富山鹿島町教会

召天者記念礼拝説教

「天の資産を受け継ぐ者」
ペトロの手紙 一 1章3〜9節

小堀 康彦牧師

1.三つの日付
 私共は今朝、先に天に召された方々を覚えて礼拝をささげています。受付で、先に召された方々の名簿を受け取られたことと思います。ここには、私共と共にこの地上の生涯を歩み、親しい交わりにあった人々の名前が記されております。昨年より2名の方のお名前が増えました。そしてこの名簿には、お一人お一人についてそれぞれ三つの日付が記されています。この世に生を受けた日の誕生日、洗礼を受けた日の受洗日、そして天に召された日の召天日です。それぞれの人生を思う時、もちろん他にも大切な日はあるでしょう。結婚した日、お子さんを与えられた日、仕事に就いた日、仕事を退いた日、いろいろある。しかし、ここに記されている三つの日付は、神様によって私共の存在の根底が決定付けられるという出来事が起きた日なのです。誕生日は、天地を造られた父なる神様の御手の中でこの地上での生涯が私共に与えられた日です。受洗日は、神様の救いの御手の中でキリスト者として、神の子・神の僕として私共が新しく誕生した日です。そして召天日は、この地上の生涯を閉じて、天の父なる神様の御許で生きる者となった日なのです。
 私共は今朝、愛する者たちの在りし日の姿を思い起こしております。こんな話をした、一緒にあそこに行った、こんなことをした、いろいろ思い起こされていることでしょう。もっとこうしてあげれば良かったという思いを抱いておられる方もおられるかもしれません。今そのお一人お一人の中にある思いに重ねて御言葉を受け、共にまなざしを天におられる父なる神様と御子イエス・キリスト、そしてその御許に召された愛する一人一人に向けさせていだきたいと思うのです。

2.新しく生まれた者の希望
 今朝与えられております聖書は、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」(3節)と告げます。キリストを信じる者は、この地上の命を受けた誕生日の他に、神様の子・神様の僕として新しく生まれた日を持つのです。それが洗礼を受けた日です。天地を造られた神様の子となる。主イエス・キリストの兄弟となる。それは実に驚くべきことであります。天地を造られた神様に対して、「父よ」呼びまつることが許され、「我が子よ」と呼んでいただける。主イエス・キリストが「兄弟よ」と呼んでくださるのです。何という光栄でしょう。特に優れたところがあったからではありません。特に良い人であったからでもありません。ただ神様が一方的に愛してくださり、我が子として受け入れてくださったのです。このことのために、神様は愛する独り子イエス・キリストを十字架にお架けになり、私共のすべての罪の裁きをその身に受けさせ、私共の身代わりとされたのです。そしてさらに、神様はそのイエス・キリストを三日後に復活させることによって、私共に死で終わることのない永遠の命への道を拓いてくださったのです。
 私共の地上における目に見える希望は、必ず時と共に色あせ、しぼんでいくものであります。どんなに富を得ようと、高い地位に昇ろうと、名声を得ようと、それらは肉体の死と共に消えていくのです。しかし、神の子とされた者に与えられた希望は、主イエス・キリストの復活の出来事によって与えられた希望ですから、肉体の死によって失われるようなものではないのです。死を超えた希望です。それは、「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者」(4節)とされているという希望です。この天に蓄えられている財産とは、罪の赦しによって与えられる永遠の命であり、復活の命であり、祝福と喜びと平安とに満ちた父なる神様との永遠の交わりです。これは目に見えず、手に触れて確かめることが出来ないものです。しかし、そうであるが故に、どんなに苦しい時でもつらい時でも、そしてその究極にあるのが死ですが、その死においてさえも、私共から奪われることのない希望なのです。目に見え手で触れることの出来るものは、必ず色あせ、朽ち果て、しぼんでいくのです。しかし、この永遠の命の希望は、どんな時でも私共に力を与え、光を与えます。私共を生かす、生き生きとした、決して空しくならない希望なのです。この希望を与えられ、この希望によって生かされてこの地上の歩みを為した人、そしてこの希望の中で地上の歩みを閉じた人、それが今朝私共が覚えている愛する一人一人なのです。

