富山鹿島町教会

礼拝説教

「水がぶどう酒に」
イザヤ書 55章1〜5節
ヨハネによる福音書 2章1〜12節

小堀 康彦牧師

1.神様の御業としての結婚
 今、二組の方の結婚準備会を行っています。私共の教会で、神様の御前に結婚の式を挙げるためであります。しかし、結婚準備会で為される備えとは、結婚式のためだけの備えではありません。結婚してからの生活についての備えでもあります。その準備会で繰り返し確認されることは、結婚は神様の御業であるということです。神様が二人を選び、出会わせ、結ばれるということです。この神様の御心、御業に同意して、私共は結婚式を挙げるのです。お互いに好きだということだけでは、結婚は成立しないのです。神様が二人に結婚への決心を与えられ、導いてくださり、結婚の場にいてくださり、祝福してくださらなければ、結婚は成り立たない。私共はそう考えています。もちろん二人の気持ちは大切です。しかし、それだけではないのです。神様が二人を祝福してくださり、守ってくださり、導いてくださらなければ、全く違う環境で育った、欠けの多い私共が、長きにわたって結婚生活を保つことなど出来るはずがないのです。実は私も先日、24回目の結婚記念日を迎えました。特に大きな波風もなく24年間の結婚生活が続けられたのは、神様が共にいてくださり、祝福してくださり、背後で大いに働いてくださったからだと心から感謝しております。
 さて、今日与えられております御言葉は「カナの婚礼」と呼ばれる所です。キリスト教会で挙げられる結婚式の中で、こう祈られることが多いのです。「ガリラヤのカナで主が最初の奇跡を起こしてその栄光を現されたように、今この場に臨んでくださり、あなたの栄光を現してください。」この祈りの中で「カナの奇跡」と言われている出来事、それが今朝与えられている御言葉で告げられていることです。この「カナの奇跡」というのは、一度読めばすぐに分かりますように、ガリラヤのカナという村で結婚式が行われた。そこに主イエスもおられ、宴の途中でぶどう酒がなくなった時に、主イエスが水がめの水をぶどう酒に変えられたという奇跡です。
 私は、この時の結婚式の第一の幸いは、水がぶどう酒に変わったという奇跡にあるのではなく、主イエスがその場にいて祝福してくださっていたところにあるのだと思っています。この結婚式は、主イエスの祝福の中で挙げられたのです。この結婚の宴の中で、ぶどう酒が足りなくなるという事態が起きてしまうのですけれど、主イエスは水をぶどう酒に変えるという奇跡をもって守ってくださったということなのです。主イエスが共にいてくださり祝福してくださる結婚式また結婚生活、それは何と幸いなことでしょう。どんなアクシデントに見舞われても大丈夫なのです。このカナの婚礼の時のように、主イエスが必ず守ってくださるからです。私共は結婚ということを思う時、何よりもまずそのことを神様に祈らなければならないのでありましょう。それは何も、これから結婚する二人だけのことではないのです。もう随分長く結婚生活をしてきた方々も、そのことを改めて思い起こし、祈りを新しくしていただきたい。そう思うのです。

2.マリアの信頼
 このカナでの婚礼の席で起きた出来事を少していねいに見ていきましょう。この婚礼が誰のものだったのか、聖書は語りません。ただ、主イエスの母マリアと主イエス、それに主イエスの弟子たちがそこに招かれていたというのです。一つの伝説として、この時の花婿は使徒ヨハネであったというものがあります。主イエスの弟子たちまで招かれているところから生まれたものでしょう。しかし、聖書はそれについては語っていないのですから、詮索しても仕方がありませんし、意味もありません。
 問題は、この結婚の宴の最中にぶどう酒がなくなってしまったということです。当時の結婚の宴は三日から一週間も続いたといいます。その間、食事が出され、ぶどう酒が出され、音楽が鳴り、踊りが続くのです。それは夜まで続き、そして次の日の朝からまた始まるのです。親戚、友人、みんな招待されます。日本でも少し前までは、田舎の村で結婚式があれば、それはもう村全体の祭りのようなもので、村中の人が来て祝ったのだと思います。そこで、ぶどう酒がなくなってしまった。予定より多くの人が来たのか、たくさん飲む人がいたのか、それは分かりません。この家は裕福ではなくて、十分にぶどう酒を用意出来なかったのかも知れません。いずれにせよ、ぶどう酒がなくなってしまえば、宴は白けた形でお開きになってしまいます。
 その時、主イエスの母マリアが主イエスの所に来て言うのです。「ぶどう酒がなくなりました。」だから、どうしてくれとは言っていません。困った状況を告げただけです。多分、マリアは裏方で食事の用意などをするために来ていたのではないかと思います。それで、ぶどう酒がなくなったことにいち早く気付いたのでしょう。主イエスのこの時の答えは、実に素っ気ないものでした。4節「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」マリアに対して「母」とも言っていません。そして、「わたしの時」というのは、主イエスが救い主・メシアとしてその栄光を明らかに現される時のことであり、それはヨハネによる福音書においては十字架の時のことなのです。つまり、ここで主イエスは「ぶどう酒がなくなったからといって、どうしろと言うのですか。わたしに何の関係があるのですか。わたしが救い主としてその栄光を現すのは、まだずっと先のことではないですか。」そう言われたのだと思います。主イエスは、何とかしてくれるはずというマリアの期待を明確に断ったのです。ところが、この時マリアは、そんな主イエスの言うことなんてまるで聞いていないかのように、その場にいた召し使いたちに言うのです。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」マリアは、主イエスが何とかしてくれるということを少しも疑わないのです。私は、このマリアの主イエスに対しての絶対的な信頼、これこそこの後の奇跡へとつながっていく重大な引き金だったのだと思うのです。主イエスは、このマリアの、全てを自分に任せ、委ねきっている信頼を退けることはなさらなかったのです。
 私共も、このマリアほどに主イエスを信頼したいと思うのです。この信頼をもって祈りたいと思うのです。「祈ったところでどうなるかわからん。」とか、「祈らないよりは、祈った方が良いだろう。」というではなくて、「祈りは聞かれる。」その信頼をもって祈りたいと思うのです。そして、そこでこそ主イエスは働いてくださるのです。

