富山鹿島町教会

礼拝説教

「誰からの誉れを求めるのか」
詩編 84編1〜13節
ヨハネによる福音書 5章41〜47節

小堀 康彦牧師

1.66回目の敗戦記念日を迎えて
 明日は66回目の敗戦記念日です。8月の第二日曜日は、日本基督教団では平和聖日と言って、先の大戦のことを覚え、主の平和を願い祈る主の日となっています。毎年この時期になりますと、テレビなどでヒロシマ・ナガサキを始め、戦争の悲惨さを思い起こす番組が組まれます。先日もNHKの番組でしたが、どうして日本は先の大戦へと突入していってしまったのかということが何日間かにわたって特集されておりました。私は全てを見ることが出来たわけではありませんでしたけれど、その中でとても印象に残ったのは、日米開戦に至る日本としての国家の意思決定をする責任を持った人たちは、誰も勝てると思っていなかったというものでした。その国家の意思を決定する会議に集まった人たちは、政治家であり、海軍や陸軍や官僚を代表する人たちでした。皆が驚くほど優秀な頭脳を持った人たちでした。しかし、誰もアメリカ相手に勝てるとは思っていないけれど、自分の口から、負けるからやめようとは言えなかった。そんなことを口にすれば腰抜けと言われ、自分が代表している組織をまとめることが出来ない。或いは、自分が属する組織を維持できない。勝てると思っていないけれども、負けるから止めましょうとも言えない。そういう中で、近衛内閣は総辞職をします。そして、東條内閣となり、日本は日米開戦へと突入していくことになりました。あの時代、既に中国では戦線が拡大しており、誰もこの戦争をやめようとは言えなかった。そう思っていても言えない。誰かが言ってくれることを待っている。しかし、誰も言えない。そういうことでした。どうしてなのだろう。そして、何百万人もの命が失われていくことになりました。遠い昔の遠い国の話ではありません。この日本の、わずか70年前の話です。その番組を見て、何とも言えない気分になりました。リーダーシップって何なのか、リーダーの責任とは何なのかと思いました。
 そして、ヨハネによる福音書12章42〜45節を思い起こしました。「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」議員でも主イエスを信じる人も少なくなかったのです。しかし、私は主イエスを信じると言えば、ユダヤ人社会から追放される。そのことを恐れて、主イエスが語り、為していることは真実であるとは言えなかった。誰も主イエスを信じるとは言わなかった。聖書はそれを、「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」と告げています。私は、この聖書の言葉に、日米開戦を決定した日本のリーダーたちに対しての聖書の評価があるように思えてなりません。人からの誉れを求める者は神様の御前に正しく生きることは出来ない、平和を造り出すことは出来ない。そう聖書は告げているのではないでしょうか。そして、あなたは何を求めるのか。人からの誉れか、神からの誉れか、そう私共に問うているのでしょう。

2.人にほめられたい私
 私共は、主イエス・キリストの救いに与り、主イエスと共に生きる者とされました。それは、私共の生きる目的、基準、行動原理と言うべきものが変わったということです。そしてそれは、人からの誉れを求めるのではなく、神からの誉れを求めて生きる者となったということなのです。
 しかし、「私は最早、人からの誉れなど少しも要らない者となった。」と言い切れるかと申しますと、事はそれ程簡単ではありません。私共は、人から良い評価を受けるということを少しも求めていないと言い切れるようにはなかなかなれないからです。それは、幼い頃から心に染みついた、心の習慣とでも言うべきものになっているからです。
 私共は幼い頃、母や父にほめられることを喜びました。少し大きくなると、学校の先生にほめられ、認められるのを喜びました。また、友人にほめられ、認められることを喜びました。そして、大人になってからは、会社や社会の中で良い評価を受けることを求めるようになりました。そして、世間体というものをいつも気にするようになりました。よほどの変人でもない限り、世間体を全く気にしないという人はいないでしょう。
 自分が一生懸命やっていることが、それが仕事であれ家のことであれ、周りの人から全く評価されなかったらどうでしょう。もっと評価されても良いのに、どうして人は自分のことをちゃんと見ないのかと不満になり、腹を立てるでしょう。人からの評価など少しも要らない、少しも気にしない。そうはなかなか言えないのが正直なところなのだと思います。逆に、人からの「良くやっておられますね。」などという何気ない一言で、うれしくなるのが私共の心の動きでしょう。先日、ある教会員の方を施設に訪ねましたら、そこの職員の方に「牧師さんというのは優しいんですね。」と言われました。「牧師は病院とか施設とか訪ねるのは普通ですよ。」と申しましたら、「そうですか。こういう所にはあまり誰も訪ねて来ないものですから。」と言われました。初めて会った人に、「優しいんですね。」と言われたら、悪い気はしない。それが正直な私共の心の動きです。それが悪いわけではないのです。問題は、人からの誉れと神様からの誉れが対立した時にどうするのかということなのです。

