富山鹿島町教会

礼拝説教

「御子を信じる者は永遠の命を得る」
ダニエル書 12章1〜3節
ヨハネによる福音書 5章19〜29節

小堀 康彦牧師

1.全てが分かるわけではないけれど
 ヨハネによる福音書を共々に読み進めております。このヨハネによる福音書の一つの特徴は、主イエスの説教とも言うべき、主イエス御自身が語られた長い言葉が収められているということです。今朝与えられております5章の19節以下のところも、5章の最後まで続く主イエスのお話の一部であり、主イエス御自身が、自分は誰であるのか、どのような者であるのかをお語りになった箇所です。決して分かりやすいところではありません。私も正直なところ、説教の備えをしながら、目がくらむと言いますか、あまりにも大切なこと、語るべきことがたくさんあって、どこから手を着ければ良いのか分からない、そんな思いを抱きました。神学的に展開されるべきテーマがたくさんありますし、それも難解な事柄が多いのです。多くの神学者、説教者たちが、「この主イエスの御言葉の前に立って、自分は言葉を失う。」あるいは、「自分の理解力の貧しさを思い知らされる。」と語ります。私も、ここで主イエスが語られていることのすべてが本当によく分かっているとは言えない、と正直に言わざるを得ません。
 しかし逆に、主イエスは誰も分からないほど難解なことをお語りになったのだろうか考えますと、そんなことはないだろうとも思うのです。主イエスの御言葉は、聞く者すべてに、一度聞くだけで福音の真理のすべてを分からせるというものではありません。私共が福音のすべてを分かり切ることが出来る力を持っていないのでありますから、当然のことです。しかしそうであるにも関わらず、福音の真理の筋道と言いますか、アウトライン、輪郭は、一度聞いただけでも分かる。そういう話し方をされていると思います。こういう感じかなというイメージはすぐに湧くのです。しかし、その細部になるとよく分からない。これは、私共人間の限界というものなのだろうと思います。私共は神様ではありませんので、神様のようにすべてを明確に知る、知り尽くすということが出来ない、許されていないということなのでしょう。

2.神様と等しい者
 ここで主イエスが一体何をお語りになろうとしたのか。それは、語られた文脈を見れば分かります。今朝与えられた御言葉の直前のところに、「イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」とあります。主イエスは、安息日にベトザタの池で38年間も病気で苦しんでいた人をいやされました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」との御言葉で、この人をいやされたのです。しかし、ユダヤ人たちは、安息日に人をいやすなどとんでもない、まして床を担いで歩かせるなどもっての外であると言って、主イエスに迫ったわけです。それに対して、主イエスは「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」とお答えになりました。確かに、神様は六日間で天と地を造られ、七日目に休まれました。それを覚えて安息日を守るのは良いことです。十戒の第四の戒にも示されているとおりです。しかし、神様は今も安息日に休まれているわけではないのです。安息日であっても太陽は昇るし、雨も降るのです。植物は芽を出し、実りを付けるのです。神様が働いてくださっている証拠です。だとすれば、神様のあわれみの心と一つになって病人をいやすことが、どうして律法違犯になるのか。神様のあわれみの中で、私共は安息日も生かされているのではないか。だからわたしも父なる神と同じように、安息日であっても働くのだ。そう主イエスは言われた。この言葉を聞いたユダヤ人たちは、主イエスが御自身を神と等しい者としている、とんでもないことだ、と言って反発したのです。そして、主イエスを迫害し、殺そうとし始めたというのです。このユダヤ人たちの、主イエスの言葉に対する受け取り方は正しいのです。主イエスは確かに、御自身を神と等しい者としてお語りになっているからです。主イエスは、今朝与えられている19節以下のところで、御自身が神と等しい者であるとはどういうことなのか、そのことをお語りになっているのです。
 ですから、ここでも主イエスが語られたことの第一の点は、主イエス御自身と父なる神がどれほど一つであるか、一致しているかということになるのです。これは、神学的に言えば、三位一体論ということになるでしょう。三位一体という言葉は聖書の中にはありませんけれど、中身としてはそういうことになります。この三位一体というのはキリスト教の根本教理でありますけれど、これを理解するというのはほとんど不可能に近い、と私は思っています。自らの無知、無能、理解力の貧しさ、言葉の限界を思い知らされるところです。これは神の神秘そのものだからです。しかし、主イエスはここで、御自身と父なる神様との一体性、一致という神の神秘へと私共を招きます。

