富山鹿島町教会

礼拝説教

「先立つ神の御業」
出エジプト記 13章17〜22節
使徒言行録 11章1〜18節

小堀 康彦牧師

1.キリストの教会の中の二つのグループ
 今朝与えられております御言葉は、先週に引き続いて、ローマの百人隊長コルネリウスの救いの出来事とその顛末です。このコルネリウスの話は10章の始めから続くもので、使徒言行録の中では、ステファノの殉教、パウロの回心の出来事と並んで、多くの分量を割いて記されている記事です。繰り返し、ペトロがあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥の入った大きな布のようなものが天から下りて来て、「これを屠って食べよ。」と告げられる幻を見たこと、コルネリウスが天使によってペトロを招くよう告げられたことが記されております。そして、コルネリウスたちに聖霊が降り、洗礼が授けられたことが記されている。どうしてこの話が、これ程多くの分量を割いて記されているのか。それはこの出来事が、生まれたばかりのキリストの教会において、決定的に重要な出来事であったからでありましょう。それは、キリストの教会がユダヤ教の中の一派として歩んでいくのか、それともユダヤ民族という枠を超えた世界宗教として展開していくことになるのか、その分かれ目がここにあったからであります。
 私共は、キリスト教が世界中に広がっており、あらゆる民族、国家の壁を超えて信仰されていることを当たり前のこととして受け取っています。しかしこのことは、キリストの教会が生まれたばかりの時から当然のこと、当たり前のことだったわけではないのです。生まれたばかりのキリストの教会の信徒たちは、十二使徒を始めとして皆がユダヤ人、すなわちユダヤ教徒だったのです。ユダヤ人たちは、自分たちこそ神様に選ばれた神の民である自負を持っていました。このこと自体は、旧約聖書に記されていることであり、少しも間違いではありません。しかし、この自負がキリストの救いをユダヤ人に限定するということになるならば、話は別です。主イエス・キリストの十字架と復活による救いは、ユダヤ人だけに限定されるべきものなのか、それとも異邦人にまで及ぶものなのか。このユダヤ人だけを神の民とし、救いに与ることが出来るというと、主イエスの救いは異邦人にも及ぶとの理解は、教会の中に二つのグループを作ってしまいました。この問題は、主イエスはユダヤ人の主なのか、それとも異邦人を含む全ての民の主なのかという問題とも関わっていますし、或いは、割礼を受けなければ救われないのか、割礼を受けずとも救われるのか。また、旧約の律法を守らなければ、例えばこれは食べても良いとかいけないといった食物規定を守らなければ救われないのか、そのような食物規定から自由なのかどうか。そのような問題とも関わる問題でした。これについては、15章にあるエルサレムで開かれた教会会議において方向付けられていくわけですが、生まれたばかりのキリストの教会の中に、この二つの流れがあったのです。この二つの対立は、相当深刻な状況であったと思います。もっとはっきり言えば、この二つはの対立していたのです。
 例えば、この後、キリスト教は異邦人へも積極的に伝道が展開されていきます。そこで大きな役割を果たしたのがパウロですが、そのパウロが書いた手紙、ガラテヤの信徒への手紙2章11〜12節に「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。」とあるのです。ペトロも、この異邦人問題は解決済みであると頭では割り切っていたはずです。しかし、律法を守らなければならないという勢力が、ペトロにしり込みさせる程の力を持っていたということなのだと思うのです。
 こういうことを考えますと、今日与えられております御言葉が示す、コルネリウスの洗礼の問題は、ここに記されているように簡単には決着しなかったのではないか、そのように考える人も居るかもしれません。確かに、簡単には決着はつかなかったかもしれません。しかし、私は、事柄としてはここに示されているように進んでいったのだと思います。ここには、キリストの教会において道が定まっていくというのは、どういうことによってなのかということが示されているのです。人間同士の対立もあるでしょう。話し合いもされるでしょう。しかし、そういう勢力争いや人間の目論見のようなものによって、教会の事柄は進んでいくのではないのです。神様の御業があり、これに促され、これに導かれることによって、教会の歩みというものは定まっていくものなのです。

