富山鹿島町教会

特別伝道礼拝説教

「Change!! あなたは変われます」
創世記 1章24〜31節
エフェソの信徒への手紙 2章1〜10節

小堀 康彦牧師

1.結婚式はキリスト教?
 今日は伝道礼拝ということで、ここからお見受けしましても、いつもは教会にお見えになっていらっしゃらない方が何人もおられるようです。今日は、そのような方とご一緒に、神様が与えてくださる救いの恵みを受けてまいりたいと願っております。
 実は、昨日ここで結婚式が行われました。また明日も結婚式が行われます。これほど立て続けに行われることも珍しいのですけれど、どちらの方も教会の関係者ではありません。教会で結婚式を挙げたいと連絡があり、それならばということで何回かの結婚の準備会を行いまして、礼拝にも出席いただいて、結婚の時を迎えることになりました。今の日本では、結婚式はキリスト教で、葬式は仏教で、という雰囲気があるようですけれど、もちろんこの教会でも葬式も行います。ただこの葬式の方は、教会に関係していない方から、してくださいという希望を受けたことはあまりありません。
 どうして結婚式がキリスト教で、葬式が仏教なのか、私にはよく分かりませんけれど、キリスト教には、結婚式を挙げる上でのとても大切な教えがあることは確かです。今日は皆さんと、その辺のことを聖書から見ていきたいと思っています。

2.神様に造られた人間 〜神の似姿として〜
 先ほど、旧約聖書の創世記第1章をお読みいたしました。実は、この聖書の一番最初に記されております、この創世記第1章というのは、神様が6日間で天地のすべてのものをお造りになり、7日目に休まれたという、天地創造の物語が記されているのです。1日目には何を造り、2日目には何を造り、と順に記されています。そして、6日間で全てを造り終えて、7日目に神様は休まれたとあります。私共が当たり前のように使っております暦ですが、一週間が一つの単位となっているのは、この創世記の6日間で天地を造り、7日目に休まれたというところから来ているのです。ですから、一週間に一日、休みの日がある。聖書にある昔話なんて自分には関係ない、と思っていても、実際には、関係ないどころか、現代日本の私共と深く関係しているのです。このことについては、今日はこれ以上お話しすることはしませんけれど。
 今日お話ししたいことは、この天地創造の6日目のことです。6日目に神様はおもに動物を造られました。そして、その最後に人間を造られたのです。しかし、この人間を造られた時、神様は他の動物とは違って、大変特徴のある、特別な意図をもって造られました。そのことを示しておりますのが、1章26〜27節です。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」とあります。神様は人間を、御自分に似たものとして造られたというのです。26節には「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」とありますし、27節には「御自分にかたどって人を創造された。」とある。これは一体何を意味しているのでしょうか。幼い子でしたら、神様も目が二つ、耳が二つ、手が二本、足が二本あるのかな?そんな風に考えるのかもしれません。しかしここで言われているのは、もちろんそのようなことではありません。
 では、一体、私共人間のどこが神様に似たものとして造られているのでしょうか。このことについては、この創世記が記されて以来、もう三千年にわたって、色々論じられて来ました。この人間のどこが神様に似たものとして造られているのかという問いは、別の言い方をしますと、人間が他の動物と違っているのはどこか、人間が人間であるということはどういうことなのか、そのような問いと重なってくるかと思います。
 ここで色々なことが考えられると思います。人間だけが、神様が天地を造られたように、道具を作ったり、道を作ったり、音楽を作ったり、創造することが出来る。これが、人間が神様に似ているところだ。なるほどと思います。あるいは、神様は1日目の最初に、「光あれ。」と言葉をもって創造されました。それと同じように、人間は言葉を持っている。この言葉で色々なことを考えたり、コミュニケーションをとったりすることが出来る。これが他の動物違って人間が神様に似ているところだ。これもなるほどと思います。こういうことは色々考えることが出来るでしょう。人間だけが、感情や本能だけで動くのではなくて、こうしようという意思というものを持っている。これも頷けます。或いは、人間だけが、責任をとるということを知っている。つまり人格というものを持っている。これもその通りだと思います。あるいは、人間だけが笑う存在だとか、色々あるわけです。
 ただ、27節を見ますと、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」とあるのです。神様にかたどって創造された人間は、男と女に創造されたというのです。これは、聖書の神様はただ独りの神様ですから、神様も男の神と女の神がいるということではないのです。神様には男も女もないはずなのです。とするならば、これは一体何を意味しているのか。
 それは、人間というものは、男と女に造られたということによって、「愛の交わりを形作るものとして造られた」ということを意味しているのです。聖書の神様は、愛の神です。愛そのものです。この愛の神に似たものとして造られたということは、愛の交わりを形作るものとして、神様は人間を造られたということなのです。もちろん、結婚だけが愛の交わりではありません。しかし、結婚によって結ばれる夫婦、そしてそこから生まれる親子、家庭というものが、人間の愛の交わりの基本にあることは間違いないことでありましょう。そして人間は、そのような愛の交わりを形作り、その交わりの中に生きるようにと神様に造られた。それが人間というものなのです。この愛の交わりを形作るために、言葉を用い、コミュニケーションを図り、意志を持って、責任ある人格として生きる。それが神様によって造られた人間の、神様の御心にかなう生き方ということになるかと思います。キリスト教には、結婚を支える大切な教えがあると言ったのはこのことなのです。愛の交わりを形作るという営みこそ、神様の御心に適うことであり、神様の祝福を受ける歩みであるということなのです。

