富山鹿島町教会

礼拝説教

「開眼」
列王記 上 17章8〜16節
ルカによる福音書 24章13〜35節

小堀 康彦牧師

 私共は今朝も、日曜日の朝ここに集い、礼拝をささげています。日曜日、それは主イエス・キリストが十字架にかけられ死んで、三日目に復活された日です。私共は日曜日が来るたびに、主イエスがご復活されたことを覚え、そのことを喜び祝い、礼拝をささげているのです。ですから、この日曜日の礼拝は「主がよみがえられた日の礼拝」、「主の日の礼拝」と呼ばれてきました。キリストの教会は、この「主の日の礼拝」を守る民として、二千年の間生きてきました。この主の日の礼拝は、一度も休まれることなく守られてきたのです。自然災害に見舞われた時もありました。疫病が流行った時もありました。戦争のただ中の時もありました。迫害を受けた時代もありました。しかし、この主の日の礼拝が休まれることはありませんでした。これからも、主イエスが再び来られる日まで、この主の日の礼拝は守られ続けていくでしょう。この礼拝に与る人は変わっていきます。人は時が来ればこの地上の生涯を閉じなければならないのですから、仕方がありません。しかし、礼拝は続いてきましたし、これからも続けられていきます。私共は、この綿々と続く礼拝者の群れの中で、この数えきれない礼拝者の群れと共に、今日も礼拝を守っているのです。私共は、主の日の礼拝に与る度ごとに、礼拝を守り続けた壮大な礼拝者の群れを思い起こさなければなりません。私共は、今日、ここで共に礼拝を守っている目に見える人々とだけ礼拝を捧げているのではないのです。
 この主の日の礼拝において、代々の聖徒たちは何をしてきたのでしょうか。そして、私共は何をしているのでしょうか。それは、主イエス・キリストによって成し遂げられた神様の救いの御業を思い起こし、この救いに与ってきたのです。三日目に御復活された主イエス・キリストの命に与ってきたのです。この礼拝において受け継がれ、伝えられてきたのは、主イエス・キリストの復活の命なのです。私共はこれを受け継ぎ、この恵みの中に生かされ、これを伝えていく群れなのです。その為に神様によって建てられたのが、キリストの教会なのです。
 教会には、このキリストの命を受け継ぐ手段として、二つのものが与えられました。それは説教と聖礼典、特に聖餐です。この二つを通して、代々の聖徒たちは復活の主イエスと出会い、その救いの御業を思い起こし、その救いに与り続けてきたのです。この二つは、主イエスが御復活された日から、復活された主イエス御自身から弟子たちに与えられたものでした。
 今朝は、主イエスが御復活された日の午後の出来事、いわゆる「エマオ途上の出来事」から、特に説教について見てまいりたいと思います。

