富山鹿島町教会

礼拝説教

〜北陸連合長老会の交換講壇・内灘教会での説教〜

「闇への凝視」
 −ハイデルベルク信仰問答 問6〜8をめぐって−


詩編 102編13〜23節
ローマの信徒への手紙 7章14節〜8章3節

小堀 康彦牧師

『ハイデルベルク信仰問答』 吉田隆訳

第三主日

問6 それでは、神は人をそのように邪悪で歪んだものに創造なさったのですか

答  いいえ。
   むしろ神は人を良いものに、また御自分にかたどって、すなわち、まことの義と聖において創造なさいました。
   それは、人が自らの造り主なる神をただしく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちを神と共に生き、そうして神をほめ歌い讃美するためでした。


問7 それでは、人のこのような腐敗した性質は何に由来するのですか。

答  わたしたちの始祖アダムとエバの、楽園における堕落と不従順からです。
   それで、わたしたちの本性はこのように毒され、わたしたちは皆、罪のうちにはらまれて生まれてくるのです。


問8 それでは、どのような善に対しても全く無能であらゆる悪に傾いているというほどに、わたしたちは堕落しているのですか。

答  そうです。わたしたちが神の霊によって再生されないかぎりは。


1.主を賛美するために造られた私たち
 今朝与えられました御言葉の詩編102編19節に「主を賛美するために民は創造された。」とあります。これは、明確に人間が創造された目的を告げている言葉です。人間は神様の似姿にかたどって造られた。このことは創世記の第1章に記されております、私共に大変なじみのある、皆さんよくご存じのことだろうと思います。しかし、神様はなぜ人間を御自分に似たものとして造られたのか、その理由は記されてはおりません。しかし、信仰をもってこの事柄を考えるならば、なぜ神様は人間を神様に似たものとしてお造りになったのかという問いに答えることは、それほど難しいことではありません。創世記の1章には、神様に似たものとして人間を造った、男と女に造った、そう記されています。人間というものを男と女に造ったということは、人間というものが愛の交わりを形作るものとして造られたということでしょう。神様は全き愛のお方ですから、この神様の愛を実現する、そういう存在として人間を造ったということなのでしょう。この愛は、人間と人間の間の愛だけではなくて、自分を造ってくださった神様との間の交わりをも指しています。人間はその様な者として造られたのです。このことを、ハイデルベルク信仰問答の問6の答は告げているわけです。もう一度読んでみましょう。問6「それでは、神は人をそのように邪悪で歪んだものに創造なさったのですか。」答「いいえ。むしろ神は人を良いものに、また御自分にかたどって、すなわち、まことの義と聖において創造なさいました。それは、人が自らの造り主なる神をただしく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちを神と共に生き、そうして神をほめ歌い讃美するためでした。」この答は、神様が造られた人間というものは本来どのようなものであるのか、そのことを私共に示しております。
 人間とは本来どのようなものなのか? これは実に深い問いです。私は、この問6の答を読みながら、何か目の前が明るくなるような思いがいたします。そうか、自分の本当の姿はこういうものだったのか。まさに目からうろこが落ちるような思いで聞くのです。自分の中をいくらのぞき込んでも、このような答は決して出て来ません。聖書によって教えられなければ、私共はこのことを知ることは出来ないでしょう。神様に造られた本来の自分は、「神様をただしく知り」「神様を心から愛し」「神様と共に生き」「神様を讃美する」者なのです。その為に造られたのです。本当にそのように生きたい。そのように生きられたならどんなに幸いなことか。そんな憧れが私共の中に湧いてまいります。