3.主イエスの栄光
 今朝与えられております御言葉において、主イエスは41節「わたしは、人からの誉れは受けない。」と告げられました。この「誉れ」という言葉は、「栄光」とも訳される言葉です。ここでは「人から」ですので「誉れ」と訳されておりますが、「神の」となれば「栄光」と訳される言葉です。主イエスの栄光、主イエスの誉れ、それは人から受けるものではないのです。それは神様から受けるものでした。ここで、「主イエスの栄光」というものを少し考えなければなりません。ヨハネによる福音書において主イエスが栄光を受ける時というのは、はっきりしています。それは十字架にお架かりになる時です。これは、おおよそ私共が通常考える栄光の姿とは正反対の姿です。主イエスは人々から賞賛され、尊敬を受け、十字架に架かられたのではありません。人々から罵られ、嘲られ、十字架に架かられたのです。しかし、それが主イエスが栄光を受けるときだったのです。主イエスがもし、人からの誉れ、人からの栄光を求めたのならば、主イエスは決して十字架にお架かりになることはなかったのです。そして、私共は誰一人として救われることはなかった。私共が本当の栄光を求めるならば、それはこの主イエスの十字架と結ばれるということであることを知らなければなりません。
 主イエスの十字架のように、人からの誉れと神様からの誉れとは、鋭く対立することがあるのです。もっと言えば、神様からの誉れから私共を引き離すために、人からの誉れ、この世の栄華を与えるということをサタンはするのです。あの荒れ野の誘惑を思い出しましょう。サタンは主イエスにこの世の栄華を見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」と言ったのです。それに対して主イエスは、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」とお答えになりました。この荒れ野の試みは、主イエスが伝道を始められる直前のことでした。主イエスはこの荒れ野の試みにおいて、御自身が十字架という神様が与えてくださる栄光に向かって歩むということをお決めになったのです。この十字架への道を避けて、自らの栄光がないことを覚悟されたのです。神様が私共に与えてくださる栄光は、神の子としての栄光である以上、この主イエス・キリストが与えられた栄光と一つにされること無しに与えられることはないのです。私共に与えられる栄光のしるしは罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命です。それは、この世の栄光ではないのです。

4.愛の勘違い
 さて、主イエスは自分を殺そうとするユダヤ人たちに対して、42節「あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。」と言われます。ユダヤ人たちは、自分たちこそアブラハムの子孫であり、モーセの律法をきちんと守り、自分たちこそ神様を愛していると思っていたに違いありません。しかし、主イエスは、あなたたちに神への愛はないと明言するのです。これは、主イエスが、当時のユダヤ人たちに対して、あなたたちは思い違い、勘違いをしていると言われたということでしょう。
 人は愛においてしばしば勘違いをするのです。私はこの人のことを一番良く知っている。この人はこう思っているはずだ。これがこの人には一番良いことなのだ。そう思って、その人のために尽くすのですが、それが実はその人のためを思ってではなくて、自分の思いをその人に投影しているだけということがあるのです。それは、親子においても起きますし、夫婦の間でも起きます。良い大学に入ることがこの子の幸せと考えて、せっせと塾通いをさせる。「あなたのためなのだから。」と言って、そうするわけです。これも勘違いでしょう。
 主イエスが、ユダヤ人たちに「あなたたちの内には神への愛がない」と言われたのは、神様の独り子である主イエス、神の御心を現した神の言葉である主イエスを受け入れなかったからです。そして、律法を守ると言っては、5章の始めにありましたように、ベトザタの池で38年も病気で苦しんでいた人を安息日にいやした主イエスを、律法違犯だ、とんでもないと言って糾弾する。あなたたちは、モーセの律法を守っている、神様を愛していると思っているけれど、あなたたちは神様を愛してもいないし、モーセの律法を正しく守っているのでもない。あなたたちは神様からの誉れを求めず、人からの誉れを求めているだけだ。そう主イエスは言われたのです。律法を守るということが、神様からの誉れを求めるのではなくて、いつの間にか人から「あの人は立派な人だ」「あの人は信仰深い人だ」と言われることを求める、そんな風に変質してしまっている。主イエスはそのことを指摘されたのです。
 46節で主イエスは「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。」と言われます。モーセが神様によって命じられて記したと考えられていた律法。これは、旧約聖書の最初の五つ、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五つですが、これを律法、あるいはモーセの名を冠して、モーセの律法と申します。これが旧約聖書の根本です。この律法を神の言葉と信じ、これを守ることが、何よりも神様を愛することであり、神様に従うことだとユダヤ人たちは考えていました。しかし、主イエスは、そのモーセの律法の理解の仕方は違う。ここに現れた神の愛を、あなたたちは少しも分かっていない。もし分かっていたのなら、安息日に38年も病気で苦しんでいた人をいやしたといって、文句を言ったりしないだろう。それどころか、ここに現れた神の愛を喜び、神様をほめたたえたはずだ。何故なら、モーセの律法に記されていることは、このわたしに現れた神様の愛を記しているのであり、神様の御心そのものであるわたしについて書いているからである。そう主イエスは言われたのです。

