富山鹿島町教会

夕礼拝説教

「勇気を出しなさい、わたしは既に世に勝っている」
詩編 117編
ヨハネによる福音書 16章25〜33節

小堀 康彦牧師

 私共は先週の主の日、主イエス・キリストのご復活の出来事を記念して、喜びのイースターの礼拝を守りました。改めて申すまでもないことでありますが、この主イエスのご復活によって、キリストの教会の歩みは始まりました。私共が日曜日の礼拝を主の日の礼拝として守っておりますのは、主イエスがこの日曜日によみがえられたからであります。この主イエスのご復活の出来事は、まさに今朝与えられております主イエスの御言葉「わたしは既に世に勝っている。」ということを実証したのであります。主イエスは、この世の力に負けたかのように十字架の上で死なれました。しかし、ご復活されることにより、死を打ち破り、自分を十字架にかけたこの世の力に対しても勝利されたのであります。この世の力は、死をもってさえ主イエスを葬ることは出来なかった、亡き者にすることは出来なかったのであります。主イエスは、御自身が十字架におかかりになる前に、既にそのことを知っておられました。ですから、「わたしは既に世に勝っている。」と言われたのでありましょう。
 この主イエスの言葉は、ヨハネによる福音書13章31節から始まります、いわゆる主イエスの告別説教の最後の所で語られたものです。主イエスは最後の晩餐の時、弟子達の足を洗われ、そして長い告別説教と言われる最後の教えを弟子達に与えられたのです。ですから、この時の主イエスの教えは、御自身が十字架におかかりになること、復活されること、聖霊が降ること、そういうこれからのことを見通して語られているのです。「わたしは既に世に勝っている。」それはまだ明らかにはなっていない。しかし、天地を造られた父なる神様のご計画の中で、それは既に定まっている。全てを御支配しておられる神様の中においては、それは「既に」と言うことが出来る、そういうことなのです。この「既に世に勝っている」ということが、主イエスのご復活により、明らかに示されたのであります。
 さて、ここで改めて一つのことを問わなければなりません。主イエスは復活され、既にこの世に勝利していることを明らかにされました。しかし、そのことをどうして私共は喜び祝うのでしょうか。主イエスが勝利された、それは判った。しかし、それがどうして私共の喜びとなるのかということであります。このことがはっきりしていなければなりません。ここには、実に私共の信仰の根幹の問題があります。何故、私共は主イエスの復活を、主イエスの勝利を喜び祝うのか。それは、私共が「主イエス・キリストと一つにされている」という恵みの事実、救いの事実があるからなのであります。そうであるが故に、主イエスの勝利は私共の勝利となり、主イエスの復活は私共の復活となるのです。だから、私共はイースターを喜び祝うのであります。
 主イエス・キリストと一つにされている。これは我を忘れて、神秘的に私共が主イエスと一体となるということではありません。しかし、私共は主イエスの命と一つに合わされ、主イエスの勝利を自分の勝利とし、主イエスの十字架を私の罪の贖いとしていただいているのであります。まことに罪人に過ぎぬ私共が、主イエスと共に、天地を造られた神様に向かって、「アバ父よ」と呼ぶことが許されているのであります。この主イエス・キリストとの一致、これこそ私共に与えられている救いの事実なのです。私共が大切にしている1890年の信仰の告白には「おおよそ信仰によりてこれと一体となれるものは赦されて義とせらる。」とあります。「信仰によりてこれと一体となれるもの」です。洗礼と聖餐の聖礼典は、まさに「信仰においてこれと一体とされる」という事態を示しているのであります。今朝、私共はこの主イエス・キリストと一つにされているという恵みを共に味わいたいと思うのです。