2.神様の御業により、出来事が起き、信仰が与えられる
 順に見てみましょう。1〜3節「さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした』と言った。」とあります。ペトロがコルネリウスのところからエルサレムに戻って来ます。すると、エルサレムにいたキリストの弟子達は大喜びでペトロを迎えたというのではありませんでした。何と、ペトロに対しての非難の声があがったというのです。理由は、ペトロが異邦人と一緒に食事をしたということでした。当時のユダヤ人は、決して異邦人と食事をしませんでした。神の民であり、清い自分たちが、汚れた異邦人と食事を共にすれば、自分たちも汚れてしまうと考えていたからです。ここには、レビ記11章にある食物規定を守っていたユダヤ人たちの感覚、異邦人は汚れた食べ物も平気で食べる、その人たちと一緒に食事をしたら汚れた物も食べてしまうことになりかねない、そういうものもあっただろうと思います。
 この非難に対して、ペトロはコルネリウスの所で何があったのか、その事実だけを述べます。自分はこう考えたとか、その非難の根拠は間違っていると言って議論しているのではないのです。こういうことが起きたのだと、事実だけを語るのです。自分が、天から大きな布のようなものが下りて来て、「屠って食べよ」と告げられる幻を見たこと。コルネリウスも、天使からペトロを招くように告げられたこと。そして、ペトロが話し出すと彼らの上に聖霊が降ったということを、順序立てて話したのです。12節の中程を見ますと、「ここにいる六人の兄弟も一緒に来て」とあります。この六人は、ヤッファの町からペトロと共にコルネリウスの家に行ったユダヤ人キリスト者です。つまり、この六人もペトロの話の証人として立っているのです。ペトロは、異邦人であるコルネリウスの家の人たちにも主イエスを信じる信仰が与えられ、聖霊が降った。この事実を告げたのです。この神様の救いの御業に対して、どうして、自分はそれを妨げることが出来るでしょう。ペトロは、議論をするというよりも、神様がなさった救いの御業の事実を告げ、自分はそれに従っただけだと語ったのです。
 キリスト教の信仰とは、こういうものです。いろいろ考え、思索をして、世界とはこうであるはずだ、人間はこうでなければならない、だからこう信じる。そういう信仰ではないのです。生きて働き給う神様が出来事を起こし、その出来事によって有無を言わせぬあり方で御心を示し、その出来事によって信仰が与えられるのです。主イエスの復活がまさにそうでした。弟子たちは何度も主イエスが復活することを聞いていました。しかし、主イエスが実際に十字架につけられて死んでしまわれると、誰も、主イエスは復活されるはずだなどとは考えもしなかった。そのような彼らに、復活の主イエスが御姿を現されて、信じない者にならないで信じる者になるように変えて下さったのでしょう。ここでも、異邦人であるコルネリウスたちに信仰が与えられ、聖霊が降り、彼らも又救われるという事実が神様によって示されたのです。ここに議論の余地はないのです。教会はこの時議論して、異邦人も救われるということにしようと結論付けたというようなことではないのです。まず、神様の救いの御業があるのです。弟子たちは、ただこの神様による出来事を受け入れただけなのです。

