富山鹿島町教会

礼拝説教

「神によって生きる者」
申命記 25章5〜10節
ルカによる福音書 20章27〜40節

小堀 康彦牧師

 私共の信仰は、生ける神様との交わりであります。今朝私共がここに集いましたのは、生ける神様の御臨在に触れ、この方の前にひれ伏し、この方から御言葉を受け、この方に祈りと讃美を献げ、この方との交わりに生きる為であります。この生ける神様との交わりの中に、私共の信仰の全てがあります。この生ける神様との交わりを抜きにして、救いについて、信仰について、何を考え語ったとしても、まことに空しいのであります。全く意味がありません。そのようなものは、必ず的を外したものとなってしまうからであります。そのようなものは、知的遊戯に過ぎません。そしてそのような議論は、議論の為の議論ということになりかねないのです。救いについて、信仰について語るということは、私共の命について語ることであり、自分の命がかかっていることを語るのでありますから、遊び半分で出来ることではないのであります。そしてそれは、生ける神様との交わりの中で為されるのですから、どこまでも謙遜に、畏れをもって為されるものなのでありましょう。自分は全てを知っているわけではない、全てを知ることが許されている者ではないという謙遜さ、私は罪人に過ぎないという畏れの中で為されるものなのであります。
 今朝与えられております御言葉は、主イエスとサドカイ派の人々との復活をめぐる論争です。ここで主イエスが告げられておりますことは、まさにこのことなのであります。あなたのしていることは、生ける神様との交わりの中で考え、語っていることなのかということであります。

 ここで、主イエスに論戦を挑んでいるサドカイ派の人々について少し説明しておきましょう。当時のユダヤ教の中には、サドカイ派とファリサイ派と呼ばれる、二つの大きなグループがありました。この二つのグループは、はっきり違ったグループを形成していたのです。サドカイ派の人々は、神殿派と呼んでも良い、神殿を中心とした大祭司・祭司長といった神殿貴族、つまり支配階級の人々です。一方ファリサイ派の人々というのは、会堂派、民衆派と呼んでも良い、民衆がいつも安息日に礼拝を守っていた町や村の会堂を中心にしていた人々です。これの代表格は律法学者と呼ばれる人々です。サドカイ派の人々は支配階級ですから、ユダヤを支配していたローマに対しては悪い関係ではありません。一方ファリサイ派の人々は、はっきり反ローマという立場です。信仰においては、サドカイ派の人々は書かれた律法にしか権威を認めませんが、ファリサイ派の人々は口伝の律法も認めます。そして、今日の所に関して言えば、サドカイ派の人々は復活や天使を認めませんが、ファリサイ派の人々は復活も天使も認め、信じていました。ですから、この論争の後で、復活を信じていた律法学者は、復活を認める主イエスの答えに対して「先生、立派なお答えです。」と言ったのです。この二つのグループは、ことあるごとに対立していたのですが、主イエスを葬るという一点においては手を結んだのです。
 この復活を認めないサドカイ派の人々が、復活など無いということを論証する為に考えられたのが、今朝与えられているサドカイ派の人々の議論です。七人の兄弟がいた。長男が妻を迎えたが子がないまま死んだ。次男がこの長男の妻を迎えた。しかし、次男も死んだ。次に三男がこの女性を妻にしたが、三男も死んだ。こうしてこの女性は、次々と七人の兄弟の妻になったのだが、復活した時にはこの女性は誰の妻になるのか。そういう議論です。この死んだ兄弟の妻を妻として迎えるというのは、先ほどお読みしました申命記25章に記されていることです。これはレビラート婚と申します。日本でも逆縁婚と呼ばれ、戦前までは普通になされていた慣習でした。
 レビラート婚、逆縁婚というのは、この世の秩序としてあることでしょう。今のように社会福祉という考え方がない時代、夫に先立たれた女性がどうやってその後生活していくことが出来るのか。これはこれで意味のある制度です。問題は、サドカイ派の人々がこのことをそのまま、復活を考える為に、次の世を考える為に用いたということなのです。こう言っても良いでしょう。サドカイ派の人々は、律法に現れた夫を失った女性に対してのあわれみに満ちた神様の御心を少しも考えないで、七人の兄弟に次々に迎えられた女性のことを議論の材料にしている。ここには、七人もの夫を次々に失った女性に対しての憐れみも同情も微塵もありません。神様のあわれみの律法を、自分たちの、復活はないという議論の為に使ったのです。この議論は、当時サドカイ派の人々とファリサイ派の人々との間で為されていた議論の一つで、ファリサイ派の人々は、その女性は長男の妻となるという結論であったようです。主イエスはそのことも承知していたと思いますが、主イエスはこの議論のテーブルには乗りません。そうではなくて、主イエスはこの議論の根本にある誤りを指摘したのです。主イエスはこう答えられました。34〜36節「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」主イエスは、サドカイ派の人々がこの世のあり方をそのまま復活の命にも適用させようとすることに対して、否と言われたのです。復活の命、次の世というものに対して、この世の延長のように考える、この世と同じレベルで考える、このことに否と言われたのであります。このことは、信仰のあり方の根本に関わることでした。主イエスが告げられたのは、復活したのなら、私共は最早、結婚することはないということでした。それは、結婚というものはこの地上において私共が責任ある愛の交わりを形成する為に、神様が与えて下さった恵みの秩序だからです。しかし、次の世においては、復活の命に与ったなら、私共は全き愛を全うしているのでありますから、最早結婚は必要ないし、それ以上の全き愛に包まれることとなるのです。それが、天使に等しい者となり、神の子となるということです。私共は既に神の子とされていますが、まだその実体を持っているわけではありません。しかし、復活の時には、私共はまことの神の子であるキリストに似た者とされ、全ったき愛に生きる者とされるのです。

