富山鹿島町教会

伝道礼拝説教

「心をつなぐために」
創世記 1章24〜27節、2章18〜25節
ローマの信徒への手紙 15章1〜6節

小堀 康彦牧師

 今、創世記の始めの所をお読みいたしました。1章の24〜27節です。ここは、神様が七日間で天地の全てをお造りになった、天地創造の話が記されている所です。神様は六日目に家畜や地の獣を造り、最後に人間を造られました。そして、その人間に魚や鳥や家畜や他の獣の全てを支配させることにしたというのです。更にこの人間は、神様に似せて、神様御自身にかたどって造られたと記されています。天地を造られた神様と人間である私共とは、一体どこが似ているのか。どこが神様にかたどられているというのか。勿論、頭が一つで、手が二本、足も二本。そういうことではありません。ここではいろんなことが考えられると思います。人間だけが言葉を話しコミュニケーションが出来るとか、人間だけが責任を持つという生き方が出来るとか、人間だけが意志を持ち、志を持って生きることが出来るとか、いろいろある訳です。しかし、最も重要なことは愛ということではなかろうかと思います。神様御自身、父と子と聖霊という、三位一体というあり方で永遠の愛の交わりを持っておられる方です。この神様に似た者として造られたということは、私共人間は愛の交わりを造り、その交わりの中に生きる者として神様に造られたということなのだと思います。
 私共人間は、ただ食べ物さえ与えられていれば生きられるという存在ではないのです。愛し愛されるという交わりの中でしか生きられないし、そのような交わりを造り出していく者として神様に造られているということなのであります。この愛の交わりが破られる、あるいはうまく形造ることが出来ない。そうすると、私共はとても苦しい、つらい状態に落ちこむ。それは、私共人間の本来あるべき生きる姿ではないからなのでしょう。
 テレビのニュースでは、毎日のように悲惨な事件が報道されております。子が親を、親が子を、兄が妹を殺してしまう。あるいは、DV、ドメスティック・バイオレンス、家庭内暴力、夫が妻や子に暴力をふるう。最近は、結婚する前の恋人同士においても、そのようなことが見られるという報告もあります。どうしてそういうことになってしまうのか。そこには、本来、愛し愛される者として造られたはずの私共が、その本来の姿を失っている、あるいは、その本来の姿が判らなくなっているということがあるのでしょう。
 うるわしい愛の交わりを形作りたい。そういう関係の中で生きていきたい。誰もがそう思う。しかし、それがなかなか出来ない。そこに私共の悲しみがあるわけです。どうすれば、この状態から抜け出すことが出来るのか?これは大変深刻な問いであります。どうすればいいのか。この問いに対しての答えは、ケース・バイ・ケースと申しますか、私共の置かれている状況、直面している課題は二つと同じものはないのですから、こうすれば良いですなどという安易な解決法はないのだと思います。ただ言えることは、私共は愛すること、愛されることを学ばねばならないということではないかと思います。どこかで私共は、愛すること、愛されることなど今更敢えて学ぶ必要はない、そんなことは知っている、そう思っている所がある。しかし、本当にそうなのでしょうか。私はそこに問題があるのではないかと思うのです。聖書を読んで行きますと、本当に自分は愛を知らない、もっと学ばなければならない、そのことを教えられるのです。

