富山鹿島町教会

礼拝説教

「わたしの父は誰か」
創世記 12章1〜4節
ヨハネによる福音書 8章39〜59節

小堀 康彦牧師

1.アドベント第二の主の日を迎えて
 アドベント第二の主の日を迎えています。教会の玄関の飾り付けも、先週より新しいのが幾つか増えています。今週の金曜日には市民クリスマス、土曜日には刑務所のクリスマスが行われます。いよいよ、クリスマスの行事が始まっていきます。今年も喜びに満ちたクリスマスに向けて、一足一足歩んでまいりたいと願っております。

2.主イエスとユダヤ人との論争
 その様な中で今朝与えられております御言葉は、主イエスとユダヤ人たちとの長い論争の場面です。これだけでも大変長いと思いますけれど、これは実は今朝お読みした所の少し前の31節からずっと続いているのです。内容は、アブラハムの子とは誰なのかということを巡る論争です。分量も多いし、分かりにくい言い回しがたくさんあり、ここを一回読んですぐにここで告げられているいくつかの論点の全てが分からなくても、ここに記されているのが、言い争いと言っても良いような大変激しいものであることは、皆さんもお分かりになっただろうと思います。普通の会話の中ではまず使わないだろうと思われる激しい言い方がいくつも出て来るのです。しかし、もちろんここに記されているのは、主イエスとユダヤ人たちとの口喧嘩というようなことではありません。37節と40節で主イエスが「あなたたちはわたしを殺そうとしている。」と語り、今朝の最後の59節に「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。」とありますように、実際に主イエスの命が危うくなる、そういう緊迫した状況を引き起こす内容なのです。主イエスが実際にユダヤ人たちに石を投げつけられて命を落としそうになった議論が、ここに記されているのです。それは別の見方をすれば、主イエスが十字架に架けられることになった理由がここには記されていると言っても良いと思います。主イエスは私共の一切の罪を担い、すべての罪が赦されるために十字架にお架かりになってくださったのですけれど、そこに至るまでに、ユダヤ人たちがどうしても主イエスを殺さないわけにはいかなかった理由があるわけです。それがここに示されている、そう考えて良いだろうと思います。
 ここで、アブラハムについて少し確認しておきましょう。先程お読みしました創世記の12章に、アブラハムが神様に召し出されて旅立った場面が記されています。神様から召し出される、神様に選ばれる、そして神様と契約を結んで、神様との親しい交わりの中に入れられる、その最初の人がアブラハムです。アブラハムにはイサクが、イサクにはヤコブが子として与えられ、このヤコブの十二人の子供たちがイスラエルの十二部族となり、主イエスの時代のユダヤ人に繋がっているわけです。ですから、ユダヤ人たちは、アブラハムが神様と結んだ契約と神様から与えられた祝福とを受け継いでいるのが、自分たちなのだと考えていたのです。そして、ユダヤ人たちはアブラハムの子孫であることを自覚することによって、自分たちは神様から最初に選ばれた特別な民族である、神様に選ばれた民族だという誇りを持つことが出来たわけです。主イエスは、この所に切り込んでいったのです。
 少し長いですが、この論争のあらすじをなぞってみますと、こうなります。32節で、主イエスが「真理はあなたたちを自由にする。」と言われると、ユダヤ人たちは「わたしたちはアブラハムの子孫であって、すでに自由なのだ。」と言います。「今更自由にされる必要はない。」というわけです。すると、主イエスは「あなたたちがアブラハムの子孫だということは分かっている。しかし、アブラハムの子孫だというなら、アブラハムと同じ業をするはずだが、あなたたちはそうではない。わたしを殺そうとしている。」と言われます。自分たちがアブラハムの子孫であるという誇りを傷つけられそうになったユダヤ人たちは、「イエスよ、何を言うか。」ということで、「わたしたちの父は神様だ。」と応じるわけです。それに対して、主イエスは「あなたたちの父が神様だというのなら、わたしを愛するはずだ。なぜなら、わたしは神様のもとから来たのだから。しかし、あなたたちはわたしの言葉を聞かない。それは、あなたたちが悪魔の子だからだ。」と言われます。「悪魔の子」とまで言うのです。そんなことまで言われたユダヤ人たちは「そんなことを言うあなたこそ、悪霊に取りつかれている。」と言い返します。そして主イエスも、悪霊に取りつかれていると言われて黙っているわけにはいきません。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」と言われます。するとユダヤ人たちは、「イエスよ語るに落ちたな。」という感じで、「わたしの言葉を守る者は死ぬことがないと言ったな。しかし、アブラハムも預言者たちも死んだではないか。あなたは、アブラハムよりも偉大なのか。自分を何様だと思っているのか。あなたが悪霊に取りつかれていることが、これではっきりした。」と言ったわけです。それに対して、主イエスは「あなたがたが『我々の神』と言っているその方が、わたしの父だ。アブラハムも、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」と言われます。するとユダヤ人たちは、「何を言っているのか。アブラハムは二千年も前の人ではないか。あなたはアブラハムを見たのか。」バカも休み休み言えというわけです。そしてついに、主イエスは「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」と言われました。「わたしはある」という言葉は、8章21節以下の所を説教した時に申しましたように、神様が御自身を語られる時の言い方ですから、主イエスはここで、「わたしはアブラハムが生まれる前からおられる神と一つであり、神である。」と言われたということです。そして、この言葉を聞いたユダヤ人たちは「もう我慢できない」と思ったのでしょう、遂に彼らは主イエスを殺そうとして、主イエスに石を投げつけようとしたのです。