3.愛の破れの中で
 しかし、問題はそこからなのです。私共は、本当に神様の御心にかなうような愛の交わりを形作り、そのような愛の交わりの中に生きているのか、ということなのであります。私共は、この自らの愛を問われる時、大変苦しくなります。心が痛い。何故なら、私共は自分がそのような愛の交わりを形作っていないことを知っているからです。欠けがあることを知っているからです。皆、一生懸命生きているのです。しかし、欠けがある。夫婦であれ、親子であれ、まして嫁と姑となれば、なかなか難しい。この難しい中に私共は生きているのでしょう。
 聖書が示す愛とは、互いに仕えることであり、支えることであり、赦すことであり、信頼することであります。それは、自分をささげるということでもあります。しかし、私共はなかなかそうなれないのです。ついつい自分中心といいますか、「自分には甘く、人には厳しい。」「自分は正しい。間違っているのはあなた。」「人には赦して欲しいが、人を赦せない。厳しく責める。」「仕えるのはイヤで、仕えられるのは当たり前。」そういうものなのですね。
 昔から、「親の心、子知らず」とか「孝行をしたい時には親は無し」と言いますが、これなどは実に良く私共の愛の欠けを示している言葉だと思います。子供にとって、親からしてもらうことは当たり前であって、感謝などということは分からない。これが分かるようになった時には、もう親は死んでしまっている。実は、これが聖書で言うところの罪というものなのです。罪人などといいますと、何か特別に悪いことをした人のように思ってしまうかもしれませんが、そうではなくて、この欠けた愛の交わりしか作れない、そういう関係しか作れない、そのような人間の現実を指している言葉なのです。ですから、罪人でない人は一人もいないということになるのです。

4.神様によって造り変えられる
 だったら、そんな人間がどうやって救われるのか。どう変われるのか。道はあるのか。あるのです。本当にあるのです。そして、本当に変われるのです。これが今日皆さんにお話ししたいことなのです。
 確かに人が変わるというのは、本当に難しいことです。あまりの難しさに、「人間、二十歳を過ぎたらそうそう変わるものではない。」そんなことを言う人もいます。確かに世の中を見ていれば、そういうことになってしまうのかもしれません。あれだけの失敗をしたらもうしないだろうと思うと、しばらくするとまた同じ失敗を繰り返す。あの人はちっとも変わらない。そんな現実があることを私もよく知っております。しかし、それは神無き世界の話です。私共は、天地を造られた神様の御力というものを信じております。天地を造られた神様は、私共が愛の交わりを形作ることが出来るようにと、私共を造ってくださいました。私共は神様の失敗作ではないのです。神様は私共と違って、失敗作を造られるような方ではないのです。神様は人間を造られた時、31節「極めて良かった」と大満足されたのです。私共は、神様の傑作品なのです。ですから私共は、自分の力では変わることが出来なくても、神様の御力によるならば、神様の御心にかなうように新しく造り変えられることが出来る。私共はそのことを信じて良いのです。
 エフェソの信徒への手紙の2章10節に「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった良い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その良い業を行って歩むのです。」とあります。良い業とは、愛の交わりを形作り、その交わりの中で生きることです。そのように、キリスト・イエスによって新しく造られるのです。主イエス・キリストを信じるならば、その信仰によって神様が私共を造り変えてくださるのです。