 私共もしばしば、サドカイ派の人々と同じ過ちを犯すのです。神様について、救いについて考える時に、自分の頭の中で理解出来るように、自分の理解の範囲に神様を閉じこめようとしてしまうのです。いくつかの例を考えてみましょう。キリスト教の根本教理というべきものは三位一体です。父・子・聖霊なる神様は三人の神がおられるのではなく、一人の神だと言うのです。どうして、一が三で、三が一なのか。理屈に合いません。あるいは、主イエスは「まことの神にしてまことの人」であると言います。人と神とはレベルが違う。質的に違う。全く違う。この全く違う神と人とが、どうして一つになるのか。これも理屈に合わないのです。これを理屈に合わせよう、私共人間の頭の中に納めようとしますと、神様は三位一体ではなく、一神論になるか、三神論になります。主イエス・キリストは、人間になるか、神になります。どちらも分かりやすい。分かりやすいのですが、これは聖書が告げていることではありませんし、主イエスによって示された真理ではありません。これは、ここでサドカイ派の人々が犯している同じ誤りを犯しているのです。自分の頭の中に、自分の理屈の中に神様を閉じ込めてしまうのです。しかし、生ける神様との交わりに生きる時、私共は神様が、主イエスが、自分の頭の中に納まるような方でないことを知らされるのではないでしょうか。私共の中に入り切るような神は、天地を造られ、今も全てを支配し給う生ける神ではありません。それは、私共の頭の中で作り上げた偶像に過ぎません。私共の信仰は生ける神様との交わりの中にあるのであって、自分の頭の中で造り上げた神、人格のない原理や理屈を信じることではないのです。
 私には妻と子がいます。どちらも20年程の付き合いですが、分かり切るなどということはありません。こんなことを言ったら怒るな、というくらいのことは分かります。今は機嫌が悪いな、そのくらいのことは判ります。しかし、何を考え、何を感じ、何をしようとしているのか、本当のところは判りません。人格があるということはそういうことなのです。分かり切ることがない。それは、相手が私と違う、自由な存在だからです。まして、神様のことを、どうして分かり切ることが出来るでしょう。しかし、私は妻も子どもも愛しています。分かり切らなくても、私共は愛せるでしょう。私共の信仰もそういうものだと思うのです。私共の信仰は、生ける神様と人格的に交わり、この方を愛し、この方と共に生きていく中で、少しずつ御心を明らかにされていく、そういうものなのでありましょう。
 復活や終末についても同じことです。復活とか、終末とか、よく質問を受けます。かしし、これについてすぐに納得するような話はなかなか出来ません。まして、絵に描くことが出来るように話すことは、ほとんど不可能です。しかしそれは、復活が無いとか、終末が無いというのではないのです。これについては、私共の理解する力の中に納まらないことだということなのであります。どうしてかというと、私共は自分の知っていることから想像し、類推するということによってしか理解出来ないからであります。それが、人間の理解の限界です。しかし、復活とか終末という事柄は、その私共の想像、類推の向こうにある、神様の側の事柄だからです。だったら何も分からないのか。そうではないのです。神様の側から、私共に分かるように様々な「しるし」を与えて下さっているからです。神様の御心を示した聖書がそうですし、神様そのものであられる御子キリストを人間イエスとして与えて下さいました。そして、生ける神は生きて働いて様々な出来事を起こし、私共に自らの存在を示し、この自分の想像を超えた神様の御手の中にある復活や終末を信じることが出来るようにしてくださるのです。
 私は今、イースターに洗礼を受ける予定の二人の方と、洗礼の準備の為の学びの時を持っています。洗礼を受けるという方との学びは、慣れるということはありません。この学びのなで、神様は生きて働いておられることを、思い知らされるのです。この人は洗礼を受けて当然だという人は一人もおりません。皆、不思議なように導かれて、洗礼への志を与えられるのです。本当に不思議なようにです。この不思議なようにというところに、神様が生きて働いてくださっている証拠があるのでしょう。私は牧師として生きるということは、この生ける神様の救いの御業の証人として生きるということだと思っています。
 先日、ある方から、「牧師というのは、本を読んで訓練してなるものではありませんね。天性のものですね。」と言われました。その方が、どういう意味で言われたのかはよく分かりませんけれど、私は「いや、牧師は学びつつ、訓練を受けて牧師になっていくのです。」と申しました。この方が言うように、本を読んで知識を得ただけで牧師になるというのではありません。しかし、天性で牧師になるのではありません。訓練を受けなければならないのです。この訓練を与えて下さるのは生ける神様です。生ける神様が出来事を起こし、その証人として立たせるのです。毎週の説教の準備の中で、家庭集会の中で、信徒との交わりの中で、神様の訓練を受け続けるのです。そして、生ける神の生ける言葉を告げる者へとなっていく、なり続けていくのです。神学的知識は必要です。しかし、それだけで牧師になるというものではありません。大切なことは、生ける神との生き生きした交わり、そこに生き切るということなのであります。
 主イエスは言われました。38節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」主イエスは、サドカイ派の人々に対して、あなた方は神様によって生きているのではないのか。生ける神様との交わりの中に生きているのではないのか。生ける神様はどこにいるのか。生きている者、全ての者と共に居るのではないか。七人の夫を失った妻と共におられるのではないか。そのような、嘆きの中に生きている者と共にいるのではないか。どうして、そのことが分からないのか。このようなつまらぬ議論の中に、神様はおられない。そう言われたのだと思うのです。
 私共は生きていく上で、様々な問題、課題と出会います。どうすれば良いのか分からなくなる時もあります。何が御心なのか分からなくなる時もあるでしょう。そこで私共がいつも思い起こさなければならないことは、私共が信じているのは生ける神様であるということです。このことが分からなくなりますと、待つということが出来なくなります。生ける神様が事を起こし、全てを為して下さる。私もこの人も生ける神様の御手の中に生かされている。そのことが分からなくなるからであります。理屈はどこにでも付きます。しかし、神様は理屈の中には居ません。生きて働いておられるのです。この生ける神様の前に立つ時、私共はただ自らの小ささ、愚かさ、罪を示されるでしょう。悔い改めるしかありません。この悔い改めの中で、私共は謙遜に、畏れをもって生きることを学んでいくのであります。

