富山鹿島町教会

礼拝説教

「悔い改め、そして和解」
創世記 44章1節〜45章15節
エフェソの信徒への手紙 2章14〜22節

小堀 康彦牧師

 今、私共は幼子の健やかな成長を願い、子どもの祝福を行いました。神と人とに愛され、神と人とを愛し、神と人とに仕える者となるようにと願い、祈りを合わせました。人が健やかに成長するということは、実に神様の恵みの御手の中において為されることであります。それは幼子が私共の家庭に与えられたことと同じように、驚くべき神様の恵みの御業によるのであります。私共はこのことを知らされている者として、神様の守りと支えと祝福を願い求めなければならないのでありましょう。
 私共は一所懸命に我が子を育てます。愛を注ぎます。しかし、それが十分に伝わり、報われるとは限らないのです。確かに私共の愛には欠けがあります。しかし、人が健やかに成長するということは、たとえ欠けがあったとしても、自分に注がれた愛を受けとめ、そのことに感謝することが出来るようにならなければならないのだろうと思うのです。
 先週、私は北陸学院短大の保育科の修養会に行って講演をして参りました。「愛され、愛し、仕える喜び」という題での講演でしたが、二百名弱の学生たちは思いの外良く話を聞いてくれました。なかなか神様の愛というところまでは行けなかったのですが、自分が両親にどんなに愛されて育てられて来たのかが分かった、今まで気付かなかったけれど自分の周りには愛がいっぱいあるということが分かった、という感想がほとんどでした。人は独りでは生きていけない。愛の交わりの中で人は育まれ、生きている。この当たり前のことを分かって欲しいと思ったのです。19歳、20歳の学生さんたちの多くは、自分が親に愛されてきたし、愛されている、ということが判らない。他人から改めて言われ、そのことを受けとめるために特別に時間を取らなければ、分からない。親に対しての反発は放っておいてもするようになります。しかし、親に対しての感謝というようなことは、子ども自身が成長し、成熟しなければ分からない。そういうものなのでしょう。

