言葉、それを単に主イエスは不思議なことをされたとか、主イエスの教えは素晴らしい教えだといって感心するだけでは駄目なのです。そうではなくて、主イエスの御業と御言葉とは主イエスの十字架と復活の出来事との関連の中で受け取らなければならない。そうルカは告げようとしているのでありましょう。
 この22節の「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。」という一文を聞いて、皆さんはどう感じられるでしょう。主イエスの置かれていた緊迫した状況、自分の十字架を見すえながら教えを語っておられる緊張した主イエスのお姿を思い描くのではないでしょうか。このことはとても大切なことなのです。それは、主イエスの教えというものの重大な特徴がここに示されているからです。主イエスの教えというものには、もう時間がない、そんな緊迫したものがあるのです。それは、呑気に会話を楽しむなどというようなこととは全く別のものです。そこには、私共の命がかかっている。私共が主イエスの御言葉と相対する時、何よりも心に刻んでおかなければならないのはこのことなのです。主イエスの言葉には、私の命がかかっている。私の救いがかかっている。その緊迫した思いの中で受け取らなければ、私共は主イエスの教えの肝心な所を聞き逃してしまうということになるのです。主イエスがエルサレムに向かって進みながら、自らの十字架に向かって歩みながら語られた教え、それは文字通り主イエス・キリストご自身が自分の命をかけて語られたものなのであり、それ故私共も自分の命に関わる言葉として受け取らなければならないということなのであります。

 そのような思いの中で今朝与えられた御言葉に向き合ってみますと、主イエスに対して為された質問、23節「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」というのは、何ともノンビリしていると言いますか、間が抜けていると言いますか、呑気な感じがするのです。この質問が誰によって為されたのかは判りません。しかし、この問いには「私は救われるのでしょうか?」という、自分の命、自分の救いはどうなるのかという緊迫した感じがありません。この問いの背景には、ユダヤ人は神の民だから救われるが、異邦人は救われない、という思いがあったのかもしれません。あるいは、ユダヤ人の中でもファリサイ派のような熱心な者しか救われないのかという思いがあったのかもしれません。いずれにしても、「自分は救われるのか?」という問いとは、少し違うように思うのです。
 私も牧師をしていまして、これに似たような質問を受けることがあります。例えば、「洗礼を受けなければ救われないのでしょうか?」あるいは、「キリスト教徒だけが救われて、仏教徒は救われないのでしょうか?」といった質問です。私は牧師になったばかりの頃、このような質問には、とにかく相手が納得するように答えることが自分の使命であると考えて、一生懸命答えました。しかし最近は、このような質問に対しては、すぐには答えないようになりました。すぐに答える前に、「どうして、そのことを知りたいの?」と尋ねるようにしています。このような問いは、多くの場合、その人の個人的な、具体的な背景があるということを知るようになったからです。もし、その人が具体的な状況もなく、いわゆる知的好奇心だけで聞いているのならば、答えは決まっています。「神様に聞いてみなきゃ判りませんね。」です。それで終わりです。しかし、その人が自分の夫や家族の救いについて悩んでいるのなら、あるいは家族の中で自分だけが救われるということに抵抗感を持っているとするならば、答えは違ってきます。いずれにせよ、自分の命がかかっている、自分の救いがかかっている問いであるならば、牧師は真剣にこれと向き合わなければなりません。しかし、そうでないのならば、いくら牧師が真剣に答えても、それはその人にとって言葉の遊びでしかないのです。それは空しいことです。その様な人には、主イエスの救いについて、命について、そのような関わり方では何も判らないということを教えることの方が先決であり、大切なのでありましょう。
 そもそも、こういう人は救われ、こういう人は救われない。そんな自動的な分け方など出来やしないのです。先日、ある若い牧師からこんな質問を受けました。「ある信徒に、『死ぬ前に「ナムアミダブツ」と言って死んだなら救われるでしょうか。天国に行けるでしょうか』と聞かれたのですが、何と答えたら良いでしょうか。」というものです。これは皆さんにも、興味のある質問かもしれません。私は先程申しましたように、その若い牧師にはまず、「どうして、そのようなことが知りたいのですか、と聞きなさい。」と申しました。そしてこの問いが、自分は洗礼を受けてクリスチャンになった、礼拝にも集っている、しかし、幼い頃から育ってきた仏教的考え方のようなものが染み込んでいて、このような者が本当に救われるのだろうか。つまり、自分の救いの確信が揺れていて、そのような問いを出されているのなら、きちんとこれに向き合わなければなりません。そして、私ならこう答えますと言って、このように答えました。「あなたは洗礼を受けた。聖餐に与っている。礼拝に集い、『父なる神様』と祈っている。だとすれば、あなたはすでに『神の子』なのです。神様がそう見て下さっている。自分が神の子にふさわしいかどうか。それは、あなたが決めることではなくて、神様がお決めになることです。神様がそう見て下さる。そのことを信じて良い。それに、自分は死ぬ前に『ナムアミダブツ』と言うかもしれないなどと考えるのはおやめなさい。死ぬ時に、もう自分が意識がなくなる時にどう言うか。そんなことは誰にも分からないのですから。その時のことも、全て神様にお委ねして良いのです。そして、自分がどんな人間であるか、そんなことに興味を持つよりも、自分を救って下さった神様にもっと興味を持った方が良い。自分の中に良いものなんて無いのですから。」

 さて、テキストに戻りましょう。主イエスはこの「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」という質問に対して、以下の四つの点でお答えになりました。