3.見える世界のことしか考えないユダヤ人
 ここで、主イエスとユダヤ人たちのやり取りが全くかみ合っていないことは、すぐに分かります。その理由は、ユダヤ人たちは見える世界のことしか見ようとしない、考えない、理解しないということにあるのです。しかし、この世界のことしか見ないのならば、主イエスの言われていることは決して分からないのです。例えば、アブラハムの子であるということも、血が繋がっているというところでしか見ないわけです。そして、それが彼らの誇りだったのです。しかし、主イエスは、それは違うと言っているのです。主イエスが「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」と言われた時もそうです。彼らは、死というものを、肉体の死という目に見えるところでしか理解出来ない。主イエスを信じる私共も、必ず肉体の死を迎えなければならない。しかし、主イエスが言われた「死ぬことがない」というのは、肉体の死を超えた永遠の命、復活の命のことを言われているのです。しかし、ユダヤ人たちにはそれが分からない。そして、主イエスが「アブラハムはわたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだ。」と言われると、彼らは「アブラハムに会ったことがあるのか。」と言います。主イエスはここで、「私はアブラハムと会った。」と言われているのではないのです。アブラハムは、神様の祝福の成就を、信仰をもって確信し、それを見て喜んだのです。そして、そのアブラハムが、信仰において仰ぎ望んでいた神様の祝福の成就、神様の救いが、わたしによってもたらされたと主イエスは言われたのです。そして、極めつけは、主イエスが「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」と言われた時、どうしてこの目の前にいる一人の男が天地を造られた神様と一つなのか、そんなことはあり得ない、神様への冒涜だ、とんでもないことだと、彼らは決してそれを受け入れることが出来なかったのです。そして、その心が、主イエスを十字架につけたのでありましょう。
 私共は、この所を読んで、主イエスが言われていることよりも、ユダヤ人たちが言っていることの方が分かりやすい、普通だと感じはしないでしょうか。ここでユダヤ人たちは、この目に見える世界のことだけを見て考え、主イエスに反論しておりますので、ここでのユダヤ人たちの反論は、別に信仰が無くても分かるのです。ユダヤ人たちが言っていることは、極めて常識的なことです。誰でも分かる、当たり前のことを語っている。一方、主イエスのお語りになっていることは、大変分かりづらいのです。それは、主イエスのお語りになったことはすべて、主イエスを神の子として信じるということが無ければ分かりようがないことばかりだからです。

4.主イエスが語ることは、信じるから分かる
 信仰とはそういうものなのでしょう。私は、ここでのユダヤ人たちの主イエスへの反論というものは、いつの時代にもキリストの教会がこの世の人々から受けてきた問いと同じものだと思います。主イエス・キリストが天地を造られた神と同質である、神の独り子であり神であられるということは、常識の範囲で理解しようとしても本当に分からない。しかし、これが分からなければ、主イエスがお語りになったことは分からない。逆に、これが分かれば、このことを信じることが出来、受け入れることが出来れば、すべてが分かる。そういうものなのでしょう。
 私が以前洗礼を授けた人の中にこういう人がいました。キリスト教の学校を中学・高校・大学と出て、聖書については良く知っている。しかし、肝心の主イエスが誰であるかということが分からない。だから、主イエスの語られたこと、教会が語ることに、いちいち反論する。聖書のこことここは矛盾している。聖書はこう言っているけれど、論理的に全く矛盾しているではないかというわけです。奥さんが教会員で、「今日、牧師の説教でこう聞いた。」と家に帰って話しますと、「それはおかしい…」と始まるわけです。ところが、どういう風の吹き回しか、もちろん神様の御業以外にないのですけれど、その人が主の日の教会の礼拝に出席するようになった。そして、洗礼という運びになりました。長老たちによる試問会で、「あなたは処女マリアより主イエスが生まれたということを信じますか。」と、この時ある長老が尋ねたのです。私は正直、ひやひやしていました。「そんな不合理なことは信じられない。」などと答えたらどうしよう。そんな風に思いながら、何と答えるのか待っていますと、その人が答えたのはこういうことでした。「イエス様は神様ですから、神様ならそのくらいのことは何でもないでしょう。」というものでした。あの合理的な理屈一辺倒だった人がこうなるのか。信仰が与えられるということはこういうことなのかと、感動したことを思い出すのです。
 主イエスの言葉が分かるということは、この主イエスを信じる、もっと言えば、愛するということがなければ分からない、そういうものなのだと思います。そしてそのことが、ここでもはっきり示されているのだと思います。私共が、このヨハネによる福音書が語る主イエスの言葉を聞いて分かる。たとえ全部じゃなくてもです。この全部じゃないというのが大切な所です。全部なんて、誰にも分からないのですから。しかし、一部であっても主イエスの言葉が判るということは、私共が主イエスを神の子として受け入れ、信じているからなのです。そして、このことこそ、私共が神に属する者、神の子、アブラハムの子孫とされていることの確かな「しるし」なのです。

5.神の子