3.ペトロの御言葉体験
 ペトロはここで、主イエスの言葉を思い起こします。16節「そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。」これは、主イエスが復活の御姿を弟子たちに現され、共に食事をした時に与えられた言葉でした。この時、弟子たちは、この「あなたがたは」というのを、自分たちのことだと思っていました。確かに、この主イエスの言葉通り、ペンテコステにおいて弟子たちに聖霊が降りました。しかしペトロは、このコルネリウスの出来事を通して、主イエスが語った「あなたがた」というのには、異邦人も含まれるということを悟ったのです。ペトロは、主イエスの言葉の本当の意味を、このコルネリウスの出来事を通して知らされたのです。これはペトロの御言葉体験とでも言うべきものだったと思います。主イエスの言葉が一つの出来事を通してよみがえってきて、その本当の意味が明らかにされる。実に、私共の信仰というものは、この時のペトロと同じように、今まで知っていた聖書の言葉が、新しく心に響き、主イエスの御心、神様の愛と真実の世界が目の前にパーッと広げられていく、この御言葉体験によって、変えられ、成長させられていくものなのでありましょう。この時ペトロは、異邦人達が主イエスの救いに与っていくという、神様の救いの壮大な世界が目の前に広がったのではないかと思うのです。
 私は、今朝の箇所を読みながら、ルカによる福音書15章にある、主イエスの放蕩息子のたとえ話を思い出しました。放蕩の限りを尽くした弟が父のもとに戻って来ると、父は大喜びで迎え、服を着せ、指輪をはめ、履物を履かせ、子牛を屠って祝います。しかし、父のもとにずっといた兄は、父がそのように弟を喜び迎えるのがおもしろくない。怒って家に入ってこないのです。ここで、異邦人コルネリウスの救いを心から喜ぶことの出来ないユダヤ人キリスト者たち。これは、放蕩息子の帰還を素直に喜ぶことが出来なかった兄と同じなのではないかと思いました。
 そして同時に、この兄の姿、ユダヤ人キリスト者の姿に、自分はクリスチャンであり、自分は牧師であり、神様を知っており、聖書を知っており、多くの日本人とは違うと思っている私自身の姿が重なって見えてきました。そして、とても恥ずかしく思いました。私の中には何もない。ただ主の憐れみによって救われた。信仰のみ、恩寵のみです。にもかかわらず、どこかで自分を偉い者のようにして、人を見下そうとする心がある。主イエスが一番お嫌いになった心です。主イエスは、コルネリウスたちにも聖霊を降らせられることによって、生まれたばかりのキリストの教会の中にはびこっていた、自分たちはユダヤ人だから清いという思い上がりを砕いて下さったのです。人が変わるというのは、本当に難しい。一度砕かれても、すぐに高慢な思いが頭をもたげてくる。神様は、そのような私共を、御言葉と御業とをもって打ち砕き、ただ信仰のみ、ただ憐れみのみ、その信仰の原点へと私共を導いて下さるのです。
 人間の高慢は、偏見を生み、差別を生み、人と人との間に隔ての壁を作ります。主イエスはその壁を打ち破り、まことに神様の御前にあって一つという平和を与えて下さった。主イエスが与えて下さる平和は、神様との間の平和であり、人と人との間の平和です。エフェソの信徒への手紙2章14節「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」て下さったのです。
 キリストの教会において問われるのは、ただ一つ。神様によって主イエスを信じる信仰が与えられているかどうか、それだけなのです。人種も、民族も、社会的立場も、富も、教養も、才能も、性格も、病も、この世において問題になる一切のことは、問題にならないのです。ただ信仰です。

4.先立つ神様の御業に従う
 ペトロの報告を聞いて、ペトロを非難した人々はどうしたか。18節「この言葉を聞いて人々は静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美した。」誰も、何も反論しなかった。出来なかったのです。神様の救いの御業を示され、ただ神様を賛美するしかなかったのです。確かに、事はこれだけでは収まらなかったでしょう。15章においてエルサレム会議を開かなければならなかったのですから。しかし、何度も申しますが、キリストの教会は議論によって事を進めるのではなくて、先立つ神様の御業に従うというあり方で進んできたのです。
 このコルネリウスの出来事から、異邦人への伝道は急速に展開されていくことになります。そして、この教会の姿は、主イエスがガリラヤにおいて罪人たちと食事をし、病人をいやされたその姿と重なるものでした。汚れた者とユダヤ人たちに見なされた人々の中に、自らが汚れることなど考えもせずに、大胆に、雄々しく、教会は進んで福音を携えて行く者となったのです。
 宗教は、どの宗教であれ、清さを問題にします。そして、自らの清さを保つ為に、殻に閉じこもり、閉鎖的になりがちです。当時のユダヤ教の姿がまさにそうでした。外の世界の汚れから身を守るために、異邦人という外部との接触を禁じたのです。しかし、キリストの教会は違うのです。自ら戸を開き、外へと出て行くのです。外の世界の汚れを恐れず、逆に神の清さをこの世界に広めていくのです。なぜ、汚れを恐れないのか。それは、私共の清さはキリストによる清さだからです。自分たちの業によって手に入れた清さではありません。それ故、この清さはどんな汚れによっても汚されることがなく、強く、大きく、無限の清さなのです。主イエス・キリストは、この世界の全ての汚れをも飲み込んで、その全てを清める力を持っているのです。私共は、この方を信頼して、汚れなど少しも恐れずに、御言葉を携えて、出て行くのです。

 今日は、礼拝後に教会修養会を開きます。「キリストの使者として」というテーマです。私共キリスト者は、一人の例外もなく、この神の清さを身に帯びて、キリストの和解の福音を携えて行く者として召されているのです。この礼拝に集い、そしてここからキリストの使者として遣わされていくのです。この使命を、喜びと畏れをもって受け取り、人を見下すことなく、人を愛し、人に仕える者として、この一週間、それぞれ遣わされた場において、主と共に、主の御前に歩んでまいりたいと心から願うのであります。

[2009年8月23日]

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