富山鹿島町教会

2008年元旦礼拝説教

「目標を目指して」
申命記 34章1〜4節
フィリピの信徒への手紙 3章12〜16節

小堀 康彦牧師

 2008年、新しい年を迎えました。この新しい年、私共は御言葉と共に、御言葉に導かれて歩んでまいりたいと願い、ここに集ってまいりました。新しい年を迎えたこの元旦にこのように礼拝を守るというのは、何も、日本には初詣という習慣がありますので、それに合わせて私共も新年の礼拝をする、というのではないのです。そうではなくて、新しい年を迎えた時に礼拝をささげるのは、旧約以来の神の民のあり様なのです。私共は新しい年を迎えた。それは、全てを御支配なさっておられる全能の父なる神様の御手の中で、この年も生きよと、神様の恵みによって新しく生かされたということであります。そして、このことを感謝して、私共は礼拝をささげるのであります。ですから、この礼拝において中心となりますことは、この一年が家内安全、商売繁盛でありますようにという私共の願いではないのです。もちろん、私共はそれぞれ課題があります。心配事もある。自分の体のことであったり、家族のことであったり、いろいろあるでしょう。何の問題もない人など一人もいないのです。そのような課題を持ちつつ、私共はここに集っている。そのそれぞれの課題に対して、神様の守り、支え、導きを当然祈り、願うのです。しかし、それが全てでもないし、中心でもないのです。そのような私共に、神様は御言葉を告げるのです。そして、私共は様々な課題を持ちつつ、この私共に告げられる御言葉に従って、この一年も歩んでいきたいと願うのです。何故なら、この与えられた御言葉に従って歩むことこそが、新しい年を私共に与えて下さった神様に対して感謝をもって歩むということだからであります。

 聖書は告げます。13節「なすべきことはただ一つ。」明解です。明確です。「なすべきことはただ一つ」なのです。あれもこれも、いろいろあるというのではないのです。なすべきことはただ一つであって、このことに集中しなさいと言うのです。では、その「ただ一つのなすべきこと」とは何か。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」と続きます。つまり、ただ一つのなすべきこととは、「目標を目指してひたすら走ること」だと言うのです。この目標とは何か。それは神の国であり、復活であり、救いの完成でありましょう。神様が私共を上へ召して与えて下さるものであります。これは、パウロ自身、12節で「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。」と言っているように、私共が既に手にしているようなものではありません。それは、最後の日に、神の国の完成と共に、私共に与えられるものであります。それを目指して、ひたすら走ること、それが私共がなすべきただ一つのことであると言うのです。
 私共の信仰の歩みというものは、この地上にあっては、どこまでも、この神の国において完成されるべき救い、神様に与えられる復活の命を求めていく日々のことなのであります。私共の信仰というものは、何年か何十年か精進していけば、悟りのようなものを得て、完成するというようなものではないのです。この地上にあっては、どこまでも求め続けていくものなのであります。教会で使われる言葉に、求道者、道を求める者、というものがあります。普通、洗礼をまだ受けていない人を指す言葉です。しかしこれは、誤解を与えかねないとも思います。洗礼を受けたら、求道者ではなくなる、道を求める者ではなくなるのか。そんなことはないでしょう。言葉の正確な使い方をするならば、私共は皆求道者なのであります。牧師も、信仰生活を始めたばかりの人も、何十年と信仰の歩みを続けている人も、皆共に求道者なのであり、求道者であり続けるのであります。
 しかし、そのように申しますと、何年も何十年も信仰の歩みをしても求道者というのでは、何とも心許ないのではないか、そう思われる方がおられるかもしれません。もちろん、私共の中に確信はあるのです。求道中ですから何も分からない。そんなことはないのです。この手紙を書いたパウロにしても、「目標を目指して走ることが、ただ一つのことだ。」、あるいは「既にそれを得たとか、完全な者となっているわけではない。」と申しておりますが、だからと言って、彼の中に信仰の確信がなかったというわけではないのです。彼は、主イエス・キリストによって既に救われていること、神の子とされており、やがて復活の命に与り、復活されたキリストに似た者となることに対して、確固たる確信を持っていました。確信しているのです。しかし、それを既に手に入れているということではないと言っているのです。ですから、パウロは信仰の確信を持っていても、それでもう、完全に悟りきったようになって、何の悩みも、課題もなくなる、そんなことはないということなのです。そうではなくて、信仰の確信を持って、日々起きてくる課題に対して音を上げるのではなくて、キリスト者としてなすべきことを誠実になしつつ歩んでいく。それが私共の地上の生涯における歩み方だと言っているのです。