2.原罪
 私は今、憧れと申しました。どうして、この神様に造られたものとしての本来の姿に、自分は憧れるのか。それは、私の現実の姿は、ここで言われているのとはかけ離れたものであることを知っているからです。
 どうしてこんなことになってしまったのか? 教育が悪かったのか? 親が悪かったのか? 自分の努力が足りなかったのか? ハイデルベルク信仰問答の問7はそれに答えて、アダムとエバの堕落と不従順によるのだと言います。これが原罪と言われるものです。私共が生まれ育った環境だとか、教育だとか、親のせいではない。人間とは皆、アダムとエバ以来、神様に造られた本来の姿を失っているのだと告げるのです。だったら、どうしようもないではないか。人間が生まれつきそういうものであるとするならば、自分はその状態から抜け出すことなど出来ない。人間の本来の姿をどんなに美しいものと教えられても、どんなに憧れても、そうなれないのなら絵に描いた餅で、何の意味もないではないか。そういうことになるのでしょうか。
 しかも、更に問8では、「それでは、どのような善に対しても全く無能であらゆる悪に傾いているというほどに、わたしたちは堕落しているのですか。」と問い、「そうです。」と答えています。とりつく島もありません。ここまで徹底的にどうしようもないと言われたら、私共は一体どこに希望を持つことが出来るのでしょう。しかし、問8の答は「わたしたちが神の霊によって再生されないかぎりは。」と言い添えています。この最後に付け加えられた一文が大切です。「神の霊によって再生されないかぎりは」です。つまり、神の霊によって再生される道がある。あの憧れ、本来の自分を回復する道がある。そう告げているのです。
 今、ハイデルベルク信仰問答の問6〜8に従って、神様は人間を良いものとして造られた、しかしアダムとエバの罪により人間はそれを失っている、しかもそれは良きものに全く無能であるほどに堕落している、しかし神の霊によって再生される道がある、ということを見てまいりました。これを、単なるキリスト教の教えの筋道として了解するということで分かったつもりになってはなりません。この筋道を自分の現実として、自分が救われる道として、ちゃんと受けとめなければならないのです。

3.全的堕落
 そこで注目したいのが問8です。「それでは、どのような善に対しても全く無能であらゆる悪に傾いているというほどに、わたしたちは堕落しているのですか。」答「そうです。」というところです。
 私は牧師として、今までに何百人もの求道者の方にキリスト教の話をしてきました。そこでは、この人間の罪、原罪というものをどうしても話さなければならないのですが、これが本当に難しい。なかなか分かってもらえないのです。人間に罪があるということを認めないわけではないのです。誰も、自分が全く罪のない人であるとは思っていない。自分のことしか考えられない、自己中心的である、愛に生き切ることが出来ない、そういうことは分かるのです。認めるのです。では、何が分からないのか。それは、この問い8で言われているような、「どのような善に対しても全く無能である」「あらゆる悪に傾いている」、この罪の徹底性といいますか、どうしようもない程に完全に罪に染まっている。これをなかなか認められないのです。「人間だって良いことをしようとする意思はあるではないか、善意というものがあるではないか、良心があるではないか。こんな風に全くダメだと言われたら立つ瀬がない。そんなに悪く言わなくてもいいではないか。自分にも悪いところがあることは認める、しかし良いところだってあるではないか。」そういう反応に出会うわけです。今まで例外は一人もいませんでした。問題は、人間が罪人であるかどうかではなくて、その罪が徹底的であるかどうかということなのです。自分の中には頼るべきもの、誇るべきものは一切ないということを認めるかどうかなのです。聖書が語る、自らが罪人であることを認めるとは、そういうことなのです。
 私は、人間の中に善意とか良心とかいうものが全くないとは思いません。しかし、その善意や良心で、神様が造ってくださった本来の姿を回復することが出来るのかということなのです。悪い点を認めて良い点を伸ばす、そんなことで神様が造ってくださった本来の姿を回復することが出来るのかということなのです。人間にも少しの善意や良心はあるでしょう。しかしそれは、本来の姿を回復していくには全く力がないということなのです。この本来の姿を回復するということが、救われるということなのです。

