富山鹿島町教会

礼拝説教

「砕かれた陰謀」
詩編 69編14〜22節
使徒言行録 23章12〜35節

小堀 康彦牧師

1.神様の摂理
 代々のキリスト者たちが自らの信仰を言い表してきました使徒信条は、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」と始まっております。私共は、神様が天地を造られた方であること、そしてその神様は全能の御方であり、私共の父であられることを信じております。神様の全能の力は、天地を創造された時にだけ用いられたのではもちろんありません。天地創造の時以来ずっと、神様はその御力を用いてすべてを支配しておられます。それは今までも、今も、そしてこれからも変わることはありません。そして神様は、その全能の御力を、私共の父として、私共を愛し、私共を全き救いへと、御国へと導くために用いてくださるのです。この神様が全能の御力をもってすべてを支配しておられることを、「神の摂理」と言います。私共は、この「神の摂理」を信じております。ですから、どんな困難の時にも希望を失わず、忍耐をもって為すべき業に励み、神様との交わりの中に生きることが出来るのです。
 私共の人生においては、良い時もあれば悪い時もあります。豊作の年もあれば不作の年もあり、健康な時もあれば病気にかかる時もあります。人と人との関係が上手くいっている時もあれば、それがもつれる時もあります。良い時は神様に守られてありがたいと感謝も出来ますが、良くない時・苦しく困難な時、私共の信仰はどうなるのか。かなり危険な状態になるでしょう。その時に力を発揮するのが、この「神の摂理」を信じる信仰なのです。私共がどのような状況の中にあっても、全能の父なる神様は今もそしてこれからも働いてくださって、必ず全き救いへと導いてくださる。このことを信じることが出来たなら、私共を神様から離れさせることが出来るものなどは存在しないことになります。私共の信仰は聖い基礎の上に建つことになるのです。
 この神様の摂理というものは、全世界・全歴史の御支配という、実に壮大なあり方で展開されておりますが、それが同時に私共一人一人の日常の歩みを導くというあり方においても働いているのです。全世界・全歴史の御支配ということと、一人の人生とどんな関係になるのか、私共の頭の中ではよく分かりませんが、全能の神様がなさることでありますから、それは確かなことなのです。