 愛といえば、私共は何を想像するでしょうか。親子の愛、夫婦の愛、兄弟愛、そんな言葉を連想するのではないかと思います。
 しかし、親子の愛といっても、これも自然に備わっているものだから問題ないという風には簡単には言えない。私はそう思っています。愛という関係は、相互関係でしょう。しかし、この親子の愛というものは、しばしば親の一方通行になりかねないからです。昔から、「親の心子知らず」「子を持って知る親の恩」「親孝行したい時には親はなし」などと言われます。これらの言葉は、子供というものは、なかなか親の愛に気付かないということを示しているのでしょう。どうして気付かないのか。それは、「してもらって当たり前」と思っているからでしょう。親がしてくれることを他人がしてくれたら、そんなことはめったにあるものではありませんけれど、これは本当にありがたいと思うに違いないのです。しかし、お父さん、お母さんがしてくれても、それは当たり前のこと、そんな風にしか受け取れないのです。それは、子供が愛し、愛されることにおいて未熟だからなのでしょう。しかし、だったら親は愛することにおいて成熟しているのかと言えば、そう簡単には言えません。その一つの表れは、親が子に対して、「これだけしてやっているのに」という思いを持ってしまう所にあります。これだけしてやっているのだから、もっとこうなって欲しい、こうならなきゃいけない。こんな思いを親が子に押しつけてしまう訳です。自分の願い、自分の欲を子供に押しつけてしまう。子供には子供の思い、願いがある訳で、それを押しつけられても困る訳です。実は、子供が愛において成熟していくためには、親も又愛において成熟していかなければならないという面があるのです。親も子も、共に愛において成熟していく、成長していくということなのだろうと思うのです。
 親が愛において成長し、成熟していくために大切な関係、それが夫婦です。聖書は人間が神様に似た者として造られた。愛し、愛される、愛の交わりを形作る者として造られた。このことを記した後で、男と女に造られたということを記しています。1章27節「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」とあります。更に2章18節を見ますと、神様は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と言って女を造られたということが記されています。ここでの「人」というのは、元々の言葉では「アダム」ですから男です。ここで、女は男の助け手として造られたから、男が主人で女は補助者だと考えてはいけません。男は女という助け手がいなければダメだと言われているのです。ですから、男は主人だなどと威張ってはいられないのです。男も女も、お互いにその人がいなければ十分ではない。お互いに助け合う者として造られたということなのです。愛の交わりを具体的に形作る者として、男と女が造られた。これが夫婦です。実に、夫婦というのは、愛の交わりを形作る基本単位と言って良いでしょう。この関係において、私共は愛を学んでいく。愛において成熟していく。そういう中で、子供が育まれていくということなのであります。この夫婦の交わり、愛の交わりにおいて大切なことは、どちらがどちらかを支配するのではないということです。お互いに助け合う、支え合うという関係を造るということなのです。愛の最も未熟な形、それが相手を支配し、自分の思うようにしようということだからです。そこには平安も喜びも慰めもありません。
 創世記と合わせて、ローマの信徒への手紙15章の始めの所を読みました。ここには、1〜3節「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。」と記されています。愛は、強い者が弱い者を支配するという形ではありません。そうではなくて、強い者は弱い者の弱さを担うのであり、自分の満足を求めるのではないということなのであります。どうして、そう言えるのか。それは、まことの神の子である主イエス・キリスト御自身が、そのように歩まれたからなのです。主イエス・キリストは神の子でありながら馬小屋に生まれ、貧しい者、小さな者、罪を犯した者と共に歩まれました。天の高き所から、この世界の最も低い所に下って来られた。そして、まことの愛を示して下さったのであります。低きに下る。ここに愛があるのであります。

 「エデンの東」という映画があります。若きジェームス・ディーンの映画です。この映画は、どうして人と人の心がつながらないのか、どうしたら心がつながっていくのか、とても教えられる映画です。ジェームス・ディーンが演じる主人公には、双子の兄がいます。兄はいつも正しく、真面目で、父はいつもこの兄のことばかり可愛がります。父も又、正しさの権化みたいな人で、悪さをする主人公の青年とはそりが合いません。主人公の青年は、父に自分の方を見てもらおう、父に認めてもらおうとするのですが、これがことごとく失敗。どんどん、父とこの青年の関係が悪くなっていってしまう。そして、ある日、父が脳卒中で倒れてしまうのです。この時、主人公を慕う女性、この女性も元々は兄の恋人だったのですが、この女性がお父さんにお願いするのです。この主人公に何か頼んであげて下さい。そうしないとこの人はダメになってしまう。お父さんは見舞いに来た主人公に、この看護婦を部屋から出してくれ、そして看病はお前がしてくれ、と頼みます。主人公は喜んで看護婦を部屋から追い出し、父の枕元に椅子を持ってきてドッカと腰を下ろすのです。この父と息子の心がつながった時です。泣けてしまう名場面です。
 このお父さんは、真面目なクリスチャンで正しい人なのです。自分はいつも正しいのです。間違っているのは息子です。それはそうなのでしょう。しかし、このお父さんの正しさには、いつも自分は正しい、お前は間違っているという、相手を裁き、相手を切りつける剣を持っているものだったのです。主人公の息子は、いつも父のこの見えない剣で切られていたのです。しかし、自分が倒れ、弱くなった時、この父の口から初めて、息子に「頼む」という言葉が出るのです。息子は、この言葉を何年も待っていたのです。相手を信頼し、自分をその人に委ね、自分が小さくなる。相手の上に立ち、支配しようとしていた所から下に降りてくる。そして、相手を信頼する。ここに、心がつながっていく道、愛の交わりが形成されていく道が開かれたのでしょう。
 この映画のタイトルは「エデンの東」です。先程お読みした、人類最初の男と女、アダムとイブが造られ、彼らが住んでいた園がエデンの園なのです。この映画には、このエデンの園から罪を犯して追放された私共人間の現実と、そこからエデンの園の回復への希望が描かれているのでしょう。

