富山鹿島町教会

イースター記念礼拝説教

「復活の朝」
詩編 16編1〜11節
ルカによる福音書 23章50節〜24章12節

小堀 康彦牧師

 主イエスは、金曜日の午後3時にゴルゴタの丘の十字架の上で息を引き取りました。ユダヤの安息日は、金曜日の日没から始まります。安息日に入れば、主イエスの遺体を十字架から降ろすことも出来なくなります。処刑された犯罪人の遺体はそのまま放っておかれ、獣や鳥に食べられるままにされるのが普通でした。しかしこの時、アリマタヤのヨセフという人がピラトに願い出て、主イエスの遺体を引き取ったのです。この人はユダヤの自治を任されていた議会、サンヘドリンと言い、最高法院と訳されていますが、そこの70人いる議員の一人でした。彼がどうして主イエスの遺体を引き取ったのか。ルカはあまりはっきり記していませんが、ヨハネは「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」(ヨハネによる福音書19章38節)と記しています。彼は主イエスが生きている間、自分が主イエスの弟子であることを公にすることが出来なかったのです。同僚の議員たちに何と言われるか。十字架に架けられるような者の弟子であるとはどういうことか。彼は恐れたのです。自分の地位、社会的立場、それを失うのを恐れたのです。彼は議員の一人でしたが、最高法院で主イエスが裁判を受けていた時に、主イエスを弁護したわけではありません。彼は、何も言わなかった。何も言えなかったのです。そして、主イエスは死にました。十字架の上で死にました。アリマタヤのヨセフは、弟子の一人として、主イエスに期待していたのでしょう。この方がメシヤ、救い主として、神様の力によって天の軍勢と共にローマの兵隊を打ち破り、ユダヤの民をローマの手から解放することを期待していた。しかし、主イエスは十字架に架けられて死んだのです。もう終わったのです。期待していたけれども、何も起きなかった。主イエスは十字架の上から降りても来なかったし、天の軍勢もやって来なかった。もう終わった。アリマタヤのヨセフは、せめて主イエスの遺体を墓に納めるくらいはしたかった。これが、最高法院において主イエスが不当な裁判にかけられている時に、何もすることが出来なかった自分の、せめてもの罪滅ぼしと思ったのかもしれません。マタイによる福音書には、彼が主イエスの遺体を納めた墓は、自分の墓であったと記しています(マタイによる福音書27章60節)。昔から彼は老齢であったと考えられているのは、この自分の墓を用意する程の年齢であったからです。若い人は自分の墓など用意しないでしょう。今でも60歳を超えなければ、自分の墓をどうしようなどと考える人はいません。
 主イエスは死んだ。もう終わった。そう思ったのは彼だけではありません。主イエスと関わりを持った人は皆、そう思ったのです。主イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、彼女たちもそう思った。彼女たちは主イエスの十字架を遠くに立って見ていました。近くで見るには忍びなかったのでしょう。主イエスと一緒に旅をしてきた彼女たちにとって、自分たちが主と仰ぎ、愛していた主イエスが十字架の上で苦しまれる姿を近くで見るなどということは、とても出来ることではなかったのです。彼女たちは、アリマタヤのヨセフが主イエスの遺体を引き取り、自分の墓に納めるのに、後からついて行きました。せめて、主イエスの墓を確認しておきたいと思ったのでしょう。今は何も出来ない。でも、せめて人並みの葬り方をしてあげたい。そう思ったのでしょう。彼女たちも又、主イエスの十字架上での死によって、全ては終わった、そう思ったのです。だから、主イエスの墓の場所を確認すると、家に帰って、香料と香油を準備したのです。香料と香油、それは遺体の腐る臭いを紛らわす為に、遺体に塗るものです。当時のユダヤでは、人が死ねば、皆がそうしたのです。
 金曜日の日没から安息日が始まります。彼女たちは愛する者を失った悲しみの中で土曜日の安息日を過ごしたことでしょう。愛する者の死に立ち会うということは疲れるものです。あんなこと、こんなこと、主イエスとの交わりの日々が思い出され、主イエスの死をただ嘆きつつ受けとめていたのでしょう。そして、日曜日の明け方早く、まだ日も昇っていない頃、ちょうど今の季節ですから朝の4時か5時頃でしょうか、彼女たちは用意しておいた香料を持って、主イエスの墓へと行きました。すると、主イエスの墓のフタをしてあった石がわきに転がっていました。当時のユダヤの墓は、横穴です。山の斜面に横穴を掘り、そこに遺体を納め、石でふさぐのです。その墓のフタをしていた石がわきに転がっている。そして、墓の中には何もなかったのです。金曜日の夕方に、確かに納めたはずの主イエスの遺体が見当たらないのです。彼女たちは途方に暮れました。主イエスの遺体に塗る為に持ってきた香料をどうすることも出来ません。一体何が起きたのか、主イエスの遺体はどこにいってしまったのか、彼女たちは分かりませんでした。
 すると、輝く衣を着た二人の人が彼女たちのそばに現れました。輝く衣を着た人というのは、天使を言い表す表現です。彼女たちは聖なるものに触れ、驚き、恐れ、顔を地に伏せました。すると、この二人の天使は彼女たちに言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」彼女たちは、天使から世界で最初の主イエスの復活の知らせを聞いたのです。彼女たちは墓から戻り、使徒たちに事の次第を話しました。しかし使徒たちは、この婦人たちの話しをたわ言、ばかばかしい話だと思い、信じませんでした。