2.パウロを暗殺する計画
 今朝与えられております御言葉において明らかに示されていることも、この神様の摂理と言うべきものなのです。
 少し先週までのところを振り返ってみましょう。パウロは第三次伝道旅行を終えて、エルサレムにまいりました。エルサレムに行けば獄につながれるということが何度も聖霊によって示されましたけれど、パウロはエルサレムに行くことが神様の御旨に適うことであると信じて、エルサレムにやって来ました。そして、エルサレム神殿においてパウロを殺そうとする人々によって騒動が起きました。パウロは間一髪のところでローマの兵隊によって保護されました。パウロは兵営に連れて行かれる途中で、自分の回心の出来事、また主イエスによって異邦人伝道へと遣わされたことを群衆に向かって語りましたが、かえって人々の反感を煽るような結果になってしまいました。パウロは鞭で打たれて取り調べられそうになりましたが、自分がローマの市民権を持つ者であることを明らかにすることによって、その難を逃れました。そして、最高法院で取り調べられることになりましたが、パウロが「自分は復活の望みを抱いていることによってこの裁判にかけられている。」と発言したことによって、最高法院はファリサイ派とサドカイ派の議員による論争の場となり、とてもパウロを調べて判決を出せるような状態ではなくなりました。そして、パウロは再び兵営に連れて行かれることになったのです。
 その次からが、今日の御言葉のところです。12〜13節「夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。このたくらみに加わった者は、四十人以上もいた。」とあります。遂に、パウロを直接自分たちで殺そうという人たちが40人以上も集まったのです。そして、彼らはパウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てたのです。パウロの暗殺計画です。しかし、この時パウロはローマの兵営の中におりますから、すぐには手を出すことは出来ません。そこで彼らは、祭司長たちのところに行って、パウロを最高法院においてもっと詳しく調べるという口実で連れて来るようにとの願いを千人隊長に出してもらうように頼みました。彼らは、パウロが兵営から最高法院に連れられて来る途中に殺すという計画を立てたのです。
 随分荒っぽい計画です。パウロが兵営から最高法院に連れて来られる道中には、ローマ兵の護衛が付いていないはずがありません。ということは、パウロを殺すためにはローマ兵を襲うという事にならざるを得ないわけです。もしこの計画通りに事が進んだとすると、ローマ兵が襲われることになるのですから、これはローマからは明らかな反乱・暴動と見なされることになったでしょう。さらに最高法院がこれに関与していたことが分かれば、大規模なローマ軍の出動ということにもなりかねなかったと思います。荒っぽい計画というのは、そういう意味です。
 しかし、この計画をパウロの姉妹の子が聞きつけて、パウロに知らせたのです。どうしてパウロの甥がこの計画を知ることとなったのかは分かりません。そして、パウロは百人隊長に、この甥を千人隊長のところに連れて行くように言い、パウロの甥は千人隊長にパウロの暗殺計画を知らせたのです。千人隊長の判断と行動は迅速でした。明日になれば、パウロを最高法院に連れて来るようにという願いが出されることを知り、彼はその夜の内にパウロをカイサリアへと連れて行くことにしたのです。
 カイサリアという町は、ヘロデ大王の時代にローマ式に整備された町で、当時のユダヤにおけるローマの行政・軍事の中心地でした。ローマの総督はこの町におり、ローマの軍団もここにおりました。
 そして、千人隊長はパウロの護衛のために、歩兵200、騎兵70、補助兵200を付けたのです。合計470名の兵隊というのは、パウロ一人を護送するにはあまりに多い人数ではないかと思われるでしょう。しかし、40人以上の暗殺団から護るとなれば、これは決して多い数ではなかったのです。軍人である千人隊長は、暗殺団に襲われない、暗殺団が手も足も出せない護送の兵隊の人数は、これだけ必要と考えたのでしょう。千人隊長の軍人としての判断でした。これだけの人数に護られては、40人以上の暗殺団といえども手も足も出ません。
 パウロの暗殺計画が企てられ、それをパウロの甥が知り、千人隊長に知らせ、その夜の内に470人の兵隊に護られてパウロはエルサレムを脱出する。まるでスパイ映画のワンシーンを見ているような、スリル満点の成り行きです。どうして甥はパウロの暗殺計画を知ったのか。運が良かったとしか言いようがありません。そして、千人隊長のその夜のうちにパウロを移送するという、迅速な判断と行動。これもパウロにしてみれば、運が良かったということでしょう。運が良かった。その通りです。しかし、私共はここに神様の摂理というものを見るのです。
 神様は天地を造られた方ですから、何もパウロだけの神様ではないのです。神様はその見えざる御手をもって働き、パウロを守られたのです。この神様の見えざる御手というものは、私共の上にいつも働いてくださっているのです。信仰のない人は、「運が良かった」で終わりでしょう。けれども、私共はそうではないのです。この出来事の中に、神様の具体的な守り、導きというものをそこに見て、主をほめたたえるのでありましょう。