 そしてその歩み方、ここでは走り方と言った方が良いでしょうか、それは「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」、そういう走り方だと言うのです。後ろ髪を引かれるように、後ろのことに心を引かれ、後ろを振り返りながら走るのではないと言うのです。これは、去年までのことを忘れて、新しい年に向かっていこうというような意味に理解することも出来るかもしれませんけれども、それとは少し違うと思います。私などは、去年のことを振り返っても、あまり思い出すことが出来ないように、すぐに忘れてしまうようになってしまいましたけれど、そういうことではなくて、この「後ろのもの」というのは、はっきり言えば、「罪」ということだろうと思います。罪人としての自分の有り様、主イエス・キリストの救いに与る前の自分の姿と言っても良いと思います。神様の言葉に従うよりも、自分の願いや思いを一番にしていた自分。与えることよりも与えられることばかり求めていた自分。仕えることよりも仕えられることを求めていた自分。そういう自分と決別して、振り返らない。これは、ヘブライ人への手紙の言葉で言うならば、12章1〜2節「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」ということになるでしょう。そして、「前のもの」に全身を向ける。この「前のもの」というのは、聖書の言葉によって示されている、私共の救いの完成であり、神の国であり、復活の命ということでありましょう。あるいは、主イエス・キリスト御自身と言っても良いでしょう。
 私共に与えられた新しい2008年という年、私共が歩んでいくのは、この神の国に向かっての歩みであるということなのであります。自分の罪と決別して、ただただ御心にかなった者へと成長していくことを願い、歩んでいくのです。ある方が、私共の人生は、神の国に向かっての巡礼の旅であると申しました。そうだと思います。私共の人生は、何の目標もなく、ただ一日一日を過ごしている、そういうものではないのであります。目標もなく、うろうろとさ迷い、時間だけが過ぎていく。その様なものではないのであります。私共の一年一年は、明確に神の国に向かっての一年一年の歩みなのであります。私共には、この目標が与えられている。このことは何と幸いなことであろうかと思うのであります。

 さて、どうして私共はそのような歩みをするのか。パウロは告げます。12節後半「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」私共は捕らえようとして、与えられようとして、ひたすら走る。後ろのものを忘れて、前のめりになって走る。どうしてか。それは私共がキリスト・イエスに捕らえられているからなのです。キリストを捕らえようとしている私共であります。しかし、それはキリストに既に捕らえられているからなのです。ここに私共の救いの確かさがあります。私共が走っていって、その先で決して空しくなることのない確かさがあるのです。
 聖書は、これと同じことを別の所でも語っています。ガラテヤの信徒への手紙4章9節「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている。」 ヨハネの手紙一4章19節「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」 ヨハネによる福音書15章16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
 私共の歩みは、既に神様に、主イエスに、選ばれ、愛され、知られ、捕らえられた者としての歩みです。その様な者として、私共は神様を、主イエスを選び、愛し、知り、捕らえようとするのです。神様により、主イエスにより、私共と神様との間には、愛の交わりの関係が既に与えられているのです。ですから、私共は安心して、心を尽くして、力を尽くして、その交わりを真実なものにしていこうとするのです。こう言っても良いかもしれません。私共の信仰は既に与えられており、既に神の子として生まれている。しかし、神の子として生まれた者は、神の子として成長していかねばなりません。いつまでも赤ちゃんでいるわけにはいかないのです。しかし、赤ちゃんも大人も人間であるのは変わらないように、信仰が与えられて神の子として生まれた以上、神の子として救われることに違いはないのです。私共の救いは、ここまで成長したら救われる、そういうものではないからであります。神の子として新しく生まれた。救われるにはそれだけで十分なのです。しかし、神の子として生まれた以上、私共は神の子としての成長を求められていますし、何よりも私共の中に、神の子として成長したいという願いが与えられているのではないでしょうか。赤ちゃんは、いつまでも寝たままではいないのです。ハイハイしたくなるし、歩きたくなるし、話したくなる。それと同じように、私共もキリスト者として成長したい。それが、ここで聖書が告げていることなのでありましょう。

 神の子としての成長、それはこれが出来るようになったとかいうような、目に見えるものではありません。人間の子でしたら、ハイハイが出来るようになった、歩けるようになった、話が出来るようになったと、分かりやすいのですけれど、神の子としての成長というのは、そのような形で外から見て分かるようなものではないでしょう。何かが出来るなどというところで見れば、私共はある程度年齢が上がりますと、一年ごとに出来なくなってくることが増えるのです。毎週の礼拝だって体調が整わず、なかなか集うことが出来なくなってくる。讃美歌だって新しいのはなかなか覚えられませんし、聞いた説教だって忘れてしまう。しかし、そんなことと神の子としての成長は関係ないし、目標を目指してひたすら走るということと少しも関係ありません。
 神の子として成長するということは、いよいよ主イエスを愛するようになるということですし、いよいよ主イエスを信頼するようになるということですし、いよいよ聖書の告げる神の国に希望を置くようになるということなのであります。それは、いよいよ目標を目指す者として、一日一日を主と共に生きる者になるということでありましょう。肉体は衰えても、私共は信仰において、神の子としていよいよ成長していくのであります。それは、私共の実感などというものでもありません。実感などとということを言い出すと、私共の信仰の歩みはまことに心許ないものになりかねない。私共の成長は、神様の目差しの中で明らかにされるものなのであります。私共が生かされている目標がいよいよはっきりしてくる。そこに既に大きな成長がありますし、そこに向かって私共は一日一日を過ごしている。その一日一日の歩みの中にこそ、私共の信仰の成長はあるのです。
 過去の自分、罪人としての自分、自分の犯した罪が、私共を捕らえようとして来る。それは逆らうことが出来ないほどの強大な力を持っているかのようにして、私共に迫ります。そして、私共を再び罪の泥沼の中に引きずり込もうとします。しかし、私共は既に神の子とされているのです。私共は、自分を脅かすその罪の誘惑をかなぐり捨てて、キリストとの交わりの中に生きるのです。私共を捕らえているのはキリストの救いの恵みであって、断じて罪ではないのです。罪は既にキリストによって滅んだのです。キリストとの交わりに生きる私共に、罪は指一本触れることは出来ないのです。
 この新しい2008年も、神の国という目標をはっきりと見すえて、キリストとの交わりの中で、そこに向かってひたすらに走る、そのような一年として歩み通したい。そのことを心より願うのであります。 

[2008年1月1日]

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