富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の武具を身に着けて」
申命記 8章11〜20節
エフェソの信徒への手紙 6章10〜13節

小堀 康彦牧師

 「神の武具を身に着けなさい。」と聖書は告げます。この「武具」と訳されている言葉は、「全ての武具」という意味の言葉です。つまり完全武装せよというのです。何とも穏やかならざる言葉です。何か一つ、剣なり、盾なり、一つの武具を手に取れと言うのではないのです。鎧兜に身を包み、盾を取り、剣を持ち、完全武装して戦えと言うのです。ここでイメージされているのは、当時最強と言われたローマ帝国の正規軍の姿ではないかと思います。そのように完全武装して立ち向かう相手は誰かといいますと、悪魔なのです。聖書は、信仰の歩みとは、この悪魔の策略に対抗して、これと戦い、勝利していくことなのだというのです。
 どうでしょうか。私共は、自分の信仰の歩みがそれ程厳しいものであるとは、あまり考えていないのではないでしょうか。聖書が、このような完全武装をした本格的な戦いというイメージをもって信仰の歩みを語るということは、それ程までに信仰の歩みとは厳しく、激しく、命がけのものであるからでありましょう。信仰というものを、自分の生き方や価値観、考え方の一つぐらいにしか考えていない人は、このことがよく分かっていないのではないかと思うのです。信仰とは、命の問題なのです。自分の永遠の命がかかっていることなのです。私共は、それを守る為に戦うのです。

 エフェソの信徒への手紙は、冒頭の所で、神様の天地創造の前からの永遠の選びによって、救いの御計画が遂行されており、やがて天にあるものも地にあるものも一つとされ、神様の栄光をたたえるようになるということが告げられておりました。この手紙は、天地が造られる前から終末に至るという、実に壮大な神様の救いの御業とその完成を告げております。しかし、それはすでに定められているとはいえ、あっという間に実現されるということではないのです。この神様の救いの御業の完成までには、時間がかかるのです。この時間の中を、私共はこの地上において、信仰をもって歩んでいくのです。その間、私共は神の国に向かって、神様の救いの御業の完成の時に向かって、一日一日歩んでいくのです。この私共の歩みを邪魔する者がいるのです。私共の信仰をつまずかせ、私共を神様から引き離そうとする者です。それが悪魔です。この天地創造から終末までの壮大な神様の救いの歴史は、実に神の子・神の僕である神の民と悪魔との戦いの歴史でもあるのです。この戦いは、その意味ではちょっとした争いごと、ほんの少しの間の、わずかな人たちによる、局地的な戦いではないのです。全宇宙の歴史にまたがる、全ての人を巻き込んだ壮大な戦いなのです。
 ここで、悪魔が居るとか居ないとか議論するつもりはありません。それは、神様が居る居ないという議論と同じで、万人が納得するような証明が出来る事柄ではないからです。ただ、信仰の歩みを長く為してきた者であるならば、誰でも悪魔の試みとでも言うべきものに見舞われ、ただ神様の守りと支えを祈り、それによりかろうじて守られたという経験を何度かしているでしょう。これは、信仰者の経験からは疑いようのないことです。勿論、しばしば絵に描かれてきたような、角としっぽを持つ悪魔が居るというのではありません。しかし、確かに私共の信仰の歩みを邪魔する様々な力や出来事が、信仰者を襲うのです。これと無縁に信仰の生涯を全うしたなどという人は一人も居ません。
 先週、その前の週と、私共はキリスト者の家庭のあり方、妻と夫、子と親、奴隷と主人の関係について御言葉を受けてまいりました。まことに日常的な歩みにおいて、私共の信仰が問われていることを知らされました。今朝与えられている御言葉は、その直後にあって、再び壮大な戦いのイメージを語ります。日常的な生活の勧めと、壮大な悪魔との戦いの話では、何ともすぐに結びつかないように思われるかもしれません。しかし、この悪魔との壮大な戦いは、具体的には私共の全く日常の生活のただ中でくり広げられているということなのであります。信仰の歩みとは、日常の歩みです。とするならば、信仰の戦いも又、日常の歩みの中で為されていくことなのでありましょう。