 私共はヨセフ物語を読み進めてきていますが、このヨセフ物語にはそのような人間の成長という側面も記されているのだと思うのです。ヤコブは最愛の妻ラケルとの間に生まれた子、ヨセフとベニヤミンを溺愛しました。ヤコブの子育て、愛情の注ぎ方には欠けがありました。他の十人の息子たちが反発するのももっともです。しかし、たとえそうであったとしても、子どもは親を選べないのですし、その親を自分の親として受け入れていかなければならないのでしょう。この欠けに満ちた父ヤコブを、子ども達は受け入れていかなければならないのです。そうでなければ、この家に平和が来ないのです。私共もそうなのです。私共は誰も完全な親ではありません。欠けがある。どんなに心を砕いて、思いを注いでも欠けがある。それが私共の子育てです。とするならば、私共は自分の親を批判するだけでは済まないのです。自分も又、同じような欠けを持つ親として、子に受け入れられなければならない存在だからであります。
 17歳のヨセフをエジプトに売ってしまった十人の兄たちの思いの中には、ヨセフに対してのねたみの他に、父ヤコブに対しての反発もあったのだろうと思います。しかし、あれから22年、この22年という数字は、ヨセフが奴隷であった時と牢獄に入れられていた時を合わせて13年間、それから7年の豊作、そして多分2年くらいの飢饉、合わせて22年ということになります。ヨセフを売った兄たちも、自分の子が与えられる程の年になっていた。もう中年と言ってもよい年になっていたのではないかと思います。
 ヨセフと二回目の再会の後、兄たちはまだ目の前のエジプトの大臣がヨセフであることを知りません。ヨセフは兄たちに運べるかぎり多くの食糧を渡してヤコブのもとに帰しました。しかし、ヨセフはこの時、ベニヤミンの袋には銀の杯を入れておいたのです。ヨセフの十人の兄たちと弟のベニヤミンは出発しました。彼らが町を出て遠くない所まで来た時、ヨセフの執事が彼らに追いつきます。そして言うのです。「どうして、お前たちは悪をもって善に報いるのだ。あの銀の杯は、わたしの主人が飲むときや占いのときにお使いになるものではないか。よくもこんな悪いことができたものだ。」もちろん、兄弟たちは身に覚えがありません。執事が何を言っているのか分かりません。これはヨセフが仕組んだことであり、言いがかりなのですから、兄弟たちが身に覚えがないのは当たり前です。ですから彼らは言います。「僕どもの中のだれからでも杯が見つかれば、その者は死罪に、ほかのわたしどもも皆、御主人様の奴隷になります。」そして執事は、一番上の兄から始め、順に袋を調べていきました。すると、一番下のベニヤミンの袋の中から、銀の杯が出て来たのです。そこに執事が入れておいたのですから、出て来て当然です。兄弟たちは再び、ヨセフの屋敷に連れて行かれました。ヨセフは言います。17節「杯を見つけられた者だけが、わたしの奴隷になればよい。ほかのお前たちは皆、安心して父親のもとへ帰るがよい。」これを聞いたユダがヨセフに対して語り始めます。18〜34節の長い語りです。ここでユダは今までのいきさつを語ります。そして、このベニヤミンが帰らなければ、父ヤコブは死んでしまうでしょう、そんなことは出来ない。そして33〜34節「何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」と言うのです。ヤコブのヨセフへの溺愛を憎み、ヨセフを売ってしまえと提案したユダが、ここでは父ヤコブの為に、ヤコブが溺愛しているベニヤミンの代わりに自分が奴隷になると申し出るのです。この時ユダは22年前と同じように、ベニヤミンはエジプトの大臣の奴隷になりましたと言って、ヤコブの所に帰ることも出来たのです。しかし、彼はそうしないのです。この時、ユダはベニヤミンを溺愛している父ヤコブを受け入れ、その父を悲しませるわけにはいかないと言って、自分がベニヤミンの代わりに奴隷になると申し出るのです。このユダは、明らかに22年前の彼とは変わっています。ヨセフは、このユダの言葉を聞いて堪えきれず、声をあげて泣き、「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」と自分の身を明かすのです。和解です。22年ぶりの和解です。私共は、和解するのにこんなに長い年月が必要なのかとも思います。しかし、人が変わる為には、これ程の時が必要なのだということなのではないでしょうか。和解とは、忘れることではありません。忘れるのではなく、赦し、受け入れることであります。
 ここで、ヨセフと十人の兄たちとの間の和解の前に、ユダとヤコブの間、ユダとベニヤミンの間での和解があるのです。ユダが欠けの多い父ヤコブを受け入れているのです。父に溺愛されているベニヤミンに対しても、ユダはヨセフの時のように妬むどころか、助けようとするのです。ユダは父ヤコブが悲しむことがないように、ベニヤミンを助けるために、自分がベニヤミンに代わって奴隷になると申し出ているのです。ユダの大きな変化です。このユダの思いがけない申し出に、ヨセフはこの言葉に心を揺さぶられるのです。和解というのは、この心が揺さぶられるということによってもたらされるものなのではないでしょうか。

 私はここで、二つのことに注目したいと思います。一つは兄たちの悔い改めということです。ベニヤミンの袋から銀の杯が見つかり、兄たちがヨセフの家に連れ戻された時、ヨセフの前で、ユダがこう言うのです。16節の中ほどです。「神が僕どもの罪を暴かれたのです。」この言葉は、何を意味しているのでしょうか。銀の杯はヨセフの執事がベニヤミンの袋の中に入れたのですから、この件に関してユダには「神様によって暴かれなければならない」ような罪はないのです。ですから、ユダはこの時、「自分には身に覚えがない。これは濡れ衣である。」そう言い張るのが普通でしょう。しかし、彼は「神が僕どもの罪を暴かれた」と言うのです。ここでユダが神様によって暴かれたという罪は、この銀の杯に関することではありません。そうではなくて、この罪とは22年前の弟ヨセフを売ったことを指しているのではないでしょうか。そして、この言葉はユダだけの思いではないでしょう。十人の兄たちの思いをユダが代表して語っている。そう読んで良いと思います。ヨセフによる身に覚えのない、理不尽な言いがかり。しかし、銀の杯が出た以上、兄たちは身の潔白を証明しようがないのです。この言い逃れが出来ない状況に追い込まれた時、十人の兄たちの心に浮かんだのは、22年前のヨセフを売ったあの出来事だったのです。彼らは「神様は全てを見通しておられた。今、自分たちはあの22年前の罪を暴かれ、裁かれているのだ。」そう思ったのです。彼らはこの時、神の御前に立たされたのです。神様の裁きの場へと引き出されたのです。そして、長いユダの言葉へと続くのです。このユダの、自分が代わりに奴隷になるという言葉は、この「神が僕どもの罪を暴かれたのです。」と告げ、自分達が神様の裁きの前に立たされたということと無関係ではないのです。彼らは神様の裁きというものを受けとめざる得ませんでした。そしてこれをきちんと受けとめた時、兄たちは正しく生きる、良く生きる、神様の御前に生きるということへと押し出されたのだと思うのです。ヨセフの、この何とも理不尽に見える、銀の杯をベニヤミンの袋の中に入れるという行為は、私は神様の導きの中で、兄たちを神様の御前に立たせ、神様の御前にあって悔い改めることへと導く、その為になされたことなのだと思います。

