富山鹿島町教会

礼拝説教

「もう泣かなくてよい」
イザヤ書 25章6〜10節
ヨハネによる福音書 20章11〜18節

小堀 康彦牧師

1.主イエスの墓に行ったマグダラのマリア
 先週、私共はイースター記念礼拝をささげ、主イエスの御復活を共々に喜び祝いました。主イエスの御復活は、単なる二千年前の不思議な出来事ではなくて、現在の私共を生かす、私のために起きた出来事であることを改めて心に刻みました。先週は、復活された主イエスがペトロや他の弟子たちにその御姿を現された出来事から御言葉を受けました。今朝は、復活された主イエスが最初にその御姿を現された場面、マグダラのマリアと出会われた箇所から御言葉を受けてまいりたいと思います。
 主イエスが復活された日の朝早く、まだ暗いうちにマグダラのマリアは主イエスの墓へ行きました。他の福音書は、この時マリアは香料を持って墓へ行ったと記しています。多分、主イエスの遺体に香料を塗るという、当時一般的に為されていた葬りの儀礼をしてあげたいと思ったのでしょう。ところが主イエスの墓に着いてみると、墓に蓋をするために置かれていたはずの大きな石が取り除けてあり、墓の穴の中に主イエスの遺体は無かったのです。この時マリアの頭に浮かんだのは、主イエスの遺体が誰かによって運び去られたということでした。主イエスが復活されたとは、少しも思っていません。当時は墓泥棒がよくありましたから、彼女はそれを連想したのではないかと思います。そこで彼女は、主イエスの弟子であるペトロたちのところに走っていって、そのことを報告しました。
 2節に「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」とあります。ここで「わたしたちには分かりません」と言っておりますことから、この時主イエスの墓へ行ったのはマグダラのマリア一人だけではないということが分かります。数人の婦人たちと一緒に彼女は主イエスの墓へ行ったのでしょう。それは、他の福音書が記しているのと同じです。

2.泣くしかないマグダラのマリア
 主イエスの遺体が無くなっているという知らせを受けたシモン・ペトロともう一人の弟子は主イエスの墓へと走りました。多分、マグダラのマリアも彼らの後を追うようにして、また主イエスの墓へ戻ったのだと思います。二人の弟子は主イエスの空の墓を見て家に帰ったのですが、マグダラのマリアは墓の前に立ち続け、泣いていました。彼女には泣くしか出来なかったのです。
 木曜日の夜に主イエスが捕らえられて以来、彼女は何度泣いたことでしょうか。主イエスがゲッセマネの園で捕らえられたと聞いた時、彼女は泣いたでしょう。主イエスに向かって、人々が「十字架につけよ。」と叫び、ピラトによって十字架につけられることが決まった時、彼女は泣いたでしょう。主イエスが十字架を背負ってゴルゴタに向かって歩まれた時、彼女は泣いたでしょう。主イエスが十字架につけられ、手と足に釘を打たれた時、彼女は泣いたでしょう。主イエスが十字架の上で息を引き取られた時、彼女は泣いたでしょう。主イエスの遺体が十字架から降ろされ、アリマタヤのヨセフの墓に納められた時、彼女は泣いたでしょう。そして安息日に入り、主イエスのいない土曜日、彼女は泣き続けていたことでしょう。そして日曜日の朝、主イエスの墓に来ると、そこに主イエスの遺体は無く、墓は空っぽでした。「わたしの主」「わたしのイエス様」が取り去られた。誰かがどこかへ運んでしまった。どうしてこんなひどいことをするのか。マリアは墓の前で泣くしかありませんでした。
 泣くしかない。愛する者の苦しみを前にして何も出来ずに見続けなければならない時、私共は泣くしかありません。そして愛する者を失った時、人はどうしようもなく泣くしかない。そういう時が私共にもある。しかし、もうどうしようもなく泣くしかないこの時に、どうしようもないと思っていた現実の向こうから、私共の思いを超えた神様の業が始まっている。そう聖書は告げるのです。泣くしかない現実の前に立ちつくす私共に、すべての顔から涙をぬぐう神様の救いの出来事がもう始まっている。そう聖書は告げるのです。それが主イエスの復活です。
 泣くしかないマリアに向かって、天使は言います。13節「婦人よ、なぜ泣いているのか。」これは、マリアに泣いている理由を尋ねているのではありません。泣いている理由は、愛する主イエスが死に、そのご遺体さえ無くなってしまったからであることは分かり切っているのです。天使がここでマリアに告げているのは、「どうして泣いているのですか。もう泣くことはないのですよ。泣かなくてよいのですよ。泣く理由なんてないのですから。」ということです。しかし、マリアには天使が告げることの意味が分かりません。ですからマリアは、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」と天使に言うのです。