 これが主イエスが復活された朝に起きたことです。もしこの聖書の記事が作り話だとするならば、不思議な書き方を二重にしていることになります。一つは、最初の復活の知らせを受けたのが女性であったと記していることです。当時は、今よりも女性の地位はずっと低かったのです。女性の話など信用出来ない。そう思われていたのです。女子供の言っていること。そういう扱いだったのです。もし作り話だとするならば、信憑性が薄いと思われる女性の証言を第一の証言とするのは不自然です。しかし、聖書は女性の証言として記している。もう一つは、使徒たちが信じなかったと記していることです。福音書が記された頃、すでに使徒たちはキリスト教会の中の中心であり、権威ある者とされていた。その彼らが信じなかったと書かれている。使徒たちは彼女たちの知らせを聞くとすぐに信じた、さすが使徒達、そう書きたいところではないでしょうか。しかし聖書はそうは記していない。使徒達の不信仰をわざわざ記しているのです。理由は、単純だと思います。その通りだったからだと思います。
 主イエスの復活という出来事は、聞いて、ハイそうですかと信じられるようなことではないのです。使徒達がこの話をたわ言、ばかばかしい話と思って、すぐに信じられなかったということは、私共の姿と重なるのではないでしょうか。主イエスの復活の話を初めて聞いた時、これをばかばかしい話だと思わなかった人が、ここに一人でもいるでしょうか。とても信じられる話ではない、私共は皆そう思った。しかし、私共は信じる者とされた。まことにありがたいことです。聖霊なる神様が働いて下さらなければ、この信じない者から信じる者への転換は起き得なかったからです。
 今、日本で、私はクリスチャンですと言っても、それ程変な目で見られることはないかもしれません。私共は天地を造られた唯一の神様を信じている、そう言ってもあまり変だとは思われないでしょう。イエス・キリストをまことの神と信じていると言っても、それ程変だとは思われないでしょう。しかし、私はイエス・キリストが復活したことを信じています、そして私自身もやがて復活するということを信じています、と言うならばどうでしょう。もう話にならん、そういう顔をされるでしょう。私共自身、そういう顔をして復活の話を聞いたのでしょう。イエス様の愛の教えは素晴らしい。聖書はなかなか良いことを言っている。それは信仰がなくても分かることです。死んでそのままの多くの思想家、宗教家も、良いことを言ったし、教えた。しかし彼らは今、死者の中にいます。しかし、主イエスは復活し、今も生き給う。私共と共に生き給う。思想や考え方や倫理は信仰がなくても分かります。しかし、この復活だけは信仰がなければ受け入れることが出来ません。私共の頭の中では処理出来ないことだからです。しかし、この復活こそ、私共の希望の源なのです。