 悪魔の策略とは、要するに私共を神様から離れさせ、救いから落とそうとするものです。悪魔はまことにずる賢いですから、いつでも正面から戦いを挑んでくるとは限りません。奇襲であったり、仲違いによってこちらの戦線を乱したりと、あらゆる手段を用いてきます。あらゆる生活領域・レベルにおいて戦いを挑んできます。ここで悪魔の策略について考えておくことは無駄ではないでしょう。悪魔の策略というものは、それに応える人間の罪というものがあって成立していく、そういうものだと思います。人間の罪と無関係に、悪魔だけで何かが出来るということでもないと思うのです。創世記の3章において、蛇はエバに園の中央にある知恵の木の実を食べるようにそそのかすのですが、エバの中にそれを食べたいという欲望があって、ついに食べてしまうということになったのでしょう。エバの中に、この蛇の誘惑、唆しを無視できる確かな力があれば良かったのですが、エバの中にはこの誘惑に呼応してしまう弱さがあったのです。そこを突かれてしまったのです。
 さて、悪魔の策略ですが、大きな所では、国と国あるいは国々と国々の対立という形であるでしょう。戦争あるいは内乱というものはその最たるものです。そこではまことに悲惨な現実が繰り広げられる。これが悪魔と無関係だとは、とても私には思えません。善良な人が、戦場に出れば人を殺すのです。爆弾が落とされ、地雷が埋められる。あり得ないことです。あるいは、国家の単位での迫害というものもあります。私共は、先の大戦でのキリスト教の弾圧、あるいは江戸時代の踏絵を忘れることは出来ません。檀家制度というのは、この時キリシタン迫害の為に作られた制度なのです。私はここには、悪魔の知恵が働いていると思っています。
 次のレベルとしては、公の国の制度ではないけれど、社会の慣習、習慣として、私共を縛るものも少なくありません。これなどは、地域の人々や親類などとの人間関係も関わってきますから、私共にとってはいちばん厳しいものとしてあると思います。家族の中で一人だけキリスト者である場合など、本当に大変です。毎週日曜日の礼拝を守るということ自体が、大変な戦いの中である人も少なくないでしょう。
 先日、別の教会の信徒の方から電話で相談を受けました。その方は家族の中で一人だけキリスト者なのです。そして今年、地域の仏教婦人会というのでしょうか、その役が回って来ることになった。今までは姑の代からのものなので、会費だけは納めていた。しかし、自分はキリスト者だし、役などはとてもやりたくない。神様に申し訳なく、辛い。しかし、周りの人は、そのくらいはこの地域に住んでいるのだからやらないといけないと言う。どうしたらいいでしょう。という相談です。本当に困っておられる。私は、ご主人は何と言っておられますかと尋ねました。すると、ご主人は「お前がやりたいようにすればいい。」と言うだけだというのです。ご主人がどうしてもやれと言われるならやっかいだと思いましたけれど、ご主人がそう言われているならと、私は「あなたのつらい気持ちを正直に言われたら良い。きっと地域の人は、あなたがそんなにつらい思いをしているとは思っていないのだと思う。」そう言いました。これは、多神教の文化土壌にある日本では、なかなか分かってもらえないことだと思います。前の教会では、お宮さんの寄付を求められた信徒の方が、うちはキリスト教だからと断ると、そう堅いことを言いなさんな、クリスマスには私もキリストさんに寄付するからと言われた、と笑って話されたことがありました。ただ三位一体の神を愛し、これに仕えるということが、この日本では中々分かってもらえないのです。この方は、ここで仏教婦人会の役を断ったら、地域の人との関係が悪くなって、老後に困ったことにならないかとも心配しておられました。私は、「神様を愛し、神様に忠実に従うあなたを、全能の神様が悪くされるはずがないではありませんか。大丈夫です。」と答えました。電話を切ってから、この方の歩みを神様が守って下さいますよう、お祈りいたしました。
 キリスト者として、このような問題と無関係に生きることは、この日本においては出来ないことです。ただこの手の問題は、生かされている場、状況によって、お一人お一人違いますから、こうすれば良いというようなことは言えません。しかし、神様に依り頼んで、その神の力によって強くされ、立っていかなければならないことは確かなことでしょう。私共は、一人一人この戦いの場から退くことは出来ないのです。その厳しい場で、信仰を守り抜かなければならないのです。これは戦いです。
 次に、全く個人的な倫理あるいは欲の制御という問題もあるでしょう。これは結婚や性の問題として、特に若い人には大きな問題として立ち現れます。これは、現代においてはとても大きな問題であると思います。しかし、そういうことだけではなくて、我が子に対しての欲もあります。ああなって欲しい、こうなって欲しい。しかし、子供は親のものではないのですから、神様に与えられたものとして、神様の御前に正しく生きる者として育むということを、何よりも第一としなければなりません。しかし、欲というものは誰にでもあって、悪魔はそれを刺激する。神様に仕える者に育てることよりも、この世で出世するような者にそだてたらどうか、信仰よりも……ということになる。そして、私共の神様への道を誤らせようとするのです。私共は、この悪魔の策略というものに対して、きちんと目を開いて見極めなければなりません。

