富山鹿島町教会

礼拝説教

「わたしのために祈ってください」
詩編 5編1〜13節 エフェソの信徒への手紙 6章18〜20節

小堀 康彦牧師

 信仰の戦いは、祈りをもって、祈りの中で為されていくものです。祈らなくなる、或いは祈れなくなるというのは、すでに悪魔の策略に気付かないうちにやられているのだと思います。悪魔は賢いのです。私共より賢い。悪魔は、祈ることがどれほど力があり、それによって、自分が決して対抗することが出来ない神様によって私共が守られてしまうということを知っているのです。だから、私共がそのことに気付く前に、祈りを身に着ける前に、私共から祈りを奪おうとするのです。
 悪魔はこの祈りの力をいつ、どこで知ったか。これは私の想像ですけれど、悪魔が祈りの力を本当に思い知らされたのは、ゲツセマネの園における主イエスの祈りを聞いたとき、或いは、主イエスが十字架に架けられ、その十字架の上で祈られる主イエスの姿を見たときではなかったかと思うのです。この時、神様の永遠の救いの計画を頓挫させようとした悪魔の策略は決定的に敗北しました。この時、彼らは祈りの力というものを、決定的に思い知らされたのではないでしょうか。だから、祈らせない、それが最上の策略であることを悪魔は学んだのです。
 多くの現代の日本人にとって、祈るということは、何か特別なことになってしまっていると思います。祈ることは、決して日常的なことではないのです。この祈りを知らない人を自分の策略の中に取り込むのは、悪魔にとっては赤子の手をひねるようなものです。ひとたまりもないのです。そのような現代の日本にあって、私共は祈ることを教えられ、祈ることを知っている。これは悪魔にしてみれば、大変手強い相手ということになるのだろうと思います。私共は神の子、神の僕であります。いよいよ祈ることにおいて熟達し、祈りの戦士として、神様の御業にお仕えしていきたいと思うのです。

 さて、聖書は「神の武具を身に着けなさい。」と告げ、その最後に、今朝与えられております御言葉において「祈る」ことを挙げています。しかしここで祈りは、神の言葉を剣に、信仰を盾にたとえたように、何か一つの武具にたとえるということはされていません。それは、この祈りというものは、どのような他の武具を身に着ける時にも必要なものだからなのでありましょう。先週の礼拝で、神の武具の要にあるのは神の言葉であるということを申しました。神の言葉によって、教理も生活も信仰も救いの希望も与えられていく。だから、毎週の礼拝で神の言葉に与り、日々の生活において聖書に親しむのが大切ですと申しました。実は、この神の言葉に養われていくということと、祈るということとは、決して分けることは出来ないのです。神の言葉は、祈りの中で神の言葉として私共に迫り、受け取られます。そして、私共を祈りへと導いていくのです。このことを最も良く表しているのは、この主の日の礼拝でしょう。聖書の朗読や説教という神の言葉を抜きに礼拝は成り立ちません。しかし、それだけで礼拝は成立するかといえば、そうとも言えません。この神の言葉が、祈りなしに読まれ、告げられるということもあり得ないのです。讃美歌を歌うということも、一つの祈りの形なのです。私共は、祈りの中で神の言葉を受け、そして更に祈りへと導かれていくのです。

 さて、祈りについてここで第一に告げられていることは、「いつも祈る」ということです。「どのような時にも」「絶えず目を覚まして」祈るようにと告げられています。私共は祈るのです。困難な時も、特に変わったことがない時も、どんな時も祈るのです。それは日常の生活の中で特に意識することがない程に、祈りが自然にとけ込んでいるような生活を考えれば良いのだろうと思うのです。よく、一日の中でいつ祈れば良いのですか、と聞かれることがあります。朝ですか、夜ですかと。もちろん、朝でも夜でも、聖書を読んで祈る時を持つことは大切です。それはその人の生活の習慣の問題がありますから、朝でも夜でも良いのです。しかしこのことは、一日一回祈れば良いということではないのです。短くても良いですから、食事の前、仕事を始める時、仕事が終わった後、寝る前、いつでも祈ることが大切なのです。祈ることは、神様と親しく交わることです。神様に語りかけ、神様の言葉を聞くのです。讃美歌を歌いながら台所に立つのも素敵なことでしょう。

