富山鹿島町教会

礼拝説教

「光の子として歩む」
詩編 34編2〜15節
エフェソの信徒への手紙 5章6〜20節

小堀 康彦牧師

 主イエス・キリストと結ばれ、神の子、神の僕とされた私共は、いつでもどこででも神様と共に生きています。私共は日曜日の朝だけキリスト者なのではありません。当たり前のことです。いつでも、どこででも、何をしていても、キリスト者なのです。それは、いつでも自分はキリスト者であると意識しているということではありません。意識していようとしていまいと、私共はキリスト者なのです。それはちょうど国籍のようなものです。私共は普通に生活しております時に、日本人であるというようなことはほとんど意識していないでしょう。しかし、何かのスポーツの大会などがあれば、日本の選手を応援しています。当たり前に、醤油にワサビで刺身を食べている。それと同じように、私共は意識しようとしまいとキリスト者なのであって、その生活はキリストと結ばれる前、神様のものとされる前とは、違ったものになってしまっているのです。ただ、国籍と同じようなものと申しましても、この日本においてキリスト者はまことに数は少ないですから、どこか外国で暮らす日本人のように、キリスト者であるということを意識させられてしまうという場面は多いでしょう。このエフェソの信徒への手紙が書かれた時代、エフェソの町に住むキリスト者も、私共と同じような感覚をもって日々の生活を送っていたのではないかと思います。彼らも又、少数派だったのです。生まれたばかりのキリストの教会に集う者達。それはエフェソの町の中で、まことに小さな群れでありました。それ故、私共と同じように、新しくされたキリスト者としての生活を堅固に形作っていかなければ、キリスト者になる前の生活に再び飲み込まれていってしまう、そう言う危険の中にあったのだろうと思うのです。

 では、キリストと結ばれ、神様のものとされたキリスト者は、それ以前とどこが違ってくるのでしょうか。それは第一に、天地を造られた三位一体の神様以外のものを、神様とすることがなくなったということであります。今朝与えられております御言葉は、「むなしい言葉に惑わされてはなりません。」と告げています。この「むなしい言葉」というのは、その直前の「みだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。」を受けています。ですから、この「むなしい言葉」というのは、偶像礼拝者のむなしい言葉ということです。この神様を拝めば病気が治ります、お金がもうかります、仕事がうまくいきます。そのような言葉に惑わされてはいけないと告げているのです。あるいは、神様を知らない者が当たり前のように行っている不品行への誘いの言葉に惑わされてはいけないということでしょう。私共は神様のものとされた、神の子、神の僕とされた。そうである以上、もはや父・子・聖霊なる神様以外のものを頼りとし、これを拝み、生きることは出来ないのです。してはいけないというのではありません。出来ないのです。
 ここで十戒の第一、第二の戒を思い起こすことも出来るでしょう。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。」この戒めの中に喜んで生きるのです。あるいは、ハイデルベルク信仰問答の問一を思い起こすことも出来ます。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」答「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」私は神様のもの、主イエス・キリストのもの。最早自分のものではない。主イエス・キリストが私のすべてを支配し、自分のものとしてくださっている。ここに私共の慰め、喜び、平安、希望があるのでしょう。
 この神様のものとされた私共を、聖書は「光の子」と呼びます。まことの光である主イエス・キリストと結ばれ、主イエス・キリストの光を受け、その光を輝かす者として生かされている私共であります。この光はキリストの光でありますから、まことの神様と敵対する一切の偶像、罪、不品行と一緒であることは出来ません。これを聖書は「闇」と言います。光と闇は両立しません。光の中に生きる者は、同時に闇の中に生きることは出来ないのです。闇の中に逆戻りすれば、それは光を捨てることになるのです。私共は光の子です。私共の中に光が宿り、私共を光が包むのです。私共の足元を光が照らし、私共は光に向かって歩むのです。この光とは主イエス・キリストです。私共はすでに光の子とされています。しかし、闇はなお私共を誘います。いろんな誘い方があります。「そう堅いことを言いなさんな。」「このくらい大したことではない。」「みんなやっていることだ。」「誰も見ていない。」いろいろあります。信仰の歩みに誘惑は付き物です。具体的な誘惑の種類は、その人の置かれている状況によって違うでしょう。しかし、この闇の誘惑と無縁に生きている人など誰もいません。牧師とて例外ではありません。
 ですから、10節「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」と続くのです。17節では「主の御心が何であるかを悟りなさい。」とも告げられています。私共は光の子として、主に喜ばれることをするのです。神様の御心を知り、御心にかなうことを為していくのです。それは、光にさらされ、明るみに出されて恥ずかしいこととは決別することでもあります。この手紙が書かれた頃、エフェソの町では性的不品行が社会の中で大手を振っていたのです。それと決別することが、キリスト者として生きていく上で、とても大切な証だったのです。

 私はキリスト者として生きるということは、四角四面の堅物になることだとは、少しも思っていません。光の子は、主イエス・キリストがそうであるように、やわらかで柔和であるのでしょう。しかし、キリストに従い、神様と共に生きるという一点においては、ある徹底性を持っているのだと思うのです。ここが不徹底であれば、私共は光の子として、世の光として生きることは出来ないのです。私共は主イエスの救いの証し人として生きたいと願っています。伝道したいと思っています。そこで何より大切なことは、私共が何を行い、何を語るのかという以上に、神様にお従いするという所での徹底さということではないかと思うのです。それがあって初めて、何を行い何を語るのかということが、力あるもの、説得力のあるものとなっていくということなのではないでしょうか。いつでもどこででもキリスト者であること、神様の御前に生きる者として歩むということであります。
先日、ノアの会(子育て中のお母さん達の聖書を学ぶ会)でこんなことがありました。小学生のお子さんが学校へ行く前に、何があったのかは分かりませんが、お母さんがお子さんを叱ったそうです。その時、「誰も見ていなくても、神様は見ているんですからね。」そう言って、かなり激しく叱ったそうです。そして、あんなにきつく叱らなければ良かったと反省しつつ、ノアの会に来た。するとちょうどその日、私が詩編139編を話したのです。詩編139編というのは、「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。」(1〜3節)という、神様は私共の全てを知っておられるということを歌う詩編なのですけれど、そのお母さんは、「幼い娘に、『神様は見ているのよ』と言って叱ったけれど、その叱っている私自身が神様に見られていたのだと分かった。娘には言うくせに、自分が神様に見られているのを、その時自分は全く忘れていた。恥ずかしい。」そう言われました。私は、「別に恥ずかしいことはないですよ。神様が見ておられる、だから神様の御前に恥ずかしくないように生きるように、そういう子に育って欲しいと思ったわけでしょう。確かに、私共には欠けがあるのです。あんなにきつく叱らなくても良かった反省することもしばしばです。キリスト者の母であるということは、完璧な母であるということではないでしょう。とても、そんな完璧な母になどなれやしません。しかし、神様の御前に生きているお母さんの姿、真剣に神様の御前に生きることを願う母の姿は、何よりの教育になっているはずです。」そう話しました。
 自らが光の子であり、それ故に光の子として生きる。その徹底した姿において、たとえ欠けがあろうと、破れ提灯はその破れた所から中の光がこぼれ出るように、私共の内なるキリストの光は隠しようもなく現れ出るものなのでしょう。この「破れ提灯」のたとえは、元東京神学大学の学長であった松永希久夫先生が良くしてくださいました。一時の空しく過ぎていくものに心を奪われるのではなく、永遠に変わることのないキリストの命に心を向け、そこに集中して生きていく。神様に従い、キリストに従い生きていく、この姿こそが光の子としての歩みなのです。

 そのような私共の歩みにおいて、主の日の礼拝というものは特別なものです。この礼拝によって、私共の光のことしての心が形作られていくからです。18節を見ますと、「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。」とあります。こういう所を読みますと、お酒を飲まないようにという風にすぐに考える人がいるかもしれませんが、そういうことではありません。もちろん、お酒というのは乱行のもとにもなりますから、飲み方は程々にということになるのですけれど、ここで言われているのは、当時の宗教においては何かというと酒を飲み、それによって興奮し、神に満たされたような気分になる。そういうことがあったのです。私共から見ればバカみたいな話ですけれど、アルコールや薬物を使って宗教的エクスタシーに至るということは、それ程珍しいことではなかったのです。パウロがここで語ろうとしているのは、礼拝のことです。礼拝の心、礼拝の経験、それが私共の日常の歩みを形作っていくのです。ですから、「むしろ、霊に満たされ」と続くのです。お酒の力によってではなくて、聖霊の力によって礼拝しなさい。そして、その礼拝の心を持って日々を歩みなさい、と告げているのです。19節の「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」とは、まさに礼拝において為されていることでしょう。この主の日の礼拝において、私共の光の子としての歩みが形作られていくのです。この礼拝において、私共は神様と出会い、神様の御前にひれ伏し、神様をほめたたえ、神様の御手の中にある自分を発見し、新しい一週の御国への歩みへと遣わされていくのです。この礼拝において、私共の一週の歩みが特に変わったことのない平々凡々とした営みの繰り返しであったとしても、それが神の国への大切な、意味のある歩みであることを知るのです。私共の口が、主をほめたたえ、神様の救いの恵みに感謝する為に開かれるという、神の国の祝福を先取りする経験をするのです。
 それは更にいえば、私共がこの主の日の礼拝を守る、何としても守る、ここにおいて光の子としての歩みの徹底性が明らかに示されるのでしょう。私共が一切の悪しき誘惑から決別しているかどうかということが試されるということなのではないかと思うのであります。この主の日の礼拝を守るという生活こそ、光の子となる前と決定的に変わったところだからです。何故なら、この主の日の礼拝こそ、神様が喜ばれ、何よりも神様の御心にかなうことだからです。そしてこの主の日の礼拝において、国籍を天に持つ、光の子としてのキリスト者は生み出され、訓練され、形作られていくのです。
 私は現在、全国連合長老会の式文委員会の責任を負っております。まだ全国会議の承認を受けてはいないのですが、ほぼ「主の日の礼拝の指針」が出来ました。その冒頭の所、序はこのように始まっています。「神は、礼拝する者として人(アダム)を造られました。そしてアブラハム以来、礼拝する民として神の民を選ばれました。神の民は礼拝することによって神の民であり続けます。礼拝は、神の民の命であり、全生活の基礎であり、目的であります。」なかなか良く出来ていると思います。私共は礼拝する民として造られ、選ばれたのです。礼拝は私共の全生活の基礎であり、目的なのです。人生いろんなことがあります。全てが順調で楽しい日々もあれば、辛い日々もある。病気になる時も、こんなはずではなかったということもあります。しかし、どんな日々であっても、この礼拝に集うことさえ出来れば、私共は歩み続けることが出来ます。光の子として、御国に向かって歩めるのです。死人の中からよみがえられた、主イエス・キリストの永遠の命の光を宿して歩むことが出来るのです。どのような闇の力も、空しさも私共を支配することは出来ないのです。
 私共は、これからそれぞれ神様に遣わされている持ち場に戻っていきます。それぞれの場において、光の子としての歩みを、一週間しっかり為してまいりたいと心から願うのであります。父・子・聖霊なる神様の守りと支えと導きが豊かにありますように。 

[2009年1月25日]

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