 これは、映画の話です。私共の現実はいろいろなことがからみ合って、簡単にはいかない所があると思います。しかし、私は思うのですが、一番問題でやっかいなのは自分自身なのではないでしょうか。私共は、相手が変われば良い、と思う。自分は変わる必要もないし、変わらない。何故なら自分は正しく、間違っていないから。しかし、本当にそうなのでしょうか。まことの神の子が天から降り、馬小屋に生まれ、罪人と共に十字架にかかって死なれた。この主イエス・キリストの前に立っても、私共は、自分は正しい、自分が変わる必要はない、と言えるでしょうか。私共は主イエス・キリストの十字架の御前に立つとき、「主よ、憐れんでください。変わろうとしない私を赦してください。私を変えてください。」そう祈ることが出来るではないでしょうか。人間を相手には言えないことが、主イエス・キリストの前でなら言える。祈れる。相手を変えようとする前に、自分が変わろう。自分は正しいとする傲慢さから解き放たれよう。そのことを願い、祈る。ここから全ては始まっていくのではないでしょうか。
 ローマの信徒への手紙15章4節には「わたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができる。」とあります。私共自身が変えられ、愛の交わりを形作っていくためには忍耐が必要です。私共は少しずつしか変わっていくことが出来ないからです。そして、その歩みを為していくためには、私共自身がいつも慰められ、励まされていなければなりません。何故なら、「もういい」「もうやめた」そう言って放り出したくなってしまう弱さを、私共は持っているからです。あきらめず、少しずつでも、愛の交わりを形作っていくための歩みを為し続けていく。そこに立ち続ける。何度破れても、何度でもやり直し、そこに立ち続ける。その歩みを支えるのは希望です。やがてうるわしい愛の交わりに生きるようになるという希望です。この忍耐と慰めと希望を、私共はこの聖書から受け取ることが出来るのです。この映画のその後を想像すると、この息子と父とは末永く仲良く暮らしました。そんな風には行かなかったと思うのです。この後でも、やっぱり中々心が繋がらずぎくしゃくする、そんなことが何度も起きたのだろうと思います。しかし、彼らは一歩を踏み出したのだと思うのです。私共も、その一歩を踏み出すために、ここに招かれているのでしょう。
 心がつながる。それはエデンの園の中ではなく、この現実の世界に生きる私共にとっては、本当に大変なことです。放っておいても自然に出来るということではないのだろうと思います。私はこの心が繋がるということが起きるとすれば、それは奇跡なのだと思っています。それ程難しく、自分の力ではどうにもならないところがある。しかし、全能の神様が働いてくださり、神様の御業としての愛の奇跡を起こしてくださる。私共は、そのことを信じ、期待して良いのです。そして、この奇跡に与るために、私共は心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして歩むのでしょう。まことの愛を示して下さった、主イエス・キリストの愛を受け、主イエス・キリストの御姿を仰ぎながら、主イエス・キリストに倣う者として生きるのであります。自らを低くし、相手を信頼し、自分の大切な人として重んじていくのです。そこに、道は開かれていくのです。愛の交わりへの道が拓かれていくのです。どうか、この一歩を共に、今日から歩み出していきたいと心から願うものです。

[2007年10月21日]

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