富山鹿島町教会

礼拝説教

「来て、見なさい」
申命記 32章36〜42節
ヨハネによる福音書 1章35〜51節 

小堀 康彦牧師

1.兄弟・友達に主イエスを伝える
 今朝与えられております御言葉において、五人の人が次々と主イエスの弟子となったことが記されております。この五人は、興味深いことに、お互いが全く知らない間柄ではなかったということです。兄弟・友人という形でつながっている。これがすべてではありませんけれど、このような人と人とのつながりの中で福音は伝えられていくのだということを教えられるのです。
 順に見ていきましょう。
 最初に主イエスの弟子となった二人は、洗礼者ヨハネの弟子でした。洗礼者ヨハネは、主イエスがまことの神の子であり、救い主であることを指し示すために遣わされた預言者でしたが、彼は主イエスが歩いているのを見て、「見よ、神の小羊だ。」と言いました。洗礼者ヨハネと一緒にいた二人の弟子はこれを聞くと、主イエスに従ったのです。この二人が主イエスの最初の弟子であったとヨハネによる福音書は記します。この記述は、他の三つの福音書の記述と少し違いますが、今日はそのことについては触れません。この二人の弟子ですが、一人はペトロの兄弟のアンデレでした。もう一人の名前が記されていません。しかし、多分この福音書を記したヨハネ自身であったと考えられています。このアンデレが、41節にありますように、自分の兄弟であるシモン・ペトロに「わたしたちはメシアに出会った。」と言って、シモン・ペトロを主イエスの所に連れて来るのです。そして、彼も主イエスの弟子となったのです。
 そして次の日、主イエスはフィリポを弟子にされました。このフィリポは、44節に「アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。」とわざわざ記されていますから、フィリポはアンデレとペトロの兄弟と以前から知り合いであったと考えて良いと思います。そして、フィリポが友人のナタナエルに出会って主イエスのことを話し、ナタナエルも主イエスの弟子となったのです。
 主イエスの弟子が、自分の兄弟・友人に主イエスを紹介し、主イエスの弟子が加えられていった。そう聖書は告げるのです。私共は今朝、このことをまず第一に心に納めたいと思うのです。自分の家族・友人に主イエスのことを伝える。それが今朝、私共に求められていることなのです。
 「家族伝道は難しい」とよく言われます。確かに難しい。しかし、主イエスを伝えることは私共に与えられた使命です。まず誰よりも、自分の家族が主イエスを信じ救われるようにと、私共は皆願い、求めているのでしょう。だったら、ためらうことはないのです。伝えられた人がそれを受け入れるかどうかは分かりません。それはその人の問題ですし、何よりも神様が働いてくださらなければどうにもなりません。しかし私共が、主が働いてくださることを信じて、祈って、主イエスを伝えていくならば、必ず主は事を起こしてくださる。このことを私共は信じて良いし、このことを信じて、祈って伝えていきたいと思うのです。

