富山鹿島町教会

礼拝説教

「祈りと聖霊」
詩編 2編1〜12節
使徒言行録 4章23〜31節

小堀 康彦牧師

 代々の聖徒たちが告白し、私共も又礼拝のたびごとに告白しております使徒信条。この聖霊の項目の冒頭にはこうあります。「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、」つまり、私共は聖霊なる神さまを信じているわけですが、聖霊を信じるということは、キリストを信じる聖徒たちの交わりである教会に、聖霊が働き、その交わりの中で救いの御業が為されている、このことを信じるということなのであります。これは、キリストの教会が誕生した時から、教会の実際の歩みの中で証明されてきたことであります。キリストの教会はペンテコステの日以来、聖霊によって誕生し、聖霊の導きの中で歩み続けてきたのです。私共は、教会の歩みというものを考える時、いつでもこの「聖霊によって」という点を見落としてはならないのです。
 来週は主の日の礼拝の後で、2009年度の教会総会が開かれます。そこでは、2008年度の私共の歩みを振り返り、2009年度の歩みを計画するわけです。長老・執事の選挙も行われます。そこで私共が心に留めておかなければならないことは、この「聖霊によって」ということなのです。教会の歩みというものは、私共人間が計画し、実行し、それで全てが進んでいく、そういうものではないのです。計画から実行まで、全てにおいて聖霊なる神様の御支配と導きの中で為されている。それが教会の歩みというものなのです。
 では、この聖霊なる神様のご支配、導きというものを私共はどうやって知ることが出来るのか。それが「祈り」です。祈りつつ歩む中で、私共は一つ一つの出来事の背後に、聖霊なる神様の導きがあることを知るのです。祈りがない所では、全ては人間の業としてしか受け取られようがないのです。会社であれ、地域であれ、政治であれ、経済活動であれそうでしょう。しかし、教会はそうではないのです。一つ一つの出来事に、神様の働き、聖霊の導きと御業とを見ていくのです。私共は祈りの群れであるが故に、私共の目はいつもそのことに目が開かれているのです。教会の集まりは、いつも祈りをもって始まり、祈りをもって閉じられます。それは全ての集会においてそうなのです。最初から最後まで祈ることなく為される営みは、一つもないのです。教会なのですから、当たり前と言えば当たり前です。しかしこのことは、教会とは一体何なのかということを最も良く明らかにしているのではないでしょうか。祈りつつ歩む群れ。それが教会なのです。そして、そのことにおいてのみ、私共は聖霊なる神様の導きの中を歩み続けることが出来るし、そのことを知ることが出来るのであります。