 25節から見てみましょう。25節「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。」とあります。「たとえを用いないで」とは、ぼやーっと覆いが掛かったような語り方ではなくて、はっきりと、明確にということであります。そのように「知らせる時が来る。」その時とは、主イエスのご復活とそれに続く聖霊降臨の時であります。とするならば、私共は既にその時の中に生きている。私共は父なる神様について、主イエス・キリストとの関係について、はっきりと知らされています。天地の造り主なる神様が、我らの主イエス・キリストの父であることを何の覆いもなく、はっきりと知らされている。主イエスが真の神の子であり、真の神・真の人であること、父なる神と同質の方であることを知らされています。これは、主イエスと共に歩んだ弟子達にも、その時点においてははっきりとは知らされていなかったことなのであります。主イエスの教えを聞き、主イエスの奇跡を見た者達は、その時点においてはまだはつきりと知ることはありませんでした。時が来ていなかったからです。また、28節には「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」とあります。ここには、父なる神様と子なるキリストの関係がはっきり示されています。私共は、主イエス・キリストが天より降り、おとめマリヤより生まれ、人となり、十字架に架かり、三日目に甦り、天に昇り、全能の父なる神様の右に座したまえることを知っているのです。

 更に主イエスは26〜27節「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」と言われます。私共は、祈りの最後に、「主イエス・キリストの御名によって祈ります。」という言葉を用います。このことは、実に大変なことを意味しているのです。何気なく、習慣のようにして、あるいは「キリスト教ではこう祈るのだ。」と教えられてこう祈っている方がおられたなら、今一度、この一句について思いを新たにしていただきたいと思うのです。ここで主イエスは、「わたしがあなたがたのために父に祈ってあげる、とは言わない。」と言っておられるのです。「主イエス・キリストの御名によって」というのは、何か不十分な祈りでも、イエス様が神様との間に立って執りなして下さるから、この一句さえ付けておけば、大丈夫。そんな風に考えてはならないのです。主イエスは、はっきりと、「わたしはあなたがたのために父には願わない。」と言われている。これは、「神様ご自身があなた方を愛しておられるのだから、もう直接神様に祈りなさい。祈れるのだ。」そう言われているのです。つまり、「主イエス・キリストの御名によって祈る」ということは、実に私共の祈りが、主イエスと一つにされた者の祈りとして、父なる神様のもとに届くということなのであります。これは大変なことではないでしょうか。
 これは郵便を考えれば良いと思うのですが、「主イエス・キリストの御名によって祈る」ということは、私共の祈りの宛名は父なる神様ですが、私共の祈りの差出人は主イエス・キリストであるということなのであります。これは驚くべきことではないでしょうか。私共の祈りが、主イエスの祈りとして父なる神様のもとに届くということなのです。私共は主イエス・キリストの御名によって祈ることを知ってから、祈ることが変わったのではないでしょうか。自分のことばかり祈っていられない。御心がなるように、主の救いの御業が前進するようにと祈らないではいられないようになったのではないでしょうか。ここにも、信仰において主イエス・キリストと一つにされるということの一つの面が現れているのです。真の神の御子である主イエスの祈りであるならば、神様がかなえて下さらないはずがないではありませんか。それが14章13節の「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」と言われている意味なのです。私共の祈りは、主イエス・キリストと一つにされた者の祈りなのです。神様の救いの御業の中で生かされ、その救いのご計画の中で役割を与えられ、用いられている者の祈りなのです。そして、主イエスが父なる神様と親しい祈りの交わりを持っていたように、私共にも父なる神様との親しい祈りの交わりが与えられているのであります。私は、この「主イエス・キリストの御名によって祈る」ということを、もっと深く味わい知りたいと思うのであります。そこには奇跡が生まれます。この神の奇跡の中を歩んできたのが、キリストの教会の歴史なのです。この教会も、神の奇跡が現れる場として立てられていることを忘れてはなりません。

