富山鹿島町教会

礼拝説教

「あの方は復活された」
詩編 16編1〜11節
ルカによる福音書 24章1〜12節

小堀 康彦牧師

 共々に読み進んでまいりましたルカによる福音書も、今日から最後の章に入ります。2004年の冬から始めました歩みでありますが、あと数回でルカによる福音書が終わります。主イエスの弟子たちが主イエスの復活の知らせを受けて新しい歩みを始めたように、私共も今日から主イエスの復活の報告を集中的に受けて、新しい歩みへと歩み出してまいりたいと願っています。
 今朝与えられております御言葉においては、復活の主イエスはまだ出て来ません。まだ弟子たちは復活の主イエスとは出会っていないのです。主イエスの遺体を納めた墓が空であったという、空の墓の報告がされているだけです。確かに、主イエスは既に復活されたのです。墓が空であったということは、そのことを示しています。しかし、弟子たちはまだその復活された主イエスとは出会っていない。ですから、11節に「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」とありますように、使徒たちは主イエスが復活されたということをまだ信じられないでいたのです。これは、主イエスの復活を信じるということは、復活された主イエスと出会うということがなければ起きないということを示しているのではないでしょうか。空の墓は、主イエスが復活されたことの「一つのしるし」には違いないのですが、これをもって主イエスの復活を信じるということは、にわかに起きることではないのです。
 主イエスの復活。これはキリストの教会が誕生することとなった出来事です。これがなければ、キリスト教は生まれなかったのです。確かに主イエスは様々な奇跡を行い、様々な教えを説かれました。弟子たちもおりました。しかし、もし主イエスが復活されなかったのならば、主イエスが復活されることなく十字架の死で終わっていたのならば、主イエスの弟子たちは解散してそれぞれ故郷に帰り、全ては何事もなかったかのように終わっていたはずです。主イエスが十字架におかかりになった時、主イエスを捨てて逃げてしまった弟子たちには、主イエスを救い主・メシアとして宣べ伝えていく力も勇気も根拠もありませんでした。弟子の一人一人は、主イエスというお方と出会い、共に旅をして過ごした日々をなつかしく思い出すことはあったとしても、それは弟子たちの思い出の一つに過ぎなかったことでしょう。その後、生まれてくる男の子に同じ名前を付けられることになった、使徒ペトロもヨハネもヤコブもそしてパウロも、誕生することはなかったでしょう。主イエスは復活されることにより、思い出の中の人ではなくなったのです。復活された主イエスは、弟子達の思いでの中に生きる方ではなく、どんな時にも共におられ、生きて働く神の御子であることを弟子達に示されたのです。

 主イエスは確かに復活された。それは、誰も想像することさえ出来ないことでした。弟子たちはそのことを期待して待っていた、そういうことではないのです。誰も考えてもいないことだったのです。現代人は傲慢にも、主イエスの復活という出来事を、「昔の人は迷信深く、科学的な考え方が出来なかったから、復活などということを信じたのだ、しかし科学的知識を手に入れた現代人は、そんなことは信じられない。」そんな風に言う。しかし、そんなことはありません。死んだ人が復活するなどということは、主イエスが復活された二千年前だって、誰も信じられないようなことだったのです。死は人間にとって超えることの出来ない、絶対的な終わりなのです。それは、人類が誕生したときから今に至るまで、少しも変わることのない真理であり、いつの時代の人もそんなことは知っていたのです。現代は日進月歩で医学が発達しています。十年前は治らないと考えられていた病気も治るようになりました。しかし、どんなに医学が発達しても、私共にはやがて死が訪れる。それを変えることは出来ません。それが人間なのです。
 しかし、主イエスは復活されました。ということは、主イエスというお方は、ただの人間ではないということです。死という全ての人間の上にある限界を打ち破ってしまわれた方、まさに神の子、神様そのものであられるということなのです。復活の主イエスに出会った主イエスの弟子たちは、神様との出会いを与えられたのです。全ては人間の思いで動いているかのように見えるこの世界にあって、それを超える確かな方、神様がおられることを、弟子達ははっきりと知らされたのです。しかもその神様は、自分と遠い所におられる方ではなくて、自分と共にいて下さる方として知ったのです。これは伝えなければならないことでした。知らせなければならないことでした。何故なら、人はそれを知らず、死におびえ、何を大切にしなければならないかを弁えないでいるからです。主イエスの弟子達はこの主イエスの復活により、世界の秘密、人生の秘密を知らされたのです。世界は、天地を造られた神様の御手の中にあり、私共の人生はその方により、死によって終わることのない命へと導かれている。この神様は、主イエス・キリストとして、人となり、その御姿を私共に現された。これは伝えられなければならないことでした。自分だけが知っていれば良いということではないからです。このことを知れば、人は変わり、世界も変わるからです。この世界の秘密、人間の人生の秘密の扉が最初に開いた所、それがこの空の墓だったのです。