3.はっきり言っておく
 19節「そこで、イエスは彼らに言われた。『はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。』」ここで主イエスは「はっきり言っておく。」と言って語り始められます。これは、昔の訳では「まことに、まことに、汝らに告ぐ。」でした。元のギリシャ語では「アーメン、アーメン、レゴー、ヒューミーン」です。「アーメン」というのは、本当に、いつわりなく、という意味です。私共が祈りの最後にアーメンと唱えるのは、いつわりなくそのとおりです、そう唱えて祈りを閉じるわけです。主イエスは、これから大切なことを語るという時に、この言葉をもって始められました。文語訳の「まことに、まことに、汝らに告ぐ。」の方が、新共同訳の「はっきり言っておく。」より、ニュアンスを捉えていると思います。口語訳では「よくよくあなた方に言っておく。」でした。この「はっきり言っておく」が、今朝与えられた御言葉の中に3回も繰り返されています。19節、24節、25節です。

4.主イエスと神様との一致
 これから言うことは大切なことだからよく聞きなさい。そう言って語られた最初のことが、「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」でした。「子は、自分からは何事もできない。」というのはなにか、主イエスが何も出来ない、無力な者という印象を与えますが、そうではないのです。主イエスがされることは御自分の業ではない、父なる神様がなさることなのだ。そう言っているのです。「自分からは何事もできない。」と言われてすぐに、「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」と言われています。つまり、父なる神様がなさることは何でもお出来なるのですから、主イエスは無力どころか、全能の父なる神様と同じことがお出来になる、何でもお出来になるということです。主イエスはここで、自分の意思、行為、行動が父なる神様と一つであると言われているのです。これは、まさに安息日に38年間も病気であった人をいやしたという業が、父なる神様の御心と一つであり、父なる神様の力をもって為されたことなのだと告げているのです。
 さらに続けて20節「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。」と言われます。父なる神様と主イエスとの間にある愛による一致を告げるのです。主イエスは父なる神様と一つに結ばれており、主イエスのなさることはすべて父なる神様によって示されたことであって、主イエスの内に、父なる神様はそのすべてを現してくださっていると言うのです。
 私共は、神様を見ることは出来ません。しかし、神様御自身が主イエス・キリストを送ってくださり、主イエスの中にその御心、愛、力、権威、命のすべてを示してくださったのです。ですから、私共は主イエスを見、主イエスに聞き、主イエスに従うことによって、神様を見、神様に聞き、神様に従うことが出来るのです。  しかし、これはユダヤ人には受け入れ難かったことでしょう。いや、ユダヤ人だけではありません。人間が死ぬとすぐに神様になってしまう日本のような多神教の宗教ならいざ知らず、天地を造られたただ一人の方である神様を多少なりとも知った者ならば、どうして天地さえも入れることが出来ないほどの大いなる方が、イエス・キリストという肉の体をもった一人の人間と一つになるのか。まことに不思議なことです。神の神秘です。この事柄の前に、私共は言葉を失います。まばゆい光を直視するように、目はくらみ、自らの知性の暗さ、小ささを思い知らされます。これは信ずべきことです。信じることによってのみ受け入れることが出来る神の神秘です。