 さて弟子達は、29〜30節で「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」と言います。この時、主イエスの告別説教を聞いて、弟子達の心は感動し、感激していたに違いありません。そして言うのです。「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」この弟子達の告白については、様々な評価がされます。まことに尊い信仰告白であるというものから、何も分からずにその時の勢いだけで言っているというものまで分かれます。確かに、この時の弟子達の告白は、自分達の生涯をかける真実なものであったとは言えません。その後で主イエスが「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。」と言われ、実際、主イエスが十字架におかかりになると、弟子達は主イエスを捨てて、逃げてしまいます。しかし、私共の信仰というものには、いつでもそのような不確かさ、危うさ、弱さがあるのではないでしょうか。私はこの時、弟子達は本気で告白したのだと思うのです。しかし、それでも、彼らは十字架の死という現実を見せられて、その告白を忘れてしまう。それが私共の信仰の現実でもあるのでしょう。しかし、主イエスはこの時、そのことをも既に知っていたのです。弟子達は弱く、この世の力は強く、弟子達はその力に脅かされ、苦しむことになる。それは、この時の弟子達ばかりではありません。全てのキリスト者も又、その信仰の歩みにおいて、この世の力に脅かされ、自らの弱さの中で苦しまざるを得ない時があるのであります。主イエスは、ご存じであります。全てをご存じなのであります。
 そして言われるのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」苦難があるのです。主イエスはそのことを知っています。しかし、主イエスが知っているのは、それだけではありません。「わたしは既に世に勝っている。」そのことも知っているのです。ここで主イエスが言われた、「あなたがたには苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。」「しかし」です。どうして「しかし」と主イエスは言うことが出来たのか。理由は、「わたしは既に世に勝っている。」からです。弟子達の苦難、私共の苦難。それはあるのです。「しかし」です。既に世に勝っている主イエスと、弟子達、そして私共は一つにされているのです。だから、私共も勝利することになっているのです。主イエスの勝利が、私共の苦難を飲み尽くすのです。主イエスはそのことを知っている。いや、知っているだけではありません。私が必ずそのようにする。そう主イエスは言われているのです。だから、勇気を出しなさい、と主イエスは言われているのです。主イエスのこの言葉は、気休めではないのです。主イエスの決意、意志です。そして、神様のご計画の中にある明日を知っておられる方の言葉なのです。
 主イエスは、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。」と言われました。「わたしによって平和を得る」、「主イエスによって平和を得る」のです。良いですか、私共の平和は、主イエスによる平和なのです。たとえ、弱々しい、不確かな信仰であったとしても、キリストと一つにされた者である以上、この世のいかなる力も、私共をキリストから引き離すことは出来ませんし、私共の信仰の勝利を無しにすることは出来ないのです。私共の弱さも又、主イエスによって担われているのです。私共は、既に勝利されている主イエス・キリストによって、勝利することになっているのです。その勝利は、どこまでもキリストの勝利です。私共の知恵や力による勝利ではありません。そのようなものは、私共の平和には何の役にも立ちません。ただ、私共と一つになって下さっているキリストが勝利するのです。良いですか皆さん。私共は、このことを信じる者として召されているのです。
 だったら、私共の主イエスに一つにされた者としての勝利とは何なのか。苦難が無くなることなのか。苦難から解放されることなのか。それは具体的には判りません。主イエスの勝利とは、私共の思いを超えているものだからです。主イエスの十字架の後に復活があることを想像することが出来た者が居たでしょうか。誰もいません。主イエスの勝利、神の勝利とはそういうものなのです。神の勝利とは私共の思いを超えているのです。この私共の思いを超えた神の勝利が、苦難の中にある私共を飲み尽くすようにやって来るのです。キリストと一つにされているということは、そういうことです。私共はそれを信じて良いのです。信じる者として召されているのです。
 繰り返します。私共はこの世では苦難があるのです。しかし、その苦難によって私共の救いは、少しも揺らぐことはないのです。主イエスと一つにされているからです。主イエスが復活したように、私共も永遠の命に生きるのですし、神の子とされているのですし、はばかることなく神様に祈ることが出来るのです。

 先程、詩編117編をお読みいたしました。最も短い詩編の一つです。この詩編は、主イエス・キリストによって現れた、神の慈しみと真実を預言しています。主イエスの十字架と復活に現れた神の慈しみと真実によって、全ての国民が、主をほめたたえ、主を賛美する者へと招かれたのであります。主イエス・キリストの勝利に共に与る全ての者が、ハレルヤと主をほめたたえるのです。私共は既に、この恵みに与りました。ありがたいことであります。しかし、まだ全ての者がこの恵みに与っているわけではありません。私共は力の限りハレルヤとほめたたえつつ、この恵みを伝えるために、この礼拝から一週間の歩みへと遣わされてまいりたいと願うのであります。

[2007年4月15日夕礼拝]

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