富山鹿島町教会

礼拝説教

「主の恵みに応える者として」
レビ記 14章1〜9節
ルカによる福音書 17章11〜19節

小堀 康彦牧師

 私共の教会が受け継いでいる大切な信仰の遺産の一つに、「ハイデルベルク信仰問答」というものがあります。私も今まで、信仰を与えられたばかりの若い人々と共に、あるいは長老達と共に、何度も何度も学んでまいりました。これは1563年に出たものであり、宗教改革の第二世代であった、まだ30歳になったばかりのウルジヌスと、20代であったオレヴィアヌスによって作られたものです。この教会でも繰り返し学ばれてきたことと思います。世界中の改革派の教会において、自分達の信仰を言い表すものとして採用されて来ましたこの信仰問答は、三部構成になっているのです。第一部は「人間のみじめさについて」です。私共はまず、自分達が救われねばならない者であることを知らなければならないということです。最初に私共の罪ということについて示すのです。そして第二部は「人間の救いについて」ということで、使徒信条の解説と、洗礼・聖餐の聖礼典について語ります。罪赦されなければならない私共が、どのようにして救われるのかを示すのです。そして最後の第三部は「感謝について」ということで、十戒と主の祈りの解説があるのです。この信仰問答は、その構造から見て、「人間は自らの罪を知り、三位一体の神様の救いを求め、これに与る。そして、感謝の生活をするようになる。」ということを示しているのだろうと思います。つまり、私共の信仰生活というものは、感謝の生活なのだということなのであります。
 私共は、信仰生活と言いますと、何を考えるでしょうか。祈りの生活、日曜日の礼拝、愛の業、色々と考えるところがあるでしょう。しかし、その全てが、感謝の業であるということは、心に留めておかなければならないと思います。こう言っても良いと思います。キリスト者とは感謝するということを知っている者であり、事実、感謝という思いの中で自分の生活を為している者なのでありましょう。

 私は、この感謝ということは、実に新しいことなのだと思っています。主イエス・キリストに出会い、主イエス・キリストに救われて、私共の中に生まれた新しい思いなのだと思うのです。逆に言えば、私共はキリストの救いに与るまで、本当のところで感謝するということが判らなかった者なのではないか、そう思うのであります。
 私共は、どこか感謝という思いは、自然に備わっていると考えている所があります。しかし、本当にそうなのだろうかと、私は思うのです。私共が罪人であるということは、実は感謝することを知らない、感謝することが出来ない、そういう人間であるということなのではないかと思うのであります。
 私共は自分の子を育てる時、物心がつく前から、「ありがとう」と言うことを教えるのではないかと思います。大人が幼子に何かをあげる。そうすると親は、幼子の頭を下げさせて、「ありがとう」と口うつしで教える。これは日常的に見られる光景でしょう。こういう積み重ねがあって、私共は「ありがとう」という言葉を覚えていく訳です。この「ありがとう」と言えるということは、とても大切なことで、これが言えませんと、私共が社会の中で生活していく上で、とても困ったことになります。逆に、これが素直に言えるだけでも、人間関係は大変スムーズになる。そういうことがあるかと思います。しかし、この「ありがとう」と言えるということと、本当に感謝することが出来るということは、それほど単純に同じ訳ではないのではないかと思うのです。
 具体的に考えてみます。私共は他人から何かしてもらえば、「ありがとう」と言います。しかし、同じことを自分の親や兄弟からしてもらった時に、同じように「ありがとう」と言うでしょうか。どこかで、「してもらって当然」という思いがあるのではないでしょうか。私は、ここに「ありがとう」の限界というものがあるのではないかと思うのであります。私共が本当に感謝しなければならないのは、一番お世話になっている親であり、妻であり、夫であるはずなのです。しかし、それがなかなか感謝出来ない。そして、誰よりも私共の命の源である神様に対して、感謝することが出来ない。神様が与えてくださっている時間・家族・健康・仕事、そういうものを当たり前と思って受け取っている。実はここにこそ、私共の罪があるということなのではないかと思うのであります。