3.主イエスの昇天
 週報にありますように、今週は主イエスの昇天を覚える記念の日があります。昇天日と言います。今年は5月13日です。主イエスが復活されて、40日にわたってその復活された御自身の御姿を弟子たちに現され、40日目に天に昇られました。この出来事を覚えるのが昇天日です。この日は平日です。日本では、この日のために特に学校や会社が休みになることはありません。そのせいでしょうか、「主イエスの昇天日」というのは、日本ではかなり印象が薄いと思います。この10日後に聖霊が降ったペンテコステの出来事が起きました。
 この「主イエスの昇天日」というものは、主イエスが今、天地を造られた神様と共におられ、神様の右に座して、天地のすべてを支配してくださっている、このことを覚える記念の日なのです。主イエスは十字架に架かり、復活されました。それはただ一度、二千年前に起きたことです。この歴史的な出来事が、どのようにして現在の私共に関わるのか。それは、この主イエスの昇天の出来事によるのです。主イエスが天に昇られ、父なる神様と共にすべてを支配してくださっている。このことによって、私共に聖霊を注ぎ、信仰を与え、十字架と復活の救いの御業に与らせることが出来たのです。天の父なる神様は、この天と地の全てを造られた方です。決して、キリスト教徒だけの神様などではないのです。当然、この主イエスの御支配は、主イエスを信じる者の上にだけあるのではありません。このパウロの救出の出来事においては、パウロの甥も、千人隊長も、そして470人のローマの兵隊たちも用いられているのです。本人はそんなことは少しも意識していなかったでしょう。しかし、用いられているのです。
 この時の千人隊長の思いがどんなものであったか、カイサリアの総督に宛てた手紙の中によく表れています。26〜30節のところです。27節で彼はこう言います。「この者がユダヤ人に捕らえられ、殺されようとしていたのを、わたしは兵士たちを率いて救い出しました。ローマ帝国の市民権を持つ者であることが分かったからです。」彼はローマ市民であるパウロをユダヤ人たちから救ったのです。そして、29節「ところが、彼が告発されているのは、ユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はないことが分かりました。」彼はパウロをめぐる騒動がユダヤ人の律法に関するものであり、それはローマの法からすれば何ら死刑や投獄の罪には当たらないということを知っていたのです。30節「しかし、この者に対する陰謀があるという報告を受けましたので、直ちに閣下のもとに護送いたします。告発人たちには、この者に関する件を閣下に訴え出るようにと、命じておきました。」しかし、この男に対しての陰謀、具体的には暗殺計画ですが、これがあるとの報告を受けたので護送して来たと言うのです。彼はあくまで、ユダヤの治安を守るローマの千人隊長として、またローマ市民を守るローマの千人隊長として、その任務を忠実に果たしただけなのです。何もパウロを特別好意的に扱ったということではないのです。悪く言えば、彼は自分の立場が悪くならないように立ち働いただけということなのかもしれません。自分の任地のエルサレムにおいて騒動が起きれば、それは彼の責任になるからです。
 しかし、このような千人隊長の意識とは別に、神様はこの千人隊長の行動を御自身の救いの御計画のために用いられたのです。神様の摂理とはそういうものなのです。私は、病院に入院される方、手術を受けられる方のためにいつも祈っておりますが、その中で、「医師を通し、看護師を通して、あなたの癒しの御業が為されますように。」と祈ります。お医者さんも看護師さんも、自分が神様の癒しの御業に用いられているなどとは少しも考えていないでしょう。しかし、神様はその人を用いて御業を為されるのです。神様は私共の救いのために様々な御業を為してくださり、守り支え導いてくださいます。時には、奇跡ではないかと思われるような出来事をもって、私共の歩みを支えてくださることもあるでしょう。しかし、このパウロが守られた時のように、運が良かったとは言えるでしょうが、特に奇跡が起きたわけではなくて守られていく、そういうことの方が多いのではないでしょうか。私共は、この神様の摂理の中、生かされているのです。

4.神様の御計画の中で守られる
 ここでもう一つ思わされることは、パウロは少しも安楽な歩みをしているわけではないということです。主と共に歩む、神様の摂理によって守られるということは、決して安楽な日々を過ごすということではないのです。困難はあるのです。しかし、守られるということなのです。それは、私共について神様には御計画があるからです。
 パウロはどうしてこの時に神様によって守られたのか。それは、11節に「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』」とありますように、パウロをローマへと導き、ローマにおいて主イエスの証しを為すという御計画が神様の中にあったからです。私共は、ただただ自分の日々の生活を安楽に過ごせるようにと、そのために神様に守っていただけるようにと願い求めます。そのような祈りはあって良いのです。そのように神様が私共を守ってくださって、穏やかな日々を過ごすのもまた素敵なことです。 パウロもこの時、聖書には記されておりませんが、きっと祈ったと思います。詩編69編14〜15節「あなたに向かってわたしは祈ります。主よ、御旨にかなうときに、神よ、豊かな慈しみのゆえに、わたしに答えて確かな救いをお与えください。泥沼にはまりこんだままにならないように、わたしを助け出してください。わたしを憎む者から、大水の深い底から助け出してください。」のような祈りをしたのではないでしょうか。神様はそれに応えてくださった。ありがたいことです。
 しかし、それだけではないと思います。パウロは、神様の証しを立てるために生かされたのです。神様は私共に証しを立てることを求められるのです。私共の生涯の歩みを通して、神様の恵みがいかに素晴らしいか、主は確かに生きて働いておられるということを証しするように求められるのです。その証しとは、言葉による証しだけではありません。自分の生きているその姿によって証しを立てることを神様はお求めになり、その御計画の中で私共を守り、導いてくださるのです。私共が困難な状況に陥ったとすれば、そこにおいてこそ私共は神様の摂理を信じて、万事を益としてくださる神様の御手の中で雄々しく歩むことが求められているのでしょう。そこにおいてこそ証しが立つからです。
 私共は目の前のことしか見えません。しかし、神様はすべてを見通しておられ、その上で全能の御力を用いて、私共を全き救いへと、御国へと導いてくださっているのです。パウロにローマへの道が開かれていったように、私共にも、神様の御心の中にあって私共が証しを立てていく所があるのです。それぞれのローマがあるのです。神様は、その救いの御計画に用いるために、私共を困難の中あっても必ず守ってくださいます。そのことを信じ、安んじてこの一週も歩んでまいりたいと心から思うものです。

[2010年5月9日]

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