5.神様からの誉れを求める
 神様を愛するということは主イエスを愛すること、神様に従うということは主イエスに従うということです。そして、神様から栄光を受けるということは、主イエスの十字架への歩みについて行くということなのです。このことを、よくよく心に刻んでおきたいと思います。神様を愛し、神様に従って生きていく時、周りの人々から良い評価を受けることが出来るなら、それは幸いなことです。しかし、いつもそうなるとは限らないのです。一生懸命に神様のためにやったところで、余計なこと、しょうもないことをやっていると人から言われることだってあるのです。もしそういうことになったのなら、もうバカバカしいからやめるということになるのか、それともたとえそうなったとしても主の御心であると信じてやり続けるのかということです。ここに、キリスト者とは何者であるかということが明らかに示されるのです。
 一番分かりやすいのは、伝道です。どんなに伝道しても、世間が評価することは決してありません。「素晴らしい。良くやってくださった。」そんなことを言われることは、決してないのです。しかし、私共は伝道することを決して止めることはないのです。私共はただ神様からの誉れを求めているからです。
 キリスト者とは、ただ神様からの誉れを求める者であり、この地上の生涯において少しも報われることがなくても、神様を愛し、主イエスに従って生きるならば、やがて天にある、朽ちず、けがれず、しぼむことのない、永遠の命という栄光を受けることを知っている者なのです。私共は、自分の生涯が閉じられた後の「良くやった。」という神様からの一言だけを求めて、この地上の生涯を走り抜く者なのではないでしょうか。ここには新しい生があります。神様の召命によって新しい命に生きる者です。この神様の召命によって生きる者は、この日本という国においては異質な存在かもしれません。いや、日本においてだけではありません。それは、神様によって新しく創造された人間ですから、生まれたままの自然な人間からはどこまでも異質なのです。そして、この新しい命に生きる者によって、神の平和は造り出されていくのです。この地上における誉れ、人からの誉れを求める者に、平和を造り出すことは出来ません。必ずサタンが誘惑し、神に従うよりも人に従うように誘うからです。そして、この誘惑に勝てる者はいません。ただ主イエス・キリストだけが、これを退けることが出来るのです。
 42節の「神への愛」というのは意訳です。直訳すれば「神の愛」です。当時のユダヤ人たちは、神の愛がないから、主イエスを受け入れなかったのです。主イエスを受け入れるということは、私共の内に神の愛そのものである主イエスが宿るということです。この我が内に宿り給うキリストが、神に従うよりも人に従わせようとするサタンの誘惑から私共を守り、神の国へと、神の平和へと私共を導いてくださるのです。この我が内に宿り給う主イエス・キリストの守りと導きとに信頼して、本当に語らねばならないことを語り、本当に為さねばならないことを為していく者として、主の御前に歩んでまいりたいと心より願うのであります。

[2011年8月14日]

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