3.復活の主イエスと出会う
 さて、ここで重大なことが記されています。14節です。「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」とあります。マリアは天使とのやり取りの後、後ろを振り向いたのです。するとそこに主イエスが立っておられたのですが、それが主イエスだとは分からなかったと言うのです。どうしてでしょうか。
 第一に、それ程までに主イエスの復活は弟子たちの思いを超えたものであったということでしょう。弟子たちは主イエスが復活されることを信じ、期待し、その思いが復活の主イエスの話を作ったというようなものではないということです。第二に、主イエスの御復活という出来事が、単なる肉体の蘇生というようなことではないということを示していると思います。マルコによる福音書16章12節には、「イエスが別の姿で御自身を現された。」とあります。「別の姿」です。確かに主イエスは十字架の上で死なれたその方として復活されました。その手と足には釘の跡がありました。しかし、その復活された体は、やがては朽ちていくこの肉体と全く同じではなかったということでしょう。別の姿だったから主イエスとは分からなかったということです。第三に、それ以上に大切なことがあります。それは、この主イエスの御復活の出来事は、主イエスとの人格的な交わりの中で受け取られるものだということです。
 マリアは確かに自分の後ろに主イエスが立っておられるのを見た。しかし、それが主イエスだと分からなかった。そして15節で主イエスが「婦人よ、なぜ泣いているのか。」と言っても、マリアは相変わらず、主イエスとは分からずに墓の番人だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」と言っているのです。ところが、主イエスが「マリア」と呼びかけると、彼女はこの人が主イエスであるとはっきり分かって、「ラボニ(先生)」と振り向きながら答えたのです。この「マリア」「ラボニ」というやり取りは、マリアがガリラヤからエルサレムまで主イエスに付き従ってきた日々の中で、何度も何度も繰り返されていたものでした。マリアは自分に語りかけられる「マリア」という声を聞いて、この方が復活の主イエスであることが分かったのです。それまでは分からなかったのに、です。どうしてか。私は、ここに主イエスの御復活の出来事の重大な秘密があると思います。
 主イエスの御復活の出来事は、物を上に投げたら下に落ちてくる、水は高い方から低い方へ流れるといった、誰の目から見ても明らかであり、もしその時代に写真機やビデオカメラがあったら写すことが出来るような、いわゆる客観的事実ということとは少し次元が違うことなのだと思うのです。もちろん、私は主イエスの御復活が実際に起きた歴史的事実ではないと言っているのではありません。主イエスは確かに御復活されたのです。しかし、その出来事は主イエスとの深い人格的な交わりの中でしか受け取れないものだと思うのです。復活された主イエスに出会った者は、根本的にその人生が変わってしまうのです。主イエスを信じ、主イエスと共に生きるしかない者に変えられるのです。このことこそ、主イエスの御復活の出来事の最も重大な点なのです。

4.主イエスとの交わりの復活
 これは、私共がこの主の日の礼拝のたびごとに経験していることと重なると思います。私は毎週ここで説教をしています。この説教から、自分自身に向けられた主イエスの言葉を聞き取り、この主イエスに従っていこうとする信仰が与えられるという出来事に与ります。しかしそれは、この説教を聞くすべての人に与えられることではないのです。同じ説教を聞きながら、「さっぱり分からん。」ということも起きるのです。聖餐にしても同じです。主イエスの体、主イエスの血潮として、ありがたくこれに与るという人もいれば、ただのパンとブドウ液にしか思えない人もいる。客観的に言えば、説教は小堀牧師が語っていることですし、聖餐はパンでありブドウ液なのです。しかし、これがキリストの言葉となり、キリストの体、キリストの血潮となる。これは聖霊の働きにより私共に信仰が与えられるから起きることなのですが、主イエスの御復活の出来事もそれと重なるのではないかと思います。
 復活の主イエスに出会うということは、一人ひとり違うのです。みんな同じように復活の主イエスと出会うのではないのです。聖書に記されている復活の主イエスと出会った人で、生前の主イエスとの交わりを持っていなかった人は一人もいません。このマリアのように、主イエスを愛していた人が復活の主イエスと出会っているのです。主イエスを知らない人、愛していない人は、復活の主イエスと出会うこともないし、出会っても気付かないし、意味もないのです。しかし、主イエスを愛する者にとって、主イエスの御復活は、主イエスがまことの神であり、救い主であり、死を打ち破られた方であり、自分たちに生きる力と希望とを与えてくださる方であることを明らかにするのです。そして、この方と共に生きていく明確な信仰と決断が与えられるのです。
 そして、主イエスの御復活は、主イエスの方からその御姿を現してくださる、お声をかけてくださる、そういうあり方で、主イエスの弟子たちに明らかに示されます。弟子たちが復活の主イエスを捜して、遂に出会ったということではないのです。ルカによる福音書に記されているエマオ途上の復活の主イエスとの出会いの場面も同じです。復活の主イエスが二人の弟子に近づき、声を掛け、聖書を説き明かしたのです。主イエスの御復活という出来事は、あったか無かったかといったように、主イエスとの交わりというものを抜きに語られても全く無意味ですし、喜びにも希望にも力にもなりません。復活の主イエスは、何も出来ない、どうしようもない、ただ泣くしかない、そのような私共に向かって、「なぜ泣いているのだ。もう泣かなくてもよい。あなたが泣いている理由、原因をわたしは既に取り去った。」そう告げてくださっているのです。