5.主イエスによる裁き
 この天地を造られた神様と一つにされている主イエス・キリストは、神様の力、権能をも与えられています。それが裁きを行う権能です。20節b以下にそれが示されています。主イエスは、病人をいやすような奇跡を数々行われました。しかし、それより大きな業を示し、人々はそれを見て驚くというのです。その大きな業とは、主イエスが与えたいと思う者に命を与えるということです。この命とは、父なる神様が死者を復活させて与える命、すなわち永遠の命です。この永遠の命を誰に与えるか、それをお決めになる権能、それが裁きの権能なのです。
 では、主イエスは誰に永遠の命を与えるというのでしょうか。24節「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」とあります。ここでも「はっきり言っておく。」と告げられています。主イエスの言葉を聞いて父なる神様を信じる者、それが永遠の命を与えられる者なのです。「わたしの言葉を聞いて」です。ここで主イエスは、御自身が神様と一つであることをお語りになったのですから、この「わたしの言葉を聞いて」というのは、主イエスが神様と一つであるという御言葉を聞いて、それを受け入れて神様を信じる者ということです。逆に言えば、主イエスを神として受け入れない者は主イエスを敬わず、それは父なる神様を敬わないということであり、永遠の命を得ることは出来ず、裁かれるということなのです。
 この裁きを受けるのはいつでしょうか。永遠の命を受けるのはいつでしょうか。これも難解な問題です。一つは、死んだ後に主イエスが再び来たり給う時ということになります。28〜29節に「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」とあるのは、その時のことです。しかし、24〜25節を見るならば、24節の終わりに「死から命へと移っている。」、そして25節に「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」と現在形で言われているのです。この「死んだ者」とは、肉体的に死んだ者のことを指しているのでしょう。それが、終末の時に主イエスの声を聞くのです。このことについては、私はあまり説明の必要はないと思います。私が死んで、この地上での命を閉じて後、私は意識もなくなるでしょう。しかし、突然私の耳元で「小堀康彦、起きなさい。」という主イエスの御声が響くのです。その声と共に、私は復活する。そのことを私は単純に信じています。しかし、ここでは、それが「今やその時だ。」と言うのです。そして、その声、すなわち主イエスの声、38年間も病であった者に告げた、あの「起きよ。」という主イエスの声を聞いた者は生きる、永遠の命にすでに生きるというのです。逆に言えば、今生きている人もすでに死へ向かって生きているのであって、主イエスの言葉を聞かない者は、ただただ死へと向かう者、すでに死に定められた者、死んだ者だということなのでしょう。しかし、主イエスの言葉を聞く者、それを信じる者は、今すでに永遠の命を受けているのだ。そう主イエスは言われているのであります。

6.永遠の命に与る
 この永遠の命とは何でしょうか。今日の午後、七尾教会で巡回長老会が行われます。そこで私は講演をすることになっているのですが、その題は「キリストの命に与る者の群れ」です。そこで話すポイントの一つは、「キリスト者とはキリストと一つにされた者だ」ということです。このキリストと一つにされているということは信ずべきことです。信仰によってのみ受け入れることの出来る、神様の救いの事態です。このキリストと一つにされているというところに、永遠の命への手がかりがあると思います。主イエスを信じ、洗礼を受け、キリストにつながった者は、キリストの命に与るのです。キリストは神であられますから、永遠の命を持っておられます。26節「父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。」とあるとおりです。この命に与るのです。このキリストとつながる、キリストと一つにされるということ抜きに永遠の命を考えるならば、それは的外れになると思います。もしキリストの贖いの業による罪の赦しを受けない永遠の命を想定するならば、それは罪人である私共が死ぬことなくそのまま永遠に生きるということであって、それは救いでも何でもない。それは救いというよりも地獄ではないかと思います。その意味で、不老不死というのは、私共の信じる永遠の命とは全く別物であると言わなければならないでしょうし、それは救いとはならないのです。
 私共は主イエスの声を聞き、主イエスの言葉を信じ、主イエスというお方を神と信じて救われました。そこで一体何が起きたでしょうか。安心して神様に祈れるようになった。礼拝に集うことが嬉しくなった。喜んで何か人のためになることをしたいと思うようになった。明日に対しての不安以上に、神様の導きを信じて安んじられるようになった。いろいろあると思います。その一つ一つが、永遠の命に生きる者とされたということのしるしなのです。新しい命に生き始めているという証拠なのです。主イエスの声を聞かなかった頃の自分、自分のことしか考えることが出来ず、神様の御心など考えたこともなかった自分は、死んだ者だったのです。しかし、そのような私に向かって、主イエスは声をかけてくださいました。「起きよ。」「わたしに従いなさい。」「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」この御声を聞いて、この御声に従う者とされ、私共は新しくされたのです。25節「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」と主イエスは告げられます。今やその時なのです。死から命へと生きる者とされるのは、終末の時にだけ起きることなのではないのです。この礼拝のたび、主の御言葉が語られるたびに起きるのです。この礼拝の場において、私共が死んだ者から永遠の命へと移る。この救いの出来事が起きているのです。この礼拝の場こそ、今と永遠とを切り結ぶところなのです。
 私共は、今朝、「新しく生きよ。」「わたしを信じ、わたしに従って来なさい。」との主イエスの御声を聞きました。この声を聞いた者は生きるのです。キリストの命に生きるのです。永遠の命に生きるのです。私共はこの救いの恵みに与ったのです。この恵みの中に、この一週も歩んでまいりたいと心から願うのです。

[2011年7月24日]

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