 第一に、「狭い戸口から入るように努めなさい。」です。救いに至る道は狭い。誰でも彼でも入れる訳ではない。狭い戸口がある。この狭さは主イエス・キリストというお方を通らなければ入れない理解することが出来ます。自分の力で、自分が修行して潔くなって入るのではない。「主イエス・キリストによって」という狭さがあるのです。そして、そこから入る為に私共は努めなければならない。この「努める」という言葉は、ただ「努める」というのではなくて、もっと強い意味合いの言葉なのです。これは、競技場で走る者が賞を得る為に努力する、一所懸命に励む、そういう意味の言葉です。私共の信仰は洗礼を受けて、はい出来上がりというようなものではないのです。ここで私共は使徒パウロの言葉を思い起こすことが出来るでしょう。フィリピの信徒への手紙3章13〜14節「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」ある人が、このパウロの信仰を称して「前のめりの信仰」と申しました。主イエスによって与えられる御国を目指して、後ろのものを忘れ、全身を前に向けて、ひたすら走るのです。
 あるいは、「すべての重荷や、絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」です。罪が絡みついてくるのです。前に向かって歩み出そうとする私共の足に罪が絡みつき、私共の歩みを止めようとする。しかし私共は、その罪をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、かなぐり捨てて、走るのです。フィリピの信徒への手紙3章13〜14節とヘブライ人への手紙12章1〜2節には、御国を目指して走る私共の同じイメージが記されています。呑気に、救われる人は多いのか、少ないのか、そんなことに心を向けている場合ではないのです。主イエスが与えると約束して下さった神の国に向かって、一日一日歩み続ける、一所懸命走り続けるしかないのです。

 第二に、これは第一の点とつながりますが、時間が無いということです。25節「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。」とあります。これは、主イエスが十字架への歩みを為されていた緊迫感とも重なります。私共は、自分には時間はいくらでもあると思っているかもしれない。しかし、主イエスに向かって、神様に向かって決断しなければならない。いつまでも神様は待っていて下さるなどと、甘ったれた思いではダメだと言われたのです。今は仕事が忙しいので、後になって少し時間が出来たら。そんなことを言っている間に自分の人生は終わってしまうかもしれない。信仰の決断というものは、「今」という緊迫性を持っているということなのであります。

 第三に、救いに特別扱いは無いということです。ユダヤ人達は、自分が神の民の一員であるということ、アブラハム・イサク・ヤコブの血脈の中にある者であるということを誇りにしておりました。神様とは、遠い昔から深いなじみの関係を持っていると思っていた。しかし、そんなものは何の役にも立たないと主イエスは言われたのです。26〜27節「そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。」とは、そういうことであります。主イエスは「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」という問いの中に、自分はユダヤ人、神の民、アブラハムの子孫という誇りの上にあぐらをかいている呑気さを見たのではないでしょうか。畏るべき、聖なる神様の御前に立っていない呑気さであります。これは何もユダヤ人に限ったことではありません。私共キリスト者にしても、自分は牧師の子であるとか、クリスチャン・ホームに育ったとか、ミッション・スクールを出たとか、○○牧師と親しいとか、そんなものは救いには何の意味も無いと言われたのであります。私共はただ主イエス・キリストにより頼むしかないのです。それ以外のものは、何一つ救いには役に立たないのです。

 そして第四点目、29〜30節で言われていることでありますが、神様は東西南北、世界の全ての人々を神の国に招くということであります。民族や血や文化によらず、ただキリスト・イエスを信じ、これに頼み、神の国に向かって歩み続ける者は、神の国に入ることが出来るのであります。ここで言われている「後の人」とは異邦人のことであり、「先の人」とはユダヤ人のことでありましょう。ユダヤ人にとっては、自分達が当然救われるものと考えていた訳ですけれど、主イエスは、そんなものではない、後の人で先になる人もいるし、先の人で後になる人もあると言われた。神様の自由な選びがここにはある訳です。神様は、自動的に、こういう生まれの人は救われる、救われない。こういう育ちの人は救われる、救われない。そんなことは為さらないのです。私共はすぐに目に見える所で区別し、判断する訳ですけれど、神様はそんなことはされないし、神様の判断や基準が私共のそれと同じなどということもないのです。
 異邦人が救われるというのは、当時のユダヤ人にとっては、理解不能と言っても良い程に、大胆な、驚くべき教えでありました。主イエスは、自らが十字架への歩みを続ける中で、このことを教えられた。つまり、主イエスは異邦人の救いをも実現する為に、私は十字架につく。そう言われたということなのであります。私共は、自分の救いというものを考える時、この主イエスの決断と主イエスの十字架の前に立って考えなければならないということなのであります。このことを横に置いて、こんな人は救われる、こんな人は救われない、そんな頭の中での遊びのようなことをしている暇は、私共にはないのです。
 いつ頃からか忘れましたが、私は自分が救われるだろうか、救われないだろうか、そんなことは全く考えなくなりました。ある時、宗教改革者カルヴァンの神学の中には、「自分が救われるかどうか」という問題意識が無いというある研究者の文章に出会いまして、ああ、自分もそうだと思ったことがあります。カルヴァンにとっての関心は、神様の救いに与っている自分が、どのように生きるのかということであったと言うのです。主イエスがここで教えられたのも、そういうことではなかったかと思うのであります。
 私共は主イエスの十字架の御業の故に、すでに救われています。ですから、私共の愚かさ、弱さ、絡みつく罪、それらをかなぐり捨てながら、力一杯、精一杯、主の御名をほめたたえて、御国への道を歩んでまいりたい。心からそう願うのであります。

[2007年3月11日]

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