 第二に、聖霊によって祈るということです。祈りは、自分で頑張って何としてもやらなければならない、修行のようなものではありません。神様に向かって、「アバ、父よ。」と呼びかけることが出来る、その幸いを味わう時なのです。私共が祈る時、聖霊なる神様が私共と共にいて下さり、神様との交わりへと招いて下さるのです。ローマの信徒への手紙8章14〜15節「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」とあります。この神の霊、キリストの霊を受けている者として、祈りの中で私共はその恵みと幸いを味わうのです。この神様との親しい交わりの中にある者に、悪魔は手を出すことは出来ないのです。
 この祈りは聖霊の導きの中に身を置くことですから、こうなったら良い、こうして欲しいという、自分の中から湧いてくる願いや欲や思いを実現する為のものではありません。そのような祈りは、神様の前にひれ伏すのではなく、神様を自分の願いをかなえる道具としてしまうことです。祈りには力があるというのは、そのような祈りによって自分の願いをかなえるような力があるということではないのです。祈りに力があるというのは、天地を造られた全能の神様が、私共の祈りを神様の御心を現す為に用いてくださるということなのです。祈りの力とは、私の力ではなくて、神様の力が現れることを言うのです。祈りの中で、私共はいよいよ神様の御心を知り、神様の御業の為に仕える者となっていきます。私共は、神様の御心が為ることを第一に願う者とされていき、その様に祈る者とされていきます。そこで、私共の祈りが、神様の御心と重なり、一つとされていきます。そこにおいて、実に神様の全能の力が、あたかも私共の祈りの力であるかのように現れてくるということなのです。実に、祈りによって私共は浄められていくのです。こう言っても良いでしょう。私の願いばかりを祈っていた私が、祈っていく中で神様の御心を第一とする祈りへと導かれ、神様が与えて下さる希望へと心が向けられていくのです。しかしそのことも又、御言葉と共に祈る中で示され、導かれていくことなのでしょう。

 第三に、誰の為に祈るのかということです。私共は、自分のことや家族のことの為に祈るということならば、家内安全・商売繁盛の祈りの延長で、別に教えられなければならないことではないでしょう。しかし、ここで聖書が告げているのは、まず「すべての聖なる者たちのために」ということです。「すべての聖なる者たち」というのは、教会に集う人たちのことということでしょうか。それは教会の為にと言っても良いのだろうと思います。教会は、いろいろな状況の中に身を置いている人たちの集まりです。苦しい困難な状況の中にある人も少なくないのです。その人たちのことを覚えて祈りなさいというのです。どうでしょうか。私共は日常の祈りの中で、教会員の具体的な顔を思い浮かべて祈っているでしょうか。何も教会員全員の為に毎日祈らなければならないということではないのです。しかし、教会の人のことが祈りの中に少しも出て来ないというのは、おかしなことなのではないでしょうか。病の中にいる人がいます。困難を抱えている人もいます。それらの人の為に、主にある兄弟姉妹である私共が祈らなくて、誰が祈るのでしょうか。もちろんプライバシーの問題もありますから、何でもみんなに言うわけにはいかないということもあるでしょう。しかし、そのことの為に祈って欲しいことも誰にも言わず黙っているとするならば、それは間違っているでしょう。私は、せめて牧師や長老には言って欲しいと思います。牧師や長老の為すべき牧会の務めは、何よりも教会員の為に、その人と共に、その人に代わって祈るということだからです。教会員を四つのブロックに分けたブロック会というものを作りました。その一番の目的は、そのブロックの担当長老が、そのブロックの教会員たちの為に祈る、そのブロックが祈りの交わりとなるということなのです。
 もちろん、この聖書で告げられていることは、単に困難な状況の中にある人の為に祈るということだけを指しているのではないでしょう。何よりも祈らなければならないことは、一人一人の信仰が確かなものとされていくということであります。その人が救われること、救いの中にとどまり続けること、救いの業に仕えることが出来るようにと祈るのであります。
 このような祈りは、執りなしの祈りと言われます。この執りなしの祈りの範囲はとても広いので、この祈りはどんなに時間があっても足りない程でありましょう。信仰を与えられたばかりの人の多くは、祈る言葉が分からないという思いを持つだろうと思います。しかし、それは言葉が分からないのではなくて、祈ることが分からないのだろうと思います。なかなか、家内安全・商売繁盛の祈りから抜け出せないからです。そして、その祈りが清められ、広げられ、豊かにされ、私共の信仰が清められていく為の大切な道筋の一つとして、この執りなしの祈りがあるのだと思います。自分自身や自分の家族の為の祈りは大切です。それはもういらない、ということではないのです。しかし、祈りというものはもっときよめられ、広げられ、豊かにされていくものなのです。その最初に、教会に集う者たちがいるし、教会の為に祈ることがあるのです。神様の救いの御業は、ここから始まっていっているからです。教会員が、そして教会が、神様の救いの御業に存分に用いられるよう、その為に強められるよう、私共は祈っていかなければならないのです。