 今朝与えられております御言葉は、ペトロとヨハネが釈放された後のことが記されています。彼らは、エルサレム神殿の「美しい門」において生まれつき足の不自由な人を主イエスの御名によっていやしました。そして、このことを為した主イエスこそ救い主であると神殿で説教し、それにより二人は大祭司たちによって捕らえられてしまったのです。しかし、二人は大胆に、大祭司・議員・律法学者たちの前で、主イエスこそキリストであると証しを為しました。大祭司たちは、二人に今後主イエスの名によって話すなと脅しましたが、ペトロとヨハネは「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」と、更に大胆に告げたのです。彼らは脅し屈することはありませんでした。そして二人は釈放されました。釈放された二人はどうしたでしょうか。23節「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。」と聖書は告げます。まず二人は「仲間のところ」へ行ったのです。ペトロとヨハネの仲間とは、主イエスの弟子たち、ペトロやヨハネの説教を聞いて主イエスを信じる者となった人たちのことでしょう。つまり、教会です。私は、生まれたばかりのキリストの教会が、「仲間」と言い表されていることは大切なことだと思うのです。この教会に集う者とは、仲間なのです。ただ仲が良いというような仲間ではありません。人生の危機も、喜びも共にすることが出来る仲間です。共に生き、共に歩む仲間なのです。今朝、ここに集う私共も又、仲間なのです。
 ペトロとヨハネは、自分たちの身に起きたことを仲間達に話しました。生まれたばかりの教会です。小さな群れです。社会的には無視できる程の、弱い、小さな存在でしかなかったと思います。そのリーダーであるペトロとヨハネが捕らえられ、そして脅されて釈放されてきた。このような報告を聞かされれば、自分たちも危ないのではないかと思い、恐れ、おびえるのが普通なのかもしれません。そしてこれからどうしたらよいかと善後策を考える。しかし、この時、キリストの弟子たちが行ったのはそういうことではありませんでした。24節「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。」のです。つまり、祈ったのです。生まれたばかりのキリストの教会にとっては、八方塞がりの状態でした。そこで彼らがまず行ったことは、「心を一つにして祈った」ということだったのです。どうすれば良いのか分からない、八方塞がりの状態。しかし、彼らはここで、人間によっては決して塞がれることのない一方、八方が塞がれてもなお開かれている一方、天に向かって神様に祈ったのです。キリストの教会は、生まれた時から祈ることを知っていた群れだったのです。
 31節を見ますと、「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」とあります。これは第二のペンテコステとも言われることでありますが、ここを文字通りに読みますと、祈り終わってから聖霊が降ったように理解してしまうかもしれませんが、そうではないと思います。ペトロとヨハネの報告を受け、皆が心を一つにして祈った時、すでに聖霊は働いていたのです。「聖霊に満たされて」というのは、更に豊かに聖霊が注がれて、聖霊の働きが明らかな形で現れたということを示しているのでしょう。
 24節以下に、この時弟子たちが祈った祈りが記されています。もちろん、この通りの言葉で祈ったということではないでしょう。皆が次々と祈っていったに違いありません。ここに記されているのは、この時祈られたことの要約と考えて良いと思います。このような時、私共だったらどう祈るでしょうか。「ペトロとヨハネが無事戻ることが出来て感謝します。」こう祈るでしょう。それはこの時のキリスト者祈りもそうだったと思います。問題は次です。私共ならば「もう、こんな目には遭わないようにしてください。」というような祈りになるのではないでしょうか。そのような祈りはダメだというのではありません。しかし、ここで祈られた祈りをなぞりながら、八方塞がりになってしまった時に、教会は何を祈ってきたのか、何を祈らなければならないのか、そのことを見たいと思うのです。

 第一に、彼らは天に向かって神様を見上げつつ、神様の絶対的御支配というものを思い起こしました。大祭司や律法学者といった人間の力によって圧迫を受けている状況の中で、彼らはまず、神様の絶対的な御支配というものを思い起こしたのです。最初にこう祈っています。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。」神様の創造の御業を思い、神様こそ真の支配者であり、全てを導く方であることを思い起こすのです。このことが見えなくなる時、私共は目に見える力を恐れ、人を恐れることになるのです。彼らはこの祈りにおいて、本当に恐れるべき方は誰か、それは大祭司でもローマでもないことを思い起こしたのです。まことに畏るべき方は、天地の造り主なる神様しかおられません。このことに気付いたとき、私共はこの方以外を恐れることはないということに目が開かれるのです。主を誉め讃えること、賛美すること、それが祈りにおいて第一に為されるべきことなのです。

 第二に、彼らは旧約に預言されたメシアこそ、主イエス・キリストであることを明らかにしました。ここで引用されているのは、先程お読みしました詩編の第2編の1節と2節です。イエス・キリストは、ヘロデとポンティオ・ピラトにより十字架にかけられて殺されました。このことは主イエスの敗北ではなく、旧約において預言されたことの成就である。この主イエス・キリストの十字架にこそ、天地を造られた神様の救いの御計画の成就がある。そのことを明らかにしたのです。そして、そのことによって、主イエス・キリストの御名による伝道は神様の御心にかなうことであることを明らかにしたのです。ペトロもヨハネも、主イエスの御名によって語ったが故に捕らえられたのです。しかし、それは少しも神様の御心に反したことではないことをはっきりさせ、弟子たちは皆でこのことを共有したのです。
 私共は、自分がしていることが神様の御前において正しいかどうか、そのことがはっきりしないといけません。神様の御前に正しくないのであれば悔い改めなければならないでしょう。しかし、神様の御心にかなっていることであるならば、それが聖書の言葉によって保証されているならば、私共は恐れ、おびえることなく進んでいかなければならないのです。
 私共は、計画が順調に進んでいると御心にかなっていると思い、困難に遭うと御心にかなっていないと思いがちであります。しかし、そうではないのです。御心にかなうことを行っていても、全てが順調に進んでいくとは限らないのです。こと伝道ということに関しては、まさにキリストの教会の出発の時から、少しも順調ではなかったのです。妨害もあれば、困難もあった。しかし、キリストの教会は、主イエスの名によって語ることを止めなかった。それは、主イエスこそただ一人の救い主であり、その方によって全ての民が救われることこそ神様の御心にかなうことであることを確信していたからです。
 今年は、日本宣教150年の年です。150年前に日本に来た宣教師たち、そしてそれを送り出した教会も又、この確信に満ちていました。だから、まだキリシタン禁制の高札が立っている日本にも、伝道の為に来たのです。その伝道は困難を極めました。しかし、彼らは止めなかったのです。彼らにこの確信を与えたのは、聖霊であり、聖書の言葉です。時代や状況の分析ではありません。そして、この確信も又、祈りの中で与えられたものなのです。