3.永遠の命の希望の力
 死は誰に対しても決定的な力で臨みます。どんなにこれに抵抗し逆らっても、やがてこの死の力に飲み込まれていきます。これは誰の目にも明らかです。しかし、ただ一人例外があったのです。イエス・キリストです。イエス・キリストは十字架に架かり死にました。しかし三日目に復活し、弟子たちにその御姿を現し、親しく語りかけ、共に食事をし、40日後に天に昇られたのです。この復活された主イエスと出会った弟子たちによって、キリスト教は伝えられたのです。今日の聖書の箇所を記したペトロもそうなのです。主イエスは復活された。その復活された主イエスが私を愛し、私を招き、永遠に共にいると約束してくださった。だから、自分もまた死を超えた命、天に蓄えられている資産を受け継ぐ者とされている。そう彼は信じ、迫害の中でも死をも恐れず主イエスの福音を宣べ伝え、殉教していったのです。この天の資産を受け継ぐ者とされているという希望は、殉教さえも恐れない者とされるのです。私共に与えられている希望の力は、それ程大きいものなのです。殉教などということは、現代の日本では考えられない、自分とは関係ない遠い話のように聞こえるでしょう。しかし、先の大戦の時、キリスト教は敵性宗教と見なされて迫害され、獄中で文字どおり殉教の死を遂げた者がいたのです。彼らも、同じこの希望に生きた者たちでした。このような例は、キリスト教の歴史の中でどれだけでも挙げることが出来ます。
 このような話を聞きました。ある牧師夫人が自殺をされた。うつ病によるものでした。私は、このような精神病による自殺は病死と言うべきものだと思っていますが、自殺というのは、他の死に方とは違って、残された者に大変重い自責の念を残すものであります。この牧師は、キリスト者であった自分の妻がお墓に納められる時、はっきりと悟ったというのです。「妻はここから出て来る。ここで終わったのではない。よみがえるのだ。」このことをはっきり悟った。今、悟ったという言葉を使いましたが、これは、はっきりと信じることが出来たということでありましょう。この死で終わらない、やがて復活するということを本当に信じることが出来た時、この牧師は自分の妻の自殺ということを受け入れ、やがて父なる神様の御前で相見えることを楽しみとすることさえ出来たのであります。実に、この永遠の命の希望、復活の命の希望というものは、死の力に対抗し、打ち破り、私共の人生を根本から支える力があるものなのです。