 今朝与えられている御言葉において、主イエスは十人の重い皮膚病を患っている人々をいやされました。この重い皮膚病というのは、レビ記の中にも多くの分量をもって記されているように、大変恐れられていたものでした。現代のハンセン氏病と同じであったかどうか判りませんけれど、その病気に対しての人々の恐れは同じようなものがあったと考えて良いでしょう。
 今、ハンセン氏病について話す時間はありませんけれど、この病気にかかった人は大変な差別を受け続けたという歴史があることを忘れる訳にはいきません。日本では、強制的に療養所に入れられ、隔離され、一生そこから出られないという施策がとられたのです。このような法律が撤廃されたのは、最近のことです。現在、この病気は薬で完全に治すことの出来る病気となりました。現在、日本ではほとんど発症する人はいません。12節を見ますと、「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、」とあります。多分、この村はこの病にかかった人達が自分の村から離れ、この人達だけで住んでいた村ではなかったかと思います。当時、この病にかかった人達は、普通の村から追い出され、人との交わりを断たれていたからです。人々に忌み嫌われ、恐れられる病にかかってしまった人々が、まさに肩を寄せ合うようにして住んでいたのが、この村ではなかったかと思います。人々が決して訪れることのない村。人々に恐れられ、捨てられ、忘れられた人々の村。そこに主イエスは行かれたのです。主イエスは、神の愛を告げる為に、神様に捨てられている人など一人もいないことを告げる為に、あなたも神様の憐れみの中にいるのだということを知らせる為に、主イエスはこの村に入られたのです。
 この時、十人の病を患っている人々は、主イエスから遠く立って、声を張り上げます。この病を患った人は、普通の人には近づいてはいけないということになっていたからです。悲しいことです。彼らは、主イエスのことを風の便りに聞いていたのかもしれません。主イエスに、憐れみを請うたのです。主イエスにいやされることを願い、求めたのです。主イエスは、この願いを聞き入れました。そしてこう言われたのです。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」それは、この病がいやされたかどうかは、祭司が判断し、その祭司による証明によって、社会復帰することが出来たからです。しかし、この主イエスの言葉は不思議です。何故なら、主イエスは、この言葉を告げた時、まだこの十人の病人をいやされてはいなかったからです。この人々がいやされたのは、祭司のところに行く途中でした。つまりここで、ただ主イエスの言葉だけを信じて、まだいやされていない体を引きずり、祭司のところへ出発したということなのであります。これは、主イエスが、この人々に対して、主イエスの言葉を信じる、主イエスに対しての信仰を求めたということなのだろうと思うのです。彼らは主イエスの言葉を信じ、主イエスの言葉に従って、祭司のところに出発したのです。そして、祭司達のところに行く途中で、彼らはいやされたのです。ここで、カナの婚礼の奇跡を思い起こします。あの時も主イエスは、空になったカメに水を一杯に入れなさい、そして、宴会の世話役のところに持って行きなさい、と言われました。そして、召使い達がカメに水をいっぱい入れ、運んでいくと、カメの中には良いぶどう酒が満ちていたというのです。主イエスの言葉しかない。しかし、その主イエスの言葉を信じ、言われた通りにすると、水はぶどう酒に変わり、ここでは十人の病人がいやされたのです。この時、この十人の病人達が、いやされていないのだから祭司達のところに行っても、無駄だ、しょうがない、そう思って、主イエスの言葉を信じることが出来ず、祭司達のところに向かって出発していなければ、このいやしは起きたかどうか判りません。私共も、まだ見ていない主イエスの救いの御業、いやしの御業を信じて、お言葉ですからとやってみる、それが大切なのでしょう。