 13節「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、」と始まります。「ちょうどこの日」とは、主イエスが復活された週の初めの日、日曜日のことです。二人の弟子、一方の弟子の名はクレオパという人です。もう一人の人の名は記されておりませんので分かりません。クレオパの子どもではなかったか、あるいはクレオパの妻ではなかったかと想像する人もいます。しかし、記されていないのですから分かりません。このクレオパにしても、この個所以外に聖書のどこにも出て来ません。私は、その意味ではこの「クレオパともう一人の弟子」というのは、無名のキリスト者、名もなき主イエスの弟子の代表のように考えて良いのではないか、そう思っています。キリストの弟子としては十二使徒が有名であり、特別な位置を占めていることは間違いありません。しかし、主イエスの弟子は十二使徒だけではありません。最初に主イエスの墓に行き、空であることを知ったのは、女性の弟子たちでした。聖書は主イエスの弟子たちの全ての名を記しているわけではありませんし、それ故私共は全ての弟子の名を知っているわけではないのです。その必要もないからです。それはいつの時代でも同じです。全ての主イエスの弟子たちの名が覚えられるわけではないのです。しかし、それで良いのです。主イエスの全ての弟子の名は、神様御自身が知っておられ、天にその名が記されているのです。それで十分なのです。ただ、この無名の主イエスの弟子に何が起きたのか、それは記録されねばなりません。記憶されねばなりません。それは全ての無名のキリスト者にとって、共通の出来事だからであります。キリストの教会にとっての共有の財産だからであります。
 この二人の弟子は、「エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩いて」いました。エマオという村がどこにあった村なのか、分かっておりません。60スタディオンというのは約11kmです。歩いて2、3時間の距離です。
 14節「この一切の出来事について話し合っていた。」とあります。「この一切の出来事」とは、19〜24節にあります、主イエスが祭司長たちに裁かれ、十字架につけられて死んだこと、そして死んで三日目の今日、婦人たちが主イエスの墓に行ったけれど空であったということ、天使が現れ「イエスは生きておられる」と告げたということ、この一連のことであったと思います。彼らはそのことについて語り合い、論じ合っておりました。一体これはどういうことなのか、彼らには分からなかったからでありましょう。主イエスが十字架の上で死んでしまったということはどういうことなのか。しかも墓が空であったとはどういうことなのか。天使が告げた「イエスは生きておられる」とはどういうことなのか。彼らには、一体これらが何を意味しているのか、本当のところ何が起きたのか、さっぱり分からなかったのであります。判らないから論じあっていたのです。
 私には、この二人の弟子たちがさっぱり分からずに話し合い、論じ合っていたということが良く分かるのです。私もそうだったからです。18歳で初めて教会に来て礼拝に出て、それから半年、一年と、さっぱり分からなかった。礼拝に出てはいるけれど、聖書も読んでみたけれど、さっぱり分からない。自分とは関係のない、遠い昔の外国の話。そんな風にしか、どうしても受け取れなかったのです。語られているのは日本語なのですから、分からないはずがない。にもかかわらず、さっぱり分からない。全く分からない。外国語以上に分からない。それは、今まで自分が生きてきた世界とは全く違う世界についての話だったからなのだと思うのです。
 21節を見ますと、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」とあります。この二人の弟子は、主イエスに望みをかけていた。どんな望みかといえば、「イスラエルを解放してくださる」という望みでした。つまり、主イエスを中心として、反ローマの人々が立ち上がり、イスラエルをローマの支配から解放する、そういう望みだったのです。ところが、主イエスは十字架の上で死んでしまった。しかも、ローマに対して共に戦うと思っていた祭司長や議員といったイスラエルの指導者たちが、主イエスをローマに引き渡したのです。何という裏切りか。彼らは祭司長たちに怒りを覚えていたかもしれません。彼らは、これからイスラエルはどうなるのか、もうイスラエルはダメだ、そんなことを論じ合っていたのかもしれません。ところが、主イエスの墓は空であり、天使は「イエスは生きておられる」と告げたという。だったら、あの十字架の上での死は何だったのか。死んでいなかったのか。だとすれば、もう一度主イエスを中心として、ローマに対して立ち上がる機会が訪れるのだろうか。そんなことを論じ合っていたのかもしれません。
 ここで明らかなことは、彼らはこの目に見える世界におけることしか分かっていないということです。そして、彼らはこの世界において主イエスに望みをかけていたのです。そしてそれは、主イエスの十字架の死によって破れたのです。もう終わってしまったのです。自分が描いていた「イスラエルの解放」という未来は砕け散ってしまったのです。だから彼らは、「暗い顔」(17節)をしていたのでしょう。ところが、この「もう全ては終わった。もうダメだ。」という彼らに、全く別の世界から、神様の側から、新しい展開が始まった。それが主イエスの復活だったのです。
 私共は、いつもこの二人の弟子たちと同じように、見える世界のことだけに希望を持ち、それに向かって計画を立て、努力をする。しかし、それはしばしば、自分が願い、自分が思った結果をもたらしません。そして思うのです。「もうダメだ。」その最も決定的、圧倒的力をもって私共に迫る「もうダメだ」という現実、それが「死」です。しかし、主イエスは御復活されました。死さえも、「もうダメだ」ではない。それで終わりではない。主イエスの復活は、私共にそのことを示すのです。しかし、それはなかなか分かりません。この神様の世界、死を超えた命に向かって、私共の目は遮られているからです。しかし、この神の命、永遠の命、復活の命に向かって、私共の目は開かれるのです。しかもそれは、私共の修行や努力や精進によって開かれるのではありません。復活の主イエス・キリスト御自身が私共に働きかけ、私共の目を開いて下さるのです。