4.神の力によって守られて
 私共は、この地上の生涯においては、様々な課題が次々に生じるものでございます。一つの課題を何とか乗り超えたと思ったら、次の問題が持ち上がる。何の問題もない人生などありません。主イエスを信じたら何の問題もなくなった。そんなことはないのです。仕事のこと、子供のこと、老いの課題、悩みは尽きません。聖書がはっきり「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まなければならないかもしれませんが」(6節)と言っているとおりです。しかし、その試練をどのように乗り超えていくのか、それが大切なことなのです。7節「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、賞賛と光栄と誉れをもたらすのです。」とあります。苦しみ、悲しみ、困難、それらの試練を、主イエスが与えてくださる永遠の命を見つめて、その希望の中で乗り超えていく中で、私共の信仰は練り清められ、いよいよ輝きを増し、主イエスが再び来られる時にお褒めに与る者になるのです。
 そしてその歩みは、5節にありますように「神の力により、信仰によって守られて」いるのです。歯を食いしばって頑張るというのではありません。すべてを支配しておられる全能の父なる神様の力が、私共を一切の悪しき力から守り、信仰を保たせ、やがて与えられる天の資産を受け継ぐにふさわしい者として、守り支え導いてくださっているのです。信仰のない人は、それを偶然と言って済ますでしょう。しかし、信仰のまなざしを与えられている私共は、そこに確かな神様の守りの力、憐れみに満ちた神様の導きというものを見るのです。私共の人生は、この神の力による守りによって支えられ導かれているものなのです。この人と出会った。この子が与えられた。この人の子として生を受けた。この仕事に就いた。どれ一つとっても、神様の力によって守られていること抜きには考えることは出来ないでしょう。そのことを思うと、私共は神様に感謝をささげないではいられないですし、生かされていることを喜ばないではいられないのです。
 また、長い人生の歩みをしてきた方は、振り返るとあの時よく持ちこたえたものだと思い起こす人生の場面があるのではないでしょうか。その時には分かりません。無我夢中で歩んでいる。神様の守りがあるなんて考えもしないで歩んできたことでしょう。しかし振り返ってみますと、その困難だった時こそ、確かに神様の力によって守られていた時だったのではないでしょうか。
 良いですか皆さん、私共がこの地上の生涯を歩んでいるときに、確かに神様の力によって守られたとするならば、私共がこの地上の生涯を閉じた後も、神様の力は変わることなく私共を守り続けてくださるのです。何故なら、父なる神様は天地創造から終末まで変わることなくおられ、その御支配は少しも揺るがないからです。神様の守りの力が、私共の死と共に無くなるなどということは、あり得ないことだからです。そのことを、神様は主イエス・キリストの御復活の出来事によって、私共に確かに示してくださったのです。

5.神様の御前で
 私共は、地上の生涯を閉じて、父なる神様と主イエス・キリストの御前に立つ時が来ることを知っています。その時、私共は何と言うのでしょうか。神様は、私共がこの地上の生涯において、良い時も悪い時も、困難な時も順調な時も、嘆きの時も喜びの時も、どんな時も私共がどのように歩んだかを知っておられます。私共が、この神様が与えてくださった生ける希望によって歩み通し、すべての試練を乗り超えたのなら、神様はすべてを知った上で、「よくやった。」そう言ってくださるのです。私共はその一言を求めて歩んでいるのでしょう。それはまるで、幼子が父や母の「よくやったね。」という一言を求める姿にも似ています。それは私共が神様を、イエス様を、幼子が父や母を愛しているように愛しているからです。私共は神様もイエス様も見たことがありません。しかし、愛しています。それは私共が霊において、神様とイエス様と出会ってしまったからです。人格的に出会い、その交わりの中に生きているからです。その交わりの場こそこの礼拝であり、祈りなのです。信仰が分からない人から見れば、祈りは独り言と区別が付かないでしょう。しかし、信仰者にとって、祈りにおいてイエス様は確かに共におられ、私共を愛してくださっています。この礼拝の現実・祈りの現実こそ、私共が既に救われていることの確かなしるしなのであります。父なる神様と主なるキリストの御前において、「よくやった。」そう告げられた時、私共は何と答えるのでしょうか。「ふつつかな僕です。為すべきことを為したに過ぎません。」そう答えるのでしょう。
 今朝私共が覚えている、先に天に召された愛する方々もまた、きっとそのように神様の御前に立たれたのだと思います。それは、この主の日の礼拝の度毎に先取りしていた、予行演習をしていたことだったからです。私共は日曜日の度毎にここに集い、礼拝をささげています。それは、このやがてやってくる神様とイエス様の前に立つ日に向けて、信仰を整えるためなのです。最後の日はまだ来ていません。しかし、やがて来る最後の日に備えて、「ふつつかな僕です。為すべきことをしたに過ぎません。」と言い切れる、そのような日々を歩むため、私共は主の日の度毎にここで礼拝を献げているのです。
 やがて与えられる天の資産を、既に約束されたものとして受け取り、その希望の中で歩む私共であります。今まなざしを高く上げ、神様が約束してくださった天の財産を受け継ぐ者として、先に天に召された方々と同じように神の力に守られて、喜んで天の御国を目指しつつ、この一週も歩んでまいりたいと願うのであります。

[2010年10月31日]

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