5.天より下り、天へと上る、主イエスの道
 さて、復活された主イエスとの出会いを与えられたマリアに対して、復活の主イエスはこう告げられました。17節「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」マリアは、「ラボニ」と言って復活の主イエスの足もとにひれ伏し、その足を抱いて拝んだのだと思います。主イエスは、そのようなマリアに「そうではないのだ。わたしは天の父なる神様のもとに上っていかなければならない。」と言われたのです。復活された主イエスは、いつまでもマグダラのマリアや弟子たちと復活された姿のままで共におられるわけにはいかない。天に上らなければならないと言われる。それは、復活された主イエスが天に上り、そして聖霊を注いでくださるためです。主イエスが天に上られるのは、再び聖霊として下られるためです。天から下り、おとめマリアから生まれ、十字架に架かり、死んで陰府に下り、復活され、天に上り、そしてそこから聖霊を注いでくださるという、主イエスの一連の救いの出来事の流れの中に復活はあるのであって、復活で終わりではないのです。マリアにしてみれば、十字架で死んだと思っていた主イエス、誰かに盗まれたと思っていた主イエスが、復活されて自分の目の前に現れてくださった。もう主イエスを離さない。もうこの方から離れない。そう思ったことでしょう。しかし、主イエスは「そうではない。」と告げるのです。
 13節を見ますと、マリアは主イエスに対し「わたしの主」という言い方をしています。ここにマリアの気持ちが表れていると思います。マリアは復活された主イエスにすがりつき、これが「わたしの主」、もう離さない、そんな思いだったでしょう。しかし、それはまさにイエス様を「わたしの主」にしてしまうことであり、わたしの思い、わたしの願い、わたしの理解の中に主イエスを捕らえてしまおうとすることなのです。それは主イエスを偶像にしてしまうことでもあります。主イエスはそのようなマリアの思いを退けられます。主イエスには主イエスの道がある。それは天の父なる神様が定められたものであり、天より下り、また天に上る道です。主イエスは、マリアたちとは復活の姿ではなく、聖霊として共にいることになるのです。すべての者といつでもどこででも共にいてくださるためです。御言葉をもって共にいてくださるためです。そのようにして与えられたのが、今、私共が守っている主の日の礼拝なのです。
 私共は、主イエスの姿は見えません。しかし、説教が与えられ、聖餐が与えられています。これによって、私共は主イエスの声を聞き、主イエスの肉と血潮に、命に与るのです。私共はここで、生ける主イエスとのいきいきとした交わりに生きることが出来るのです。そして、ここで主イエスとの交わりに与った者は、空の墓を見て涙する歩みから、振り返って、視点を変えて、生ける主イエス・キリストを仰ぐ歩みへと、その見るところを変えて歩み出すのです。どうしようもなく涙するしかない現実があることを、私共は知っています。しかし、その現実がすべてではないことを、その現実が既に主イエスによって担われていることを、私共は知らされたのです。主イエスは復活されました。その主イエスが今、私共に「これが我が体、これを食べよ。これが我が血潮、これを飲め。我が命に与れ。」と言って、ここに臨んでくださるのです。今、共々に主イエスの聖餐に与り、主イエスと共に、空虚な墓を突き抜けて、復活の光と希望の中を歩んでまいりましょう。「もう泣かなくてよい。」そう復活の主が告げておられるのですから。

[2011年5月1日]

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