4.反省ではなく悔い改め
 これは、反省では人は救われない、と言い換えても良いと思います。これが悪かった、あれが悪かった。そんなことをいくら積み上げても、人は本来の姿に生まれ変わることは出来ないということなのです。そりゃ、反省を繰り返して少しはマシな人間になるかもしれません。しかし、それが救いではないのです。そんなものでは、人間は本来の姿を回復することも出来ないし、生まれ変わることも出来ないのです。
 神様が求めるのは反省ではありません。悔い改めです。反省は、自分が判断し自分で決めるのです。反省は、その意味で、自分の善意や良心を頼りに行うものと言えるでしょう。多くの場合、反省は、「自分も悪かった。」という程度で終わります。「自分も悪かった。」それは、自分も悪かったけれどあなたも悪い、その思いを消すことがなかなか出来ないのです。実は、問6は、そのような人間の思いを語っているのです。神様が人間を造ったのなら、どうして人間はこんなに悪いのか。自分が悪いことを棚に上げて、こんな風に人間を造った神様が悪いのではないかと思う、その思いを見越して、「それでは、神はそのように邪悪で歪んだものに創造なさったのですか。」と問うて、「いいえ。」と答えているのです。自分も悪いかもしれないけれど、こんな人間を造った神様も悪いのではないか、という思いを退けているのです。この思いを放置したまま、人は悔い改めることは出来ないからです。この思い上がりこそ、人間をまことの悔い改めから遠ざけるものだからです。
 ローマの信徒への手紙7章15節を見ますと、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」とあり、18〜19節には「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」とあります。このパウロの言葉に同意しない人はいないでしょう。しかし、ここまで正直にストレートに自分の姿を見つめ、その闇を認めることはなかなか出来ません。ここでパウロは反省しているのでしょうか。そうではありません。悔い改めているのです。彼は聖なる神様の御前に立っているのです。神様の光に照らされて、彼は自分の中の闇を、少しも逃げることなく凝視しているのです。そして、善に対して自分が全く無能であり、自分の中にはどうしようもなく悪への傾斜があることを認めているのです。彼は、自分の善意も良心も全く無力であり、それ故何の役にも立たないことを認めざるを得ないのです。そして、遂に彼はこう叫ばざるを得ないのです。24節「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」何と深い嘆きでしょうか。悔い改めとは、この自分の中の闇を正直に認めるところにしか生まれてこないのです。この嘆きは、この深い闇からの叫びは、聖なる神様の御前に立つ時、全ての人の口から発せられるものなのです。ここには、自分の地位や名誉やプライドや、その他一切の飾りを脱ぎ捨て、聖なる神様の御前に裸で立つ一人の人間がいます。神様が私共に求めているのはこのことです。自分もそれほど捨てたものではないとか、まんざら悪い者ではないとか、そんな人と比べてのこの世における評価といったものを一切捨てて、ただ神様の御前に立つ。その時、何と神様に造られた本来の姿を失った者であるか、そのことが明らかになるのです。自分の善意も良心も何も頼りにならないことが明らかになった時、ただ一人の頼るべき方がはっきりするのです。「だれがわたしを救ってくれるでしょうか」との嘆きの中で、私を救ってくださる方がはっきりするのです。そのお方とは主イエス・キリストです。パウロは、この深い深い嘆きの中で主イエス・キリストを見上げ、神様に感謝するのです。25節前半「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」そして8章1節では、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」とパウロは宣言するのです。あのどうしようもない闇から、彼はキリスト・イエスによる赦しの光の中に自分を見出したのです。