 主イエスは、37節で「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。」とも言われました。この「柴の個所」というのは、出エジプト記3章にあります、モーセが燃える柴の中から「モーセよ、モーセよ」と声をかけられた、モーセの召命の場面の所です。この時神様は、モーセに対して、御自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言われました。アブラハムもイサクもヤコブも、モーセの時代から何百年も前にすでに世を去った人です。しかし、神様はアブラハムもイサクもヤコブも過去の人としてではなく、生き生きした交わりの中にある者として呼んでいる。生きている者も死んだ者も、神様の御手の中にあっては誰一人として失われることはないからであります。死んだらおしまい。それは生ける神様を知らない者の言葉です。主イエスは十字架の上で死に、三日目に甦られました。この主イエス・キリストによって現された神様の力は、私共一人一人の上に働かれる。いや、すでに働いているのです。だから私共は、このように今朝、ここに集い礼拝に与っているのです。
 教会がキリストの体であるというのは、この主イエス・キリストによって現れた生ける神様との生き生きとした交わりが、ここにあるからであります。今年もイースターがそこまで来ています。受難週には、壮年会・婦人会・青年会・長老会から、一人ずつ証しをする方が立てられて、四日間の祈祷会が守られます。そこで私共は、生ける神の御業を愛する兄弟姉妹の口を通して告げられます。証言というのは、昔話をすることではありません。私の人生において神様はこのようなことをして下さったということを語ることです。そして、共に主をほめたたえるのです。「へーっ。この人はすごいな。」そんな感想を持たれたのなら、証言としては失敗です。主の御業を語り、主の栄光をほめたたえるのです。私はこの教会に、生ける神様との交わりの日々の中で与えられた、その人にしか語り得ない証言があふれることを願っています。それこそ、生ける神様との交わりに生きるキリストの体なる教会の姿だからであります。
 主イエスとこのサドカイ派の人々との論争は、受難週の出来事です。この論争の後、数日して主イエスは十字架におかかりになられたのです。ここで主イエスは、御自身の上に起きる十字架の出来事、そしてその後の復活の出来事を見据えてお語りになっておられるのです。机上の空論ではありません。文字通り、自分の命をかけた答えなのです。復活はある。そのことをわたしは身をもって示そう。そう主イエスは言われたのだと思います。私共は、この主イエスの言葉を、サドカイ派の人々の議論のように、自分の命とは関係ないところでの議論の材料にしてはなりません。「神は生きている者の神。全ての人は神によって生きる。」この主イエスの言葉を、今朝私共は、「神は私の神。私は神によって生きる。」そう受け取らなければならないのでしょう。私共は、神によって生きている、不思議なように生かされている。この一週の歩みが、まさに神様によって生き、生かされていることを味わい知り、それ故に、心から主をほめたたえることが出来るものであるように。神の御国を、復活の命を仰ぎ望みつつ為される歩みであるように。心から願うのであります。 

[2008年2月10日]

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