 聖書が告げる報告を聞いてみましょう。1節「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」「週の初めの日」とは、日曜日のことです。土曜日の安息日は、土曜日の日没と共に終わりました。主イエスと旅を共にしてきた婦人たちは、まだ夜が明けきらない内に、主イエスの墓へと急ぎました。彼女たちは、金曜日の午後三時に十字架の上で息を引き取られた主イエスの遺体に対して、何の葬りの為の装いもしてあげられなかったことが、心残りで仕方がなかったのです。当時、死んだ人の体には香料が塗られることになっていました。せめて人並みのことをしてあげたい。そんな思いだったのではないでしょうか。死んでしまった人に香料を塗ったところでしょうがない。それは理屈でしょう。愛する者が死んだのなら、その遺体に何かしてあげたい。それが自然な情でしょう。私共も遺体をきれいに拭いて、その人が着ていた服を着せ、棺の中に花を入れる。それと同じ思いではないかと思います。彼女たちは、主イエスが十字架の上で死んでいく姿を見ました。アリマタヤのヨセフが自分の墓に納めるのも見ました。しかし、何もしてあげられなかったのです。十字架の上で処刑された人を勝手に葬ることなど出来なかった。それに既に安息日が始まる時刻が近づいていたのです。だから、彼女たちは、安息日が終わるのを待って、主イエスの墓へと急いだのです。
 墓に着いてみると、墓のふたを閉めてあったはずの石が脇に転がっています。当時のユダヤの墓は横穴です。墓の中に入ってみると、主イエスの遺体が見当たりません。一体、主イエスの遺体はどこに行ってしまったのか。彼女たちは途方に暮れてしまいました。すると、「輝く衣を着た二人の人」が現れました。この「輝く衣を着た」人というのは天使を指す言葉です。婦人たちは、驚き、恐れ、地に顔を伏せました。そして、この天使たちによって驚くべきことが告げられたのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」彼女たちは見たのです。主イエスが十字架の上で死ぬところ、アリマタヤのヨセフによって墓に納められるところを、この目ではっきり見たのです。だから、この墓に来たのです。しかし、天使たちは「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」と告げ、更に「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」と告げたのです。彼女たちは、天使が何を言っているのか、さっぱり分からなかったのではないでしょうか。天使たちは、墓の中を捜しても主イエスを見つけることは出来ない、なぜならそこは死者がいる所で、主イエスは復活されて生きておられるのだから、そう告げたのです。私共もこのことを良く心に留めなければなりません。主イエスは生きておられるのです。私共が主イエスを信じるというのは、二千年前に十字架にかかり死んだ方は、三日目に復活し、今も生きて働いておられるということを信じるということなのであります。キリスト教は、主イエスによって教えられた思想、生き方を受け継いでいる、それだけの存在ではないのです。今も生きておられる主イエスと共に生きている群れなのです。聖書を読むこと、主イエスの言葉を心に刻むことは大切です。しかしそれは、今生きておられる主イエスの声として聞くのです。それは思想などというものとは少し違います。人は死んでも、その書物によって思想を残すことが出来ます。今まで、人類にはそのような偉大な思想家達がたくさんいました。主イエスをそのような偉大な思想家の一人にしてはいけません。それらの思想家は、決して墓の中から出て来ることはないからです。主イエスは復活されたのです。生ける神として、私共と出会い、私共を導いておられるのです。

 天使たちは更に言います。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」確かに主イエスは、自らが殺され、復活することを語られました。9章22節、18章32〜33節にあります。彼女たちは確かに聞いていたのです。しかし、忘れていました。そのような彼女たちに向かって、天使は「思い出せ」と告げます。そして、婦人たちは「思い出した」のです。
 私共にとって大切なことは、「思い出す」ことなのです。既に語られ、教えられていることを、本当のこととして思い出すことです。婦人たちが目にしたのは、主イエスの十字架の上での死でした。この自分達がこの目でしっかり見た主イエスの死は、疑いようがない確実なものでした。この確実な死という現実の中で、婦人たちは主イエスの言葉を忘れてしまっていたのです。そう、私共も忘れてしまうのです。自分の目の前の現実の力の前に、主イエスの約束の言葉、主イエスが共にいて下さること、神様の全き御支配、その御手の中にある自分を忘れてしまうのです。そして、恐れ、おののき、不安の闇へと引きずり込まれていくのです。そのような私共に聖書は告げるのです。「思い出せ。」
 私共は日曜日のたびにここに集い、礼拝を守っています。それは、「思い出す」為なのです。主イエスの言葉、主イエスの御業、主イエスが今も生きて働き私共と共におられること、それを思い出す為です。「思い出す」ということは過去に目を向けることです。しかし、私共が思い出す内容は、私共の現在と将来に関わることです。私共が思い出すのは、思い出に生きる為ではありません。私共が思い出すことは、今も生きて働き給う方の約束であり、今もその業を継続されている方の御業です。婦人たちが主イエスの復活の約束を思い出した時、それは目の前の主イエスの死という現実を打ち破る、復活という出来事に目を開かれることであり、それは同時に、彼女たちが復活の証人としての新しい歩みへと押し出されていくことになったのです。私共が主イエスの十字架と復活を思い出すのも同じことです。主イエスの十字架と復活は確かに二千年前に起きたことです。確かに私共は思い起こすために、その眼差しを過去へと向けます。しかし、この主イエスの言葉と御業、十字架と復活を思い出す時、私共は復活されて今も生きて働き給う主イエスとの交わりの中に生かされている現実に生きることになるのです。そして、その目差しは主イエスによって約束された将来、死を超えたまことの命の世界、神の御国へと向けられていくのです。そして、私共を取り巻く現実がどんなに困難に満ちているとしても、その困難は最早自分を飲み尽くすことは出来ないことを知るのです。

 主イエスの空の墓を見、天使のお告げを受けたのは婦人たちでした。これは、四つの福音書全てが告げていることです。当時、女性の言葉というものは信用されてはいませんでした。まさに、「女、子供が言うこと」という扱いだったのです。もし福音書が主イエスの復活の話をでっち上げたのだとしたら、きっと女性たちに最初の証人としての役割を与えることはなかったでしょう。そして、11節にあるような、「使徒たちは信じなかった」ということも記さなかったでしょう。使徒達は福音書が書かれた時、すでにキリストの教会において中心的な役割を持っていたからです。作り話なら、「使徒達はすぐに主イエスの言葉を思い出し、主の復活を信じた。」と記すのではないでしょうか。私は、主イエスの復活の知らせを天使達から最初に受けたのが婦人達であったということに、主イエスの誕生を知らされたのが羊飼いたちであったのと同じ、主の憐れみが現れているのだと思うのです。人々から軽んじられていた婦人たちに、主イエスの復活という喜びの出来事が最初に知らされた。それは、私共とて同じでありましょう。私共に、人と比べて良きところがあるから、復活の主イエスとの出会いが与えられ、主イエスを信じる者とされたのではありません。私共も又、使徒たちと同じように信じない者でした。しかし、信じる者とされ、今日あるを得ている。ありがたいことです。ただ、神様の憐れみによるとしか言いようがありません。使徒パウロが、コリントの信徒への手紙一1章26〜28節で「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」と言っている通りであります。知恵ある者、地位ある者を小さくし、誇ることがないようにと、あえて小さな者、弱い者、愚かな者を選ばれたのです。誇るべきは、ただ主だけであるからです。
 私共は今から聖餐に与ります。この聖餐において、代々の聖徒達は、主イエスの十字架と復活の出来事を思い出してきました。そして、あの主イエス・キリストが今、私共のただ中におられることへと目を開かれ続けてきたのです。私共も今、聖餐に与り、主イエスの約束と御業とを思い出し、あの主イエスが今、私共と共におられ、私共の歩みの全てを守り、導いて下さっており、それ故、自分たちの歩みが死によって終わることのない、神の国に向かっての歩みであることを心に刻みたいと思います。 

[2008年8月3日]

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