5.どのように造り変えられるのか?
 神様によって造り変えられていく中で、どういうことが起きるのか。私は牧師として、今までたくさんの、この神様によって造り変えられていった人々を見てきました。それから言えることを、いくつか挙げてみましょう。
 第一に、自分が損するか得するか、そういうことだけで生きなくなる。造り変えられるまでの私共は、何か道を選ぶ時、それが損か得かで決めていたのではないかと思いますが、そうではなくなる。損得以上に大切なことがあることを知るからです。損得以上に大切なこと、それは、正しいかどうか、神様が喜ばれるかどうか、ということですね。生き方が変わってしまうのです。自分が得するようにしか生きられなかった人間が、神様のために、人様のために、自分をささげるということが出来るようになるのです。自分のことしか考えられないというところから変えられてしまうのです。これは、大変な変化ではないでしょうか。自分のような者が少しでもお役に立てればありがたい、そんな風に変わってしまうのです。
 第二に、神様に委ねるということを知るようになるのです。何でもかんでも自分の力で何とかしよう、そうやって生きてきた私共。夫も、あるいは妻も、自分の子も、こんな人にしよう。そんな風に頑張って生きてきた。しかし、人生はなかなかその通りにはならないわけです。私共はそういう時にどうなるかと言いますと、腹を立てる。自分に対しても、周りの人にも当たってしまう。こうなったのは、あの人のせいだ、このひとのせいだ。そんな風に考えて当たってしまう。そういう人が、神様の愛を知って、神様に委ねるということを知る。もちろん、自分が為すべきことに手を抜くということではありません。為すべきことは一生懸命やるのです。しかし、その結果がどうなるかは、神様の御心というものがあることを知る。そうすると、自分の思い通りにいかない時にも、周りに腹を立てるのではなくて、それを受け入れ、耐えることが出来るようになるのです。神様はすべてをご存じであり、自分を愛しておられる。その神様が、自分に悪くされるはずがない。これには、今は判らないけれど、きっと神様の大きな御心がある。そのことを信じ、受け入れることが出来るようになるのです。
 第三に、相手を信頼するようになって、心を開くようになる。心を閉ざして、人の言うことを聞かない、自分の言いたいことばかり主張する。私共の中には、そういう面が誰にもありますよ。しかし、相手を信頼することが出来るようになりますと、その人の言葉をちゃんと聞くことが出来るようになる。自分の悪いところを指摘されても、ただ腹を立てるのではなくて、そういうところが私にはあるなと、聞けるようになる。そうすると、どうなるのか。確実に、周りの人との関係が変わってくるのです。愛の交わりというものは、相手を変えようとしてもなかなか変わりません。しかし、自分が変わると、相手も確実に変わっていく。そういうものなのです。
 こういうことは挙げればきりがありませんし、人によっても現れ方は違うのですけれど、神様によって、少しずつですがはっきりと変えられていく。そういうことが、イエス様を信じる信仰によって起きてくるのです。神様に造り変えられてくるからです。もちろん、クリスチャンは善男善女ばかりです、と言うつもりはありません。色々な人がいる。しかし、その一人一人が、イエス様を知る前から比べたならば、驚くほど変わっている。はっきりとそう言えると思います。
 ここで私が出会った方を、紹介しましょう。一人は、……省略……。
 私は牧師をしてもう20数年になりますが、本当にありがたいと思いますことは、神様によって造り変えられた人々と一緒に生きることが出来るということなのです。教会にも色々な人がいます。みんな個性的です。しかし、その一人一人が、愛の交わりを形作るために、神様によって新しく作られた人たちなのです。私は、この教会に集う一人一人こそ、イエス・キリストの愛の真実を身をもって証ししている方なのだと思います。私もその一人です。私は20歳頃の自分に戻りたいとは少しも思いません。30年前の私は、上昇志向が強くて、自分のことしか考えられなくて、上から人を見下す、本当にイヤなヤツでした。しかし、幸い、イエス様に出会って、少しずつ変えていただきました。本当に有り難いことです。

6.どうすれば変われるのか?
 最後に、どうしたらそのような変化が与えられるか、変われるのか、Change出来るのかをお話ししたいと思います。もちろんそれは、主イエス・キリストを信じるならばということなのですけれど、それを更に具体的に言えばどうなるのか。これも話せば色々ありますけれど、煎じ詰めるとこの二つになると思います。
 第一に、日曜日の礼拝に毎週集ってください。日曜日、毎週ここに集うということは、なかなか大変なことかもしれません。そのために止めなければいけないことがあったり、生活をそのために整えなければならないこともあるでしょう。実に、この日曜日の礼拝を毎週守っていくならば、私共は確実に、心が神様の方に向くようになっていきます。2ヶ月、3ヶ月、半年と続けるならば、必ず私共の心の中にイエス・キリストというお方、神様というお方が、位置を占めるようになってきます。これは間違いありません。
 第二に、1分でも良いですから、毎日お祈りをするということです。長くなくても良いです。出来れば、一日何回もお祈りしてください。朝起きたら「神様、今日一日、あなたの御手の中で護られますように。」とか、夜寝る前に「神様、今日一日、あなたに護られましたことを感謝します。」とか、食前に「神様、今日もこうして食事をいただけることを感謝します。」とかで良いのです。
 この二つによって、私共は必ず神様によって変えられていきます。そして、神様が私共をお造りになった本来の目的、神様を愛し、人を愛するという営みへと私共を導き、その目的に添って私共を造り変えてくださいます。
 どうぞ、そのことを信じて、この教会でご一緒に聖書を読み、神様をほめたたえながら歩んで行かれる日々が備えられますよう、その一歩を踏み出されますよう、そして神様によって造り変えられて、真実な愛の交わりを形作る者として歩まれますよう、心から祈るものです。

[2009年10月11日]

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