2.私共を受け入れてくださる主イエス
 さて、この五人に対しての主イエスの関わり方ですが、それは面白いほどに全く別々なのです。イエス様は、誰にでも同じように接し、語りかけられるのではないのです。その人に合った、別々の出会い方をし、語りかけてくださるのです。私共もそうです。キリスト者の家に生まれ育った人もいれば、年老いてから教会に集った人もいます。自分から求めて教会に来た人もいれば、人に誘われて来た人もいる。教会に来て、すぐに洗礼に導かれた人もいれば、五年、十年とかかった人もいる。皆が全部それぞれです。それぞれ違うのですが、それはその人にとって一番良い時に、一番良いあり方で主イエスが出会ってくださったということなのでしょう。
 最初の二人。彼らは洗礼者ヨハネの弟子でありました。彼らは、主イエスについての洗礼者ヨハネの証言を聞いて、主イエスに従った人でした。洗礼者ヨハネは、自分の弟子が主イエスの方に行くのを引き止めたりはしませんでした。それどころか、主イエスを証しして、彼らが主イエスに従うことを促したのです。預言者とはそういう存在なのですね。自分の弟子であることを求めるのではなくて、主イエスの弟子であることを求め願うのです。牧師はいつもこのことを心しておかねばなりません。自分の弟子を作るなどと思うことはとんでもないことです。キリスト教ではあり得ないことなのです。一人一人をしっかりと主イエスに繋がった、主イエスの弟子とする。それが牧師の務めです。
 この二人は、主イエスに問われます。「何を求めているのか。」イエス様の問いは実にストレートです。直球です。それに対してのこの二人の答えは、少しトンチンカンな感じがしいでしょうか。「ラビ、先生、どこに泊まっておられるのですか。」と言って、泊まっている所を聞くのです。こんなことを聞いてどうするのかと思います。実は、私は今日与えられました聖書の箇所が、長い間よく分からなかった。ピンと来なかったのです。主イエスと弟子とのやり取りがあまりにピントがずれていて、何を言っているのかさっぱり分からない。そういう印象を持っていたのです。
 しかし、自分が初めて教会に行った頃のことを思い出しますと、この二人の弟子と自分は、ほとんど同じではなかったかと思い至りました。私は18歳で初めて教会に行きましたが、それは何か本当のことがあるのではないか、そんな漠然とした思いで教会の門をくぐったのでした。今になって思えば、自分は何者か、自分はどう生きていけば良いのか、本当のこと・大切なこととは何なのか、そんな思いを抱いていたのだと思いますけれど、直接、ストレートに「あなたは教会に何を求めて来たのですか。」と問われたら、きっと口ごもって何も答えられなかったのではないかと思うのです。この二人の弟子の答え、「先生、どこにお泊まりですか。」というのは、私はあなたのことが知りたい、あなたと一緒にいたい、あなたと話したい、そういう思いが言葉になったものなのではないかと思うのです。
 そして、主イエスはこの二人の男の思いを受け止めてくださいました。「私がどこに泊まっていてもいいでしょ。」とか、「私がどこに泊まっているか、それがあなたに何の関係がある。」そんな風には言われなかったのです。主イエスは「来なさい。そうすれば分かる。」と言われて、自分の泊まっている所に案内し、同じ所にこの二人を泊めたのです。この夜、この二人の弟子と主イエスとの間でどのような会話が為されたのか分かりません。しかしこの二人は、自分たちが主イエスに受け入れられたことははっきりと分かったでしょう。そして、大いに喜び、感動し、いよいよ主イエスが救い主、メシアであることを確信したのだと思います。この「受け入れられる」ということは、本当に大きなことだったのです。ここに神の愛が現れています。神様は私共を愛し、受け入れて下さっていることを、まことの神の子、神の言である主イエスとしてお示しくださったのでしょう。
 そして、二人の内の一人アンデレは、兄弟のシモンに「わたしたちは救い主に出会った。」と言って、主イエスのもとに連れて行ったのです。主イエスは、シモンに対してはケファという名前を与えられました。ケファというのはアラム語で岩という意味で、これをギリシャ語に直すとペトロとなります。初代教会においては、シモン・ペトロはケファと呼ばれていたと思います。パウロなども、ケファと呼んでいます(コリントの信徒への手紙一1章12節、3章22節、9章5節等)。そして、名前を付けるというのは、アブラムがアブラハムに、サライがサラに、ヤコブがイスラエルに、神様によって名前を与えられたことを思い起こさせます。主イエスは、シモンに対しては名前を与えるというあり方で、自らが神であることを示されたのです。

3.来れば分かる
 次の日、主イエスはフィリポと出会います。フィリポに対しては、主イエスはストレートに「わたしに従いなさい。」と召されました。フィリポは、アンデレやペトロに主イエスのことを聞いたのかもしれません。いずれにせよ、フィリポに対しては、主イエスは明確に自分の弟子になるように招かれたのです。フィリポは、この主イエスの召しを受け入れます。そして、すぐに彼は友人のナタナエルに主イエスを証しするのです。その日の内にです。アンデレにしても、このフィリポにしても、主イエスの弟子になるやいなや、いきなり伝道します。主イエスについてもう少し分かってから、とか考えません。このように、主イエスの弟子になるということは、即、伝道者となるということであることを示されます。何も難しいことを言うのではないのです。主イエスが救い主であることを語れば良いのです。それを聞いた人がどう受け取るかはその人の問題であり、主イエス御自身が働いてくださいますから、私共はそこまで心配することはないのです。
 このフィリポに主イエスを証しされたナタナエルの対応は、こういうものでした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」これは、「出るはずがない」という反語です。どうしてナタナエルはそんなことを言ったのでしょうか。ある人は、これはナザレの村に対しての差別的な偏見であると言いますが、そういうことではないでしょう。ナタナエルは旧約聖書をよく読んでおり、本気で救い主を待ち望んでいた人だったのです。だから、聖書にはナザレから救い主が現れるなどとはどこにも書いてない、生まれるならベツレヘムだろう、そういう意味で「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」と言ったのです。
 注目すべきは、このナタナエルの否定・拒否の反応に対してのフィリポの対応です。これはよくよく心に留めておくべき言葉です。これほどまでにはっきりと、拒否、否定されたにもかかわらず、フィリポは「来て、見なさい。」と言うのです。来て、見なさい。来て、自分の目で見ればすぐ分かる。そう言って、結局ナタナエルを主イエスのもとに連れて来てしまうのです。
 先日、「ノアの会」で四月から金沢に転居される二人の方の送別会がありました。この「ノアの会」に来られている若いお母さんたちは、友達の友達、またその友達といった関係で来られている方ばかりです。みんな「あいあいの会」から来ていたお母さんたちです。初め「あいあいの会」に来るという時に、自分の良く知っている友達が誘うからというのでなかったら絶対に来なかった、という話が出ました。そこで、「どうして?」と聞くと、教会でやるからという理由でした。「教会に足を踏み入れたことは一度もない。どういうところかも分からない。それに、教会に来る人のイメージって真白っていう感じで、とても私が来るような所じゃないと思っていた。」と言うのです。それで「来てみたらどうでしたか?」と聞くと、「普通の人」との答えでした。「真っ白でしたか?」と聞くと、「まだら」という答えでした。普通という答えをもらって喜んでよいのかどうか分かりませんが、やっぱり来て、見なけりゃ分からないのだと思います。とりあえず「来て、見なさい。」そんな誘い方をしてみるのも必要なのだと思うのです。