5.救われているが故に認めることが出来る自分の罪
 皆さんは、このパウロの心の動きをどう見るでしょうか。あの深い嘆きとこの喜びの叫びが一瞬にして入れ替わってしまうのは、何とも奇妙だと思われるでしょうか。これはハイデルベルク信仰問答でも同じなのですが、私はこう考えています。このパウロの、自らの罪の闇への凝視は、実は、すでにキリスト・イエスの救いに与った者であるが故に出来たことだったのではないか、そう思うのです。ですからパウロは次の8章1節で「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」と宣言しているのです。ハイデルベルク信仰問答が、問い8で取りつく島もないほどに私共の罪というものを徹底的に告げることが出来たのも、「神の霊によって再生される」ということを知っていたからなのです。もし、この救いの道、再生の道を知らなければ、このように徹底して罪だけを告げることは、私共に生きる力と勇気を失わせるだけで、何の意味もないことになってしまうでしょう。しかし、パウロにしても、ハイデルベルク信仰問答にしても、すでに救われているのです。だから恐れることなく、自らの罪の闇を凝視することが出来るのです。この主イエスによる救いというものが分からなければ、私共はこれほどまでに徹底して自らの罪を見ることは出来ないのです。どこかで目を逸らして、自分もそれほど捨てたものではないというところに落ち着こうとするのです。だってそうでしょう。善人でなければ救われないと思っていれば、徹底して自分の罪を見つめ、これを認めることは、自分が決して救われることはないということを認めることと同じです。そんなことは出来ません。だから、どうにか自分が救われる余地、可能性を残しておかないではいられないだろうと思うのです。それが、「私にだって、良いところはある」。そんな言葉になって現れるのでしょう。
 私共が悔い改めるためには、つまり本当に自分の奥底にある罪を認めて、自分の中に良きものは何もない者としてただ神様の赦しと救いを求めるためには、主イエス・キリストによる全き赦しを知らなければならないのです。この神様の御前における悔い改めと主イエスによる赦しを受け取ることは、私は同時に起きるものだと思っています。悔い改めてから後に赦される、そういうものではないと思うのです。赦しがあるから悔い改めることが出来るのですし、悔い改めるから赦される。これは、神様の御前における主イエス・キリストとの人格的出会いの中で同時に起きるものなのではないか、そう思うのです。まことの赦し、全き赦しを知らなければ、恐ろしい裁きしか知らなければ、私共は「自分は悪くない。」そう言い張るしかないのです。自分も悪いが神様も悪い、と言い張るしかないのです。しかし、そこにまことの悔い改めは起きません。悔い改めとは、神様の御前に、一点の誇りもなく、ただただ罪人として赦しを求めることです。これは聖霊の業です。聖霊が働いてくださらなければ、私共は悔い改めも出来ない者なのです。それほどまでに、私共は神様に不従順な者なのです。

6.回復への道
 しかし、その不従順な私共のために、神様は愛する独り子を私共と同じ姿でこの世に送ってくださり、十字架にお架けになり、その御業によって私共に全き赦しを、全き救いを与えてくださったのです。この神様の御心を知り、この救いに与った私共は、ただただ神様に感謝をささげ、神様をほめたたえるしかないではありませんか。そしてこの時、私共は神様をほめたたえるために神様に造られたという、本来の姿を回復し始めるのです。ここにおいて私共は、あの失われていた、そして心から憧れていた自分の本来の姿、神様がご自身に似せて造ってくださった本来の姿を回復し始めのです。神様をただしく知り、神様を心から愛し、神様と共に生き、神様をほめたたえるという姿を回復し始めるのです。
 自らの善意に頼り、自らの良心に頼り、反省で事足りると考える者は、自らの本当の闇を見据えることも出来ず、それ故ただ神様だけをより頼むということが出来ず、新しく生まれ変わることも出来ないのです。神様を誉め讃える者に生まれ変わることが出来ないのです。自らの闇を徹底的に見据え、これを認める勇気を、私共は聖霊によって与えられています。ありがたいことです。自らの力を少しも頼ることなく、ただキリストの救いの御業を見上げ、自分の中には何もない者として神様をより頼んでまいりましょう。そして、まことの悔い改めをなし、まことの赦しに与り、心から主をほめたたえつつ、神様に造られた本来の姿を回復する道をこの一週も歩んでまいりたい、そう心から願うものであります。

[2009年9月13日]

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