 今日の聖書の個所の問題は、その後なのです。彼ら十人は、皆、祭司のところに行く途中でいやされたのです。しかし、その中でただ一人だけが、主イエスのところに戻って来て、主イエスの足もとにひれ伏して感謝したのです。他の九人も同じように主イエスの言葉を信じ、従ったのです。そしてそれ故に、主イエスのいやしを受け取ったのです。彼ら十人には、同じ程度の信仰があったと言っても良いかと思います。しかし、主イエスに感謝する為に戻って来たのは一人だけだったのであります。
 他の九人はどうしていたのでしょうか。きっと、祭司のところに行く道を急いだのではないでしょうか。主イエスのいやしに与り、大喜びした。それは十人とも同じだったと思います。しかし、九人は祭司のところに急ぎ、一人は戻って来て主イエスに感謝をささげたのです。この九人の人達の行動を責めることは出来ないでしょう。主イエスが「祭司のところに行って、体を見せよ。」と言われたのですし、祭司による「いやしの証明」がなければ、社会復帰が出来ないのです。彼らは、祭司のところに行く道で、自分がいやされたことを知り、長く離れていた家族に会えること等を考えると、うれしくてうれしくて仕方がなかったのではないかと思います。この喜びの中で、病をいやされた九人は主イエスへの感謝が後まわしになったのであります。そして、皮肉なことに、主イエスのもとに感謝するために戻って来たのは、サマリア人だったのです。ガリラヤ人もユダヤ人です。しかし、サマリア人は、元々同じイスラエルの民でありながら、アッシリアによって滅ぼされて以来、混血が進み、エルサレムではなく、ゲリジム山において礼拝するという、ユダヤ人から見れば異端の人々であり、救いに与ることはないと見られていた人々でした。当時ユダヤ人は、サマリア人が暮らす土地を通ることさえも、忌み嫌った程でした。そして、このサマリア人の一人だけが、主イエスのもとに感謝の為に戻って来たのでした。そして、主イエスはこの一人の人に対してだけ、19節「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われたのです。十人の病人は、皆、いやされました。しかし、主イエスから救いの宣言を受けたのは、この一人の人だけだったのです。
 これはどういうことなのでしょうか。ここで、私共は主イエスの種蒔きのたとえ(ルカによる福音書8章)を思い起こすことが出来るでしょう。主イエスの言葉が蒔かれる。それを受け取る人がどのような人であるかによって、多くの実りをつけるかどうかが変わってくるというのです。ここで主イエスのもとに戻って来た人は、良い土地で百倍の実をつける人と見て良いでしょう。一方、九人の人達は、石地あるいは茨の地ということになるではないでしょうか。喜んで主イエスの言葉を受け入れるが、根がないので、しばらく信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人。あるいは、御言葉を聞くが、人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実を結ばない、そういう人であります。
 主イエスを信じ、主イエスの言葉に従って、祭司達のところに出発した。ここまでは良かった。しかし、いやされたことが判ると、主イエスに感謝することよりも、自分のこれからの喜び、楽しみに心を奪われて、主イエスへの感謝に、心が向かなかった人々。これでは、主イエスによっていやされはするけれど、救いへとは至らないということなのでありましょう。
 何か問題がある。何とかこれを解決し、解放されたい。この苦しみから逃れたい。そんな思い中で教会の門をくぐる人は少なくありません。そういう時は、助けを求めていますので、熱心に教会に通い、聖書も読み、祈りもする。洗礼まで行く人もあるでしょう。しかし、その問題が解決されてしまいますと、急に熱が引いたように、神様を求める思いがなくなってしまう。そういう人は、少なくないのであります。

 しかし、主イエスがここで私共に教えて下さっているのは、そのような神様の憐れみの中でいやされた者は、主イエスに対して、神様に対して、感謝をささげる者として生きなさいということなのでしょう。この主イエスに対しての、神様に対しての感謝の交わりの中において、私共は全き救いへと導かれていくということなのであります。
 だったら、私共はこの感謝の生活の中に生きる為に何をすれば良いのでありましょうか。二つあります。一つは、祈りの生活を整えるということであります。一日三度の食事の前の祈り。短くても良いのです。これさえ身に付けないということでは困ります。以前、この食前の祈りについて、教会の方と話をしていて、あんまり長いと食事が冷めてしまうということを聞いたことがあります。5分も10分もすることはないと思いますけれど、やっぱりそれなりの祈りになると思います。更に、「一番短い祈りは?」と聞かれたこともあります。もうお腹がすいてしょうがない、そういう時の祈りはどうするのかと聞かれたことがあります。こういうことを言うと、この一番短い祈りばかりするようになっても困るのですけれど、それは「主に感謝」ということになるだろうと思います。
 信仰がマンネリ化する。洗礼を受けた時のような思いが薄れてくる。そういう話を牧師として何度も聞いてきました。そして話をしていくうちに、ある共通のことがあることに気がついたのです。これには、祈りの生活が整えられていないということです。祈りの習慣が出来ていないのです。私共は何よりも、この祈りの中で、感謝の心を新しくされていくのですから、祈らなければ、いつの間にか感謝する心がなくなっていく。それは当然のことなのです。
 そして、第二には感謝の業としての献身ということがあるのです。神様への感謝は、必ず献身という形のささげものを、神様にささげたいという促しを受けるものなのです。何でも良いのです。自分が出来ること、自分がするようにと、神様に召されたことをするのです。もちろん、高齢になり、肉体的な衰えを覚えている人にとっては、奉仕といってもなかなか大変だという思いがあるでしょう。そういう方は、何よりも祈りの戦士として、愛する兄弟姉妹に代わって、兄弟姉妹の為に祈っていただきたいと思います。
 この祈りと献身という、感謝の業に守られて、私共は神の国への歩みを全うすることが出来るのであります。
 そして、この神様との感謝の交わりに生きる時、私共は人と人との交わりの中でも、感謝の交わりの中に生きることが出来るようになる。私はそう思うのであります。やってもらって当たり前、してやった時には感謝されて当たり前。そのような心は、やっぱり罪なのだと思うのです。私共は、主イエスの救いに与っている者として、そのような罪の歩みから、感謝に満ちた歩みへと新しく踏み出していく為に召されているのでありましょう。主イエスに感謝、神様に感謝、父に感謝、母に感謝、妻に感謝、夫に感謝、子供に感謝、友に感謝しつつ、この一週も歩んでまいりたいと心より願うのであります。

[2007年7月8日]

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