 主イエスに従った女性たちも、主イエスの弟子たちも、皆、主イエスの十字架上の死で全てが終わったと思ったのです。しかし、終わらなかった。主イエスは復活された。終わるどころか、ここから全てが始まったのです。死は全ての終わりを意味します。そう、人間の業は死によって終わるのです。どんな偉大な人も死で終わるのです。しかし、神の業は終わらないのです。良いですか皆さん。人間の業は死で終わります。しかし、神様の御業は死では終わらないのです。天地を造られた神様の業は、死が最後ではないのです。復活の命、永遠の命があるのです。永遠の命、それは天地を造り、永遠の昔から永遠の未来まで変わることなく生き給う、神様だけが持っているものであります。その命が、神の独り子であるイエス・キリストの上に現れた。それが復活という出来事なのです。
 私共の理解を超えた圧倒的な神の力が、この主イエスの復活という出来事に現れました。そして、この復活された方が、罪人と共に食事をし、病人をいやし、愛を教えられた主イエス・キリストだったのです。弟子たちは主イエスの語られたことの真実を知りました。主イエスが、まことに神の子、まことの神であることを知ったのです。弟子たちは、この後、復活された主イエス・キリストと出会います。このイースターから40日後に天に昇られるまで、何度も出会いました。そして、主イエスの復活という出来事が、ばかばかしい話などではなくて、本当に本当のことだと知らされたのです。そして、この主イエスの復活という出来事が、主イエスだけのことではなくて、自分たちの上に、そして主イエスを信じる全ての者に与えられるものであることを知らされたのです。そして彼らは、全世界に出て行って、この恵みの福音を宣べ伝える者となったのです。
 ある牧師が、「復活というものはなかなか信じられないものです。しかし、世の人が信じられないということと、世の人がそれを求めていないということは別のことです。復活ということは、もしそれが本当ならどんなに素晴らしいか、と人は思っているのです。しかし、そんなうまい話はあるまい。そう思って信じようとしないだけなのです。」と言われました。本当にそうだと思う。
 復活を信じるということは、死をも滅ぼすことが出来る絶大な神の力を信じるということであり、その神の御手の中に今、自分は生かされていることを信じることなのです。主イエスの復活を証明することは出来ません。信じるしかない。しかし、この信じるということも又、神様がその絶大な力をもって私共の上に臨み、信じない者が信じる者に変えられるということによってしか起きることではありません。それ故、私共は祈らなければなりません。信じる者にして下さいと祈るしかない。私が、そして私が愛する者たちが、あなたによって信じる者になるようにして下さいと祈るのです。神様はその祈りを空しくされることはありません。

 今日、二人の方が洗礼を受けられます。先週、長老会で試問いたしました。私は試問会に臨むたびに、自分が洗礼を受けた時のことを思い出すのです。そして、自分は本当に何も分かっていなかったなあと思う。しかし、神様は少しずつ少しずつ、教えて下さいました。少しずつ少しずつ、私を信じる者へと私を造り変えて下さいました。ありがたいことです。そして、自分の為にささげられた多くの祈りを思い、感謝するのです。このお二人の為にも、多くの祈りがささげられてきたのです。この祈りに神様は応えて下さった。これからも応えて下さいます。そのことを信じて良いのです。
 さて、この洗礼という出来事は、神様との契約でありますが、この契約によって何が起きるのかといいますと、私共と主イエス・キリストが一つに結ばれるということが起きるのです。それはちょうど、結婚という契約に似ています。今まで他人だった者が、結婚という契約によって一つに結び合わされるように、洗礼という契約によって、私共は主イエス・キリストと一つに結び合わされるのです。これは秘義であります。主イエス・キリストと一つに結ばれるが故に、主イエスの十字架は私共の死となり、主イエスの復活は私共の復活となるのです。私は、キリスト教の救いというものは、このキリストと一つにされるということを抜きにはあり得ないと思っています。私共がこれから与る聖餐も又、そのことを示しています。
 主イエスの十字架の死が、終わりでなかった以上、私共がこの地上を歩む上で出会う「もう終わりだ」という状況は、決して本当の終わりではないのです。死さえも終わりではないのですから、私共が終わりだと思う状況は、小さなステージの終わりでしかありません。絶大な力をもって、神様は私共に必ず次のステージを用意して下さっているのです。復活を信じるということは、この地上の生涯における「もう終わり」という状況の中で、それでもなお次を信じることが出来るということでもあるのです。次を信じることが出来る者に絶望はありません。どんな中でも、「大丈夫!!」そう言い切ることが出来るのです。何という幸いでしょう。
 使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一15章で復活ということについて長く論じた最後に、こう告げました。15章58節「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから<私共は復活するのですから>、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」キリストを信じたからといって、私共の人生の全てがうまくいくとは限りません。それどころか、次から次へと困難な状況がやって来ます。労苦は絶えない。しかし、復活がある。次がある。終わりじゃない。そしてその私共の全ての労苦を神様は知っていて下さり、私共が復活に預かるその時、全てに報いて下さる。そのことを私共は知っている。だから、今出来ること、今為すべき事を、主の御言葉に従って、誠実に為していきたい。そう心から願うのであります。

[2008年3月23日]

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