3.主イエスが命じられたとおり
 さて、そこに清めに用いる石の水がめが六つありました。この水は、この結婚式に来た人たちが手を洗いあるいは足を洗う、そのために家の入り口に置いてあったものです。結婚式にたくさんの人が来るので、たくさんの水がめが用意されていたのでしょう。普通はこんなに用意されてはいません。それらは二ないし三メトレテス入るものであったとあります。一メトレテスは39リットルですから、この水がめは80〜120リットル入る、相当大きなものです。ポリタンク一つが大体20リットルですから、ポリタンクなら五つ分ということでしょうか。それが六つありますから、全部でポリタンク30個分。ものすごい量です。
 主イエスは召し使いたちに「水がめに水をいっぱい入れなさい。」と命じました。召し使いたちは、その水がめの縁まで水で満たしました。もうこれ以上入りませんという所まで、水を入れたのです。この時召し使いは「どうしてですか。」とか「何に使うのですか。」とか、「何の意味があるのですか。」とか、「必要なのはぶどう酒であって水ではないでしょう。」とか言わないのです。当時は水道はありません。蛇口をひねれば水が出て来るというのではないのです。井戸に行って水を汲んできて、全部でポリタンク30個分もの水が入る水がめをいっぱいにしたのです。大変な労力だったと思います。すると、その水がめの水がぶどう酒に変わったのです。もちろん、イエス様が変えられたわけです。イエス様は天地を造られた神様ですから、その力をもってすれば、水をぶどう酒に変えることなどは難しくも何ともありません。しかし、私共には出来るはずもありません。だから、この奇跡はイエス様が誰であるかの「しるし」となったのです。
 しかしこの時、もし召し使いたちが半分しか水を汲まなかったらどうなっていたでしょうか。ぶどう酒は半分しか得られなかったということではないでしょうか。これは大切なことを私共に教えています。主が命じられたことは、命じられたようにやってみることが大切だということです。主イエスが命じられたことをしないのならば、主イエスの恵みを十分に受けることは出来ないということです。
 具体的に考えてみましょう。「毎日、祈りなさい。」と言われているのに、三日に一度、一週間に一度しか祈らなければどうでしょうか。与えられる恵みは、まことに小さなものになってしまうでしょう。私共は、聖書が告げること、イエス様が命じられることは、その通り為していきたいと思うのです。