 第三に、彼らが願い求めたことは「思い切って大胆に御言葉を語ることができるように」ということでした。そして、「イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるように」ということだったのです。ペトロとヨハネが、主イエスの名によって語ったが故に捕らえられた。そして彼らが釈放されて祈ったのは、「もうこんな目に遭わないようにしてください」ということではなくて、「思い切って大胆に御言葉を語らせてください」ということだったのです。この時、彼らの中に少しの恐れも、少しのおびえる気持ちもなかったということではないでしょう。恐れはあったと思うのです。しかし、その自らの恐れに負けてしまって、主イエスの名によって語ることを止めてしまう。そのことの方を、彼らはもっと恐れたのだと思うのです。それは、主イエスの十字架を無駄にしてしまうことであり、主イエスを裏切ることになるからです。それは、主イエスによって与えられた救いを、自ら捨てることになるからです。そんなことは出来ません。思い切って大胆に御言葉を語るということは、主イエスとの真実な交わりの中に生きるということです。彼らは、そのことを何よりも願い求めたのです。自分の身の安全という保身よりも、主イエス・キリストとの真実な交わりの中に生き切ることを第一に願い求めたのです。この祈りの中に、聖霊なる神さまの導きがあることは明らかなのではないでしょうか。
 ペトロは、主イエスが十字架におかかりになる前に、三度主イエスを知らないと言って主イエスを裏切ったのです。ペトロはその時、主イエスのまなざしに出会って、激しく泣きました。復活された主イエスは、そのペトロをもう一度、弟子として召して下さいました。ペトロは、もう主イエスを二度と裏切りたくないと思っていたに違いありません。死さえも打ち破って復活された主イエスに出会ったペトロ、主イエスの復活の証人とされたペトロです。このペトロの体験は、確かに彼一人の体験であるに違いないのですけれど、復活の証人として立てられたキリストの教会の「共有された経験」となっていたのではないかと私は思うのです。キリストによって救われた者は、キリストとの人格的な交わりを与えられました。キリストを裏切らない。それがキリスト者とされた者達の、教会の、私共の新しい歩み方となったのです。

 祈りが終わると皆に聖霊が降り、弟子たちは聖霊に満たされ大胆に神の言葉を語り出したと、31節にあります。先程申しましたように、これは祈りが終わって初めて聖霊が降ったということではありません。聖霊は、この祈りの中で既に働き、導いておられたのです。そして、この祈りの後、いよいよ明らかな形で、この祈りに応えるように、聖霊の働きが現れたということなのです。
 聖霊は私共を祈りへと導くあり方で働き、又祈りの中で働き、そして祈りに応えて働いて下さるのです。祈るということと聖霊の働きは、分けることが出来ません。私共が祈りつつ歩むということは、聖霊の働きの中を歩むということなのです。その中で、私共はいよいよ神様の御支配の確かさを知り、御言葉の真実を知り、主イエスとの真実な交わりの中に生きる者とされていくのであります。私共も、もっと思い切って大胆に御言葉を語ることが出来るように祈り、思い切って大胆に御言葉を語る者にされていきたいと、心から願うのであります。

[2009年4月19日]

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