 さて、パウロは祈ることを勧めて、最後に「わたしのためにも祈ってください。」とお願いしています。パウロは大伝道者であります。しかし、彼は自分が祈ってもらわねばならない者であることを知っていたのです。パウロはもちろん自分でも祈っておりました。しかし、それで十分だとは思っていなかったのです。私が牧師をしていて本当に幸いだと思うことは、自分がいつも祈っていただいているということであります。牧師ほど皆に祈ってもらっている人はいないだろうと思います。私は、この祈りに守られ支えられて、牧師として歩むことが出来ているのだといつも思っています。私は牧師になって22年間一度も、主の日を休まなければならないという目に遭ったことがありません。風邪もひきますし、病気にもなりますし、ケガもしました。しかし、不思議と日曜日には大丈夫なのです。守られていると思います。
 ここでパウロが自分の為に祈ってくれるように願ったことは、福音を大胆に語れるようにということでありました。これも又、私共が心に刻んでおかなければならないことでありましょう。パウロはこの時、牢獄に入れられているのです。鎖につながれているのです。比較的自由が与えられていたとはいえ、囚われの身であったことに違いはありません。このような状況の中で、私共でしたら「早く自由になれるように。」とか、「健康が支えられるように。」というような祈りしか出て来ないのではないかと思います。そのような祈りは必要ないとか、意味がないというのではありません。エフェソの教会の人々も又、パウロのためにそのような祈りもしたに違いないと思います。しかしそれは、パウロが求める第一の祈りではなかったのです。パウロが求めた第一の祈りは、囚われの身となってしまった今も、大胆に適切な言葉で福音を語ることが出来るようにということだったのです。このことは、私共にとっても、何を第一として祈らなければならないかということが示されているのではないかと思うのです。目に見える困難な状況が取り除かれるようにという祈りにばかり集中してしまいがちな私共の祈りにおいて、第一に祈らなければならないことは、霊の問題であり、信仰の問題であり、救いの事柄であるということです。私共も、「私の為に祈って下さい。」と願う時、何よりも自分の信仰が守られ支えられるように、自分が神様の救いの御業の道具として存分に用いられますように、自分がそのことのために尻込みすることがないように、祈ってもらうことを求めなければならないのでありましょう。自分がそのことを第一のこととして祈っていなければ、他の人の為にそのことを祈ることは出来ないと思うのです。
 要は、私共が第一に大切なことは神様の救いに与ることであるということを、はっきりとわきまえているかということなのです。この肉体の命が取られても、神様とつながってさえいるならば、救われているならば、私共には永遠の命が備えられているのであって、何も心配することはないのです。私共は、このような信仰に生きているのかということなのでありましょう。
 日本人の多くは、信仰というものは生きる為に心の平安を与えてくれる、あるいは生きる意味を与えてくれる為の道具・手段というように考えているのではないでしょうか。もしそうであるのならば、他の道具・手段があれば別に信仰は要らないということになるでしょう。生きがいと呼べるものがあれば、信仰は別に必要ではないのでしょう。ここに現れているのは、まことに現世中心主義と申しますか、この世のことしか見ることが出来ない者の姿です。しかし、宗教とは、キリスト教の信仰とは、そんなものではないのです。たとえこの肉体の命は終わっても、終わることのない命がある。永遠の神様との交わりであります。復活の命です。この希望に生きているのが私共なのです。これは、この世の命よりも大切なものなのです。それが与えられているのです。有り難いことです。それが、私共が救われているということです。この救いの中にとどまり続けること、この救いの御業に用いられること、この救いに一人でも多くの者が与ること、それが私共にとっての第一の願いなのであり、それ故、第一の祈りとなるのです。
 ただ今から、私共は聖餐に与ります。十字架にかかり、三日目によみがえり、天に昇られ、今もそこで父なる神様と共に全てを支配し給う、主イエス・キリストの体と血とに与ります。キリストの命が、この聖餐を通して、聖霊なる神様によって、私共に注がれるのです。キリストと私共が一つに合わせられるのです。何という幸い、何という恵みでしょう。私共にとって、この恵みの中に、この幸いの中に、生涯とどまり続けること、このことより大切なものは何もありません。パウロは自分を「鎖につながれている福音の使者」とここで申しておりますが、この「使者」というのは「大使」という意味の言葉です。私共も又「福音の大使」として、それぞれが福音の使者として生き切ることが出来るよう、この救いの恵みと幸いとを身に帯びた者として、ここから遣わされて行きます。それぞれ遣わされた場において、この一週間、私共、祈りを合わせましょう。

[2009年3月1日]

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