4.知られている私
 さて、このナタナエルと主イエスとの会話ですが、これも長い間、私にとってピンと来ない聖書の箇所の一つでした。まず、主イエスがナタナエルのことを「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と言います。これは大変なほめ言葉でしょう。それに対して、ナタナエルはその主イエスの言葉を少しも否定せず、「どうしてわたしを知っているのですか。」と言うのです。私共が「あなたこそ、まことのキリスト者だ。」なんて言われたら、普通「イヤイヤ、そんなことはありません。」そう言うでしょう。けれど、ナタナエルは「どうしてわたしを知っておられるのですか。」と言うのですから、この主イエスの自分への評価を自分で認めているわけです。そして、主イエスが続けて「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た。」と言うと、ナタナエルは「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と主イエスに対して信仰告白をするのです。一体ここで何が起きたのか、私はさっぱり分かりませんでした。どうして「いちじくの木の下にいるのを見た」という言葉が、主イエスが神の子であることの「しるし」となるのか。この言葉のやり取りを、字面だけを追っても、ここで何が起きているのかは分かりません。少し想像する必要があります。
 私はこう思うのです。ナタナエルは、この主イエスの言葉によって、「自分はこの方に知られている。知り尽くされている。」そのことが分かったのではないか。いちじくの木の下でナタナエルは何をしていたのか。多分祈っていたのでしょう。何を祈っていたのかは分かりません。しかし、ナタナエルはこの主イエスの言葉から、この方は私の祈りを知っている、そう感じ取ったのだと思うのです。私共が祈ることは、自分と神様だけが知っていることです。誰もそこには入れない。自分の心の最も深い所にあることです。それを、この方は知っている。ナタナエルはそう感じ取ったのでしょう。だから、神の子、イスラエルの王という告白がナタナエルの口から出たのです。
 私共はイエス様によって知られています。すべてを知られています。人には言えない、自分自身でも見たくもない汚い所、それもイエス様は見ておられて、知っておられる。そして、その上で私共を愛し、受け入れ、我が子よ、我が僕よ、我が友よと呼んでくださっている。ありがたいことです。主イエスは私共を知っておられるだけではなくて、その上で愛してくださっているのです。

5.ここで天使は上り下りしている
 ナタナエルは、更に主イエスにこう言われました。50節「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」そして51節で「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」との約束を受けました。この51節の約束は、ナタナエルだけに与えられたものではありません。「あなたがたは」とありますように、こけは主イエスを信じるすべての者に与えられた約束です。
 この主イエスの言葉の背後にあるのは、創世記28章にあるヤコブが石を枕にして寝た時に見た夢でしょう。しかし、この約束は過去に向かってではなく、未来に向かって語られています。将来への約束です。「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りする」というのは何を指しているのか。天使は、神様の御心を伝えるために、神様の御業を行うために降りる。そして、神様に報告し、人々の祈りを届けるために上るのでしょう。それは、主イエスの体であるこの教会において天使が昇り降りすることを指しているのではないでしょうか。神の言葉を聞き、罪の赦しを受け、主イエスを心からほめたたえて祈る。まさにこの場に、天使は激しく昇り降りしているのであります。ここにこそ救いがあり、神様との出会いが起きるのです。
 私共はこの恵みを携えて、「来て、見なさい。」そのように愛する者に、友人に声をかける者として、ここから遣わされてまいりたく願うのです。

[2011年3月20日]

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