4.知らなければ、信じられない。
 次に主イエスは「それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい。」と言われました。言われたとおりに召し使いが運び、世話役がそれを飲むと、それは上等な良いぶどう酒でありました。世話役は驚いて、10節「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」と言いました。人が酔う前は良いぶどう酒を出して、酔っぱらったらどうせ味など分からないのだから安いぶどう酒を出す。それが当時の宴会の常識だったのでしょう。ところが、後から出て来たぶどう酒が、上等な良いぶどう酒だった。世話役はこのぶどう酒が「どこから来たのか」知りませんでした。この「どこから来たのか」というのは、二つの意味があります。一つは、「水がめの水から」という意味、単に場所を意味します。そしてもう一つ。これは、ヨハネによる福音書において「どこから来た」という言い方が意味しているのが何なのかということなのですが、それは「本当は何なのか」ということを意味しているのです。この場合、ぶどう酒は主イエスによって水が変えられたものなのですから、このぶどう酒は天から来たものであり、主イエスが誰であるかを示す「しるし」だったということなのです。
 弟子たちはこの奇跡を、主イエスが誰であるかの「しるし」として見て、主イエスを信じました。この時、多くの人がこのぶどう酒を飲んだでしょう。しかし、その人たちは世話役と同じように、そのぶどう酒がどこから来たのか知りませんでしたので、信じなかった。信じようがなかったのです。しかし、主イエスの弟子たちは、この出来事が奇跡であることを知っておりましたので、主イエスを信じることになったのです。人々はぶどう酒を飲んだ。しかし、それが何を意味しているかを知らず、主イエスを信じることにはならなかったのです。世話役だけではありません。その場にいた多くの人たちが、このぶどう酒を飲んだのです。主イエスの奇跡の恵みに与ったのです。しかし、それが何であるかを知らなかったので、主イエスを信じることにはならなかったのです。一方、主イエスの弟子たちは知っていたが故に、信じた。なるほどと思います。
 主イエスの御業、神様の御業はいつも私共を取り囲んでいますが、多くの人はそれを当たり前のこと、自然現象くらいにしか思わず、神様に感謝することもありません。しかし、私共はそうではないのです。私が今日生かされている。私がこの人と出会って結婚した。この子が与えられた。この両親のもとで育った。それらは、みんな神様の御手の中にあること。私はどこから来たのか。この子はどこから来たのか。この人との出会いはどこから来たのか。それらはみんな神様の御手から来たことを私共は知らされました。当たり前のことは一つもない。全ては当たり前じゃない。神様の御業の中で生かされている。私共はこのことを知ている。このことを知った時、私共は主イエスを信じ、主イエスに感謝し、主イエスをほめたたえる者となったのでしょう。

5.律法から恩寵へ
 最後に、主イエスがこの水がぶどう酒に変えられた意味を少し考えてみましょう。先程申しましたように、この水がめの水は食事の前に手を洗うためのものです。それは公衆衛生上の問題ではありません。律法の定めによる、けがれの問題なのです。ユダヤ人は「異邦人はけがれている」と考えておりましたので、異邦人が触れたものに触れれば自分もけがれてしまうと考えていました。ですから、異邦人たちと食事を共にすることはありませんでした。しかし、社会生活をしていれば、異邦人が触れたものを触れないようにするというのは不可能です。例えばお金です。お金はそれこそ誰が手にしたものであるか分かりません。当然、異邦人もそれを手にしたでしょう。その手で食事をすれば、中からけがれてしまうことになる。そうなっては大変なので、外から帰ってきたら手を洗う。そして食事の前には念入りに手を洗うことにしていたのです。
 ところが、この時主イエスは、その清めのための水をすべてぶどう酒に変えてしまいました。ですから、この後から来た人は、水で手を洗うことは出来なくなりました。主イエスはこの清めの水をすべてぶどう酒に変えてしまうことにより、もうこの清めの水を必要とするような信仰のあり方は終わりだ、そのことを示されたのではないかと思うのです。そして、その清めの水に代わったのがぶどう酒です。これは、聖餐のぶどう酒を意味していると考えて良いと思います。つまり主イエスは、このカナの婚礼の奇跡において、ユダヤ人だけが救われる、異邦人はけがれている、そういう信仰のあり方そのものの終わり、そして主イエス・キリストの十字架の血による贖い、罪の赦しにすべての人が与る、そういう神様の恩寵に生きる信仰の世界の始まりをここで示されたということなのではないかと思うのです。
 ポリタンク30個分のぶどう酒です。一升瓶にして約300本です。婚礼にどんなに人が多いといっても、こんなにたくさんのぶどう酒はいらなかったでしょう。このポリタンク30個分にもなるぶどう酒というのは、この恵みに与れる人がどんなに多いかということを示しています。その場にいた人たちだけで飲みきれないほどのぶどう酒。それは、まさにその場にいなかった人々にまで、この恵みは及んでいるのだということを示しているのでしょう。この主イエスの救いの恵みに与れない人は、一人もいないのです。すべての人が招かれているのです。私共もそうです。私共の友人、愛する者、すべてが招かれているのです。そして、すでに知らない内に、どこから来たのか分からないままに、主イエスの恵みのぶどう酒を飲んで日々を楽しんでいるのです。ありがたいことです。その背後には主イエスの十字架の御業があるのです。全ての人々の日常は、本人が知らないところで大いに働いてくださっている神様の御業のゆえに、保たれている日々なのです。私共はそれを知っています。ですから、この神様の恵みを恵みと受け取り、主をほめたたえてこの一週を歩んでまいりたいと心より願うのです。

[2011年3月27日]

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