 第二の点です。ヨセフは兄弟たちについに自分の身を明かしたのですが、その時ヨセフは兄たちにこう言うのです。4節後半〜8節「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」ヨセフは兄たちに、22年前に自分をエジプトへ売ったことを、悔やんだり、責め合ったりする必要はない、と言うのです。17歳から30歳までの13年間に及ぶ奴隷の生活、牢獄での生活。兄たちに恨み言を言おうとするなら、山程あったに違いありません。しかしヨセフは、悔やんだり、責め合ったりすることはないと言うのです。理由ははっきりしています。今お読みしましたヨセフの言葉の中に、三回同じ言葉が繰り返されているからです。それは「神が遣わした」という言葉です。5節「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」7節「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。」8節「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」ヨセフは兄たちに売られてエジプトに来た。それは事実です。しかし、ヨセフはこの事実の背後に働かれる神様の御手、神様の御計画というものに目を開かれたのです。そして、神様の御手の中にある人生として、自分の人生を受け取り直したのです。神様の視点から自分の人生を受け取り直したのです。その時、自分がエジプトに売られてきたということは、全く別の意味を持ったのです。それは、神様の祝福を受け継ぐヤコブの一族が、この飢饉の中で滅びることがないようにという、神様の配慮、愛の御業、救いのご計画であったということでありました。それ故、ヨセフは兄弟たちを責めることがなかったのです。ヨセフと兄弟たちとはここで和解しました。
 ここで私共はヨセフも又、22年の間に大きく変えられていたことに気付くのです。自分の人生を、自分にとって楽しかったか、苦しかったか、そのような尺度で測るのではなくて、神様の視点から捉え直すまでに成熟していたのです。兄たちも変えられました。そしてヨセフも変えられた。そこで初めて成り立ったこの和解なのであります。神様はここに至らしめる為に、ヨセフを、そして兄たちを導いて下さったのです。彼らは、変わりました。しかし、彼らは自分で変えようとして変わったという事ではなかったのではないかと思います。彼らは変えられていった、と言うのが正確でしょう。なかなか変わろうとしても変われない私共です。しかし、神様は変えて下さるし、その先には和解がある。神様が備えて下さる和解がある。私共はそのことを信じて良いのであります。

 その根拠は、神様は私共の為に主イエス・キリストを与えて下さったという事です。主イエス・キリストが私共の為に世に降り、私共に代わって十字架の上で死んで下さった。このことにより、私共は神様に向かって「父よ」と呼びまつることが出来るようになりました。この主イエスによってもたらされた神様との和解。私共はそこに招かれているのです。そこに招かれ、そこに導かれて行く者として生かされているのであります。ここに私共の人生の目的があるのです。そして、この神様と私共のとの和解は、私共を、必ずや人と人との間の和解へと導いていくのであります。
 ユダがベニヤミンの為に、自分が代わって奴隷になると申し出る事によって、ヨセフとユダとの間に和解が生まれました。このユダのあり方は、主イエス・キリストの十字架を指し示しているのではないでしょうか。この人と人との和解、和らぎの為には、この人の為に、この人に代わって重荷を担うという人がいなければならないのです。その人が居なければ和解は生まれないのです。
 そして主イエス・キリストによって生かされ、導かれる私共は、主イエスのように、そしてこのユダのように、他者に代わって重荷を担おうとする歩みへと押し出れていくのでしょう。私共は、そのような者として生きる為に、神様によって召されている者なのでありましょう。

[2007年11月25日]

メッセージ へもどる。