 15節を見ますと、「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」とあります。何が起きたのか分からず、目に見えることしか知らない二人の弟子、その二人に主イエス御自身が近づき、一緒に歩き始められたのです。しかし、この時二人はまだ、一緒に歩き始められたのが主イエスであることが分かりません。聖書は「二人の目は遮られていた」からであると記します。私は、ここに主イエスの御復活という出来事が何であったのかの秘密があるのだと思います。主イエスの御復活は、単なる肉体の蘇生というようなことではなかったのです。ただの肉体のよみがえりならば、この二人の弟子が主イエスのことを分からないはずがないのです。しかし、二人は分からなかったのです。もう一つ言えば、聖書が記す主イエスの御復活は、弟子たちにしか示されませんでした。ただの肉体のよみがえりならば、主イエスの弟子であろうとそうでなかろうと、誰にでも分かったはずであり、主イエスの弟子以外の証人がいても良さそうなものです。しかし、そのような人は一人も報告されていないのです。主イエスの御復活というのは、確かに体のよみがえりでありますが、同時にそれはまことに霊的なことだったのです。もし主イエスの御復活が肉体の蘇生に過ぎないのであるならば、私共に与えられる永遠の命、復活の命というのも、この肉体がよみがえるだけということになるでしょう。そうであるならば、私共の罪はそのままに残ることになります。意地悪で頑固な人は、そのまま意地悪で頑固なまま永遠に生きる。それは救いでも何でもないでしょう。それこそ地獄であります。
 私がここで注目したいのは、この二人は自分たちは分からなかったけれども、主イエスの方から彼らに近づき、既に彼らと一緒に歩んでおられるということです。これは代々の聖徒たちが証言してきたこととも一致します。主イエスが自分と共に歩んで下さっているということに私共が気付く前に、主イエスは私共と一緒に歩いて下さっているということなのです。私は断言します。今日、主イエスが自分と一緒に歩いて下さっているということが分からない、信じられない、そのようなあなたと共に、主イエスは既に共に歩んで下さっておられます。
 では、主イエスは私共と一緒にいて下さって何をして下さっているのでしょうか。私共を一切の悪しき力から守って下さり、神の国へと導いて下さっている。その通りであります。しかし、そのことを更に具体的に聖書は告げております。25〜27節「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」この二人の弟子は、目に見えることしか分からない。主イエスが誰であり、主イエスによって何がもたらされたのかも分からない者でありました。その二人に向かって、主イエスは聖書を説き明かされたのです。この聖書の説き明かしこそ、復活の主イエスが私共と共に歩んで下さっていることのしるしなのです。
 ここで主イエスは、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と、この二人に言われます。皆さんの中で、自分が「物わかりが悪く、心が鈍い」と思われる方は喜んでください。主イエスがその様に言われるとき、主イエスは既に私共と共に歩んでくださり、私共に語りかけてくださっているのです。主イエスに語りかけられ、主イエスに示されることがなければ、私共は自分が「物わかりが鈍く、心が鈍い」などとは、決して思わない者なのですから。この時、二人の弟子も自分から「物わかりが鈍く、心が鈍い」などとは少しも思っていなかったのですから。

 32節を見ると、「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」とあります。この二人は復活の主イエスによって聖書が説き明かされた時、「心が燃えた」のです。これは御言葉体験と言って良いでしょう。聖書の言葉が自分に向かって語られている。今まで判らなかった聖書の言葉が判った。私共はそんな体験を皆持っているはずです。その時から自分の信仰の歩みが始まった、そんな御言葉体験を持っている。それは説教を聞いていて起きたという人もいれば、祈りつつ聖書を読んでいる時だという人もいるでしょう。あるいは、具体的な人生の試練と言うべき出来事の中で、御言葉が示されたという人もいる。どんなあり方にしろ、御言葉が明らかにされ、主イエスは誰であり、自分が神様に赦され、愛されていることが分かった、そういう体験を持っている。その時私共は、確かに心が燃えたのではないでしょうか。
 この御言葉によって心が燃えるという体験は、一時の感情の高揚とは少し違うと思います。そのようなものは一時的であり、すぐに冷めてしまうものです。そうではなくて、目に見えない世界、神様の御支配、神様の御業に目が開かれるという体験なのではないかと思います。死によって終わることのない世界、神様の御支配へと目が開かれるという体験でありましょう。これは、教会の歴史に残る偉大なキリスト者たちだけに与えられたものではありません。名もなき全てのキリスト者に与えられた体験であります。私共にも与えられている。主イエスの弟子たちは皆、この主イエスによる聖書の説き明かしを受けた。それ故、その説き明かしを語る者とされたのです。主イエスのご復活の日に、主イエスご自身から与えられた聖書の説き明かしこそが、キリストの教会の主の日の礼拝の説教の始まりなのであります。そして、私共は主の日のたびごとに、主イエスが御復活された最初の主の日に起きた、復活の主イエスによる聖書の説き明かしを、繰り返し繰り返し、この礼拝のたびごとに再体験させていただいているのです。そして、復活の主が今も自分と一緒に歩んで下さっていることを知らされ続けているのであります。
 この時、主イエスがどの聖書の箇所をどのように説き明かされたのか、具体的には判りません。しかし、私は先ほどお読みいたしました列王記 上 17章8〜16節の個所も、きっと説き明かされたに違いないと思っています。ここに記されているのは、預言者エリヤによって為された、尽きぬ粉・尽きぬ油の奇跡です。この奇跡は、主イエスのカナの婚礼での奇跡や五千人の給食の奇跡を思い起こさせます。主イエスは、預言者エリヤの奇跡は、私の到来を指し示していたのだ、そう告げられたのではないでしょうか。
 私は牧師をしておりますから、多くの所で御言葉を語ります。そしてそこには、たいてい求道者と申しますか、まだ主イエスを信じることが出来ないでいる人が何人かおります。私はいつも、その人にもこの聖書の言葉が届くようにと願ってお話ししています。しかし、いつもその人に御言葉が届いていくとは限りません。しかし、私はここに集い、御言葉の説き明かしを受けているということは、この人はまだ自分では分からないけれど、既に復活の主イエスがこの人と共に歩み始められている。そのことを信じているのです。私共の目が既に開かれているのならば、既に始まっている神様の救いの御業に、私共の目は開かれなければならないのだと思うのです。
 復活の主イエスは、今どこにおらるのか。聖書の説き明かしを受けている私共のただ中におられるのです。

[2008年8月10日]

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