 この悪魔の策略に対抗してしっかり立ち続けるという戦いは、洗礼を受けようとした時から、いや、教会に来ようとした時から始まっていると言って良いでしょう。しかし、この戦いが激しくなるのは、洗礼を受けてからです。洗礼を受けますと、様々な悪魔の策略が襲ってきます。これに対して自分の力で戦おうとしても、戦いきれるものではありません。神様の力によって戦い、守られなければ、私共は対抗することは出来ないでしょう。私の牧師としての経験から申しますと、洗礼を受けて一年とか二年とか五年とかいった、ごく短い間に、この悪魔の試みはやって来ます。まだ、神様の力によって戦うということが十分に分かっていない、神の武具を身に着けるということが分かっていない、そういう時に激しい戦いに見舞われるということが多いようです。もちろん、信仰の歩みを始めて二十年、三十年しても、悪魔の策略に身をさらし、厳しい戦いを強いられることも少なくないのですけれど、二十年、三十年のベテラン選手になりますと、戦い方を知っているといいますか、神の武具に身を包んで生きるという生活のスタイルが形作られてきますので、命を落とす程の致命傷を受け、信仰を捨てるということは少ないのです。
 私共は、自分の力で悪魔に勝てると思ってはなりません。私共は本当に弱いのです。私共の信仰は、自分で守り通すなど出来はしないのです。ただ、神様の力によってのみ、私共の歩みはかろうじて守られるのです。信仰の歩みを、何十年と守ってきた人は誰でも、「あの時自分は危なかった。神様から離れてしまいそうだった。しかし、何とか守られて今日がある。」そういう経験があるのだと思います。信仰の歩みというものは、必ず、自分の信仰の歩みというものが、どれほど頼りないものであるかを知ることになるのです。しかし、それを知れば知る程、神様の力を頼ることになる。それによって、いよいよ守られていくということなのでありましょう。
 洗礼の準備会の中で、「私は生涯信仰を守っていく自信がありません。」と話される方は少なくありません。それは正直な思いでしょう。そして、それで良いのです。自信など、私共にはないのです。そのような私共を神様は守って下さるのです。そのことを信じ、その力に頼って、私共は信仰の歩みを為していくのです。
 先程、申命記8章11節以下をお読みしました。12節に「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。」とあります。自分の力で、自分の手で富を築いたと考え始め、心おごり、神様を忘れるようになることこそ、危ないのです。自分で出来る、そう思った時、私共は神様を頼らず、悪魔の策略に乗ってしまうことになるからです。
 私が伝道者として歩み始めました時、ある先輩の牧師からお祝いの葉書をいただきました。そこには、「私達の戦いは血肉を相手にするものではありません。祈っていきなさい。」と記されておりました。その時、この牧師が言おうとしたことが、私にはよく分かりませんでした。しかし、わざわざ祝いの葉書をくれたのはこの方だけでしたので、ずっと心に残りました。そして、少しずつ、この言葉の意味が分かってきました。私共は信仰の戦いをする時、多くの場合は人間が目の前にいるのです。その人と戦うということさえ起きる。しかし、本当は、その人がどうのこうのではなくて、自分がしっかりと主に従っていくかどうかだけが問題なのです。この戦いは霊の戦いなのです。だから、祈らなければならないのです。
 聖書は「強くなりなさい」と告げますが、それは「主に依り頼み」なのです。この「主に依り頼み」というのは、「主にあって」「主に結ばれて」、更に直訳すれば「主の中で」ということです。主の中で、主に結ばれて、その主の力によって、強くなりなさいと告げているのです。私共は弱い。しかし、主は強いのです。主はすでに全ての悪魔の策略に勝利しています。愛する弟子の裏切りにより十字架にかけられて死んだ主イエス。しかし、主は三日目によみがえり、その復活により、神様の救いの御計画をつぶそうとした悪魔の策略を打ち破り、逆にその策略を用いて救いの御業を成就されたのです。主は復活により、悪魔の最大の力である死にさえ勝利されました。この主に結ばれているならば、この主の中に生きているならば、私共の戦いは負けることがないのです。私共の信仰の戦いは、時にあまりの厳しさの為に、もうダメだと思われる時もあるかもしれません。神様の守りも支えも力も見えなくなる時さえあるかもしれません。しかし、大丈夫です。主はすでに勝利しているからです。主イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネによる福音書16章33節)」この主イエスの勝利の約束の中で、私共はこの世の信仰の旅路を歩んでいくのです。 

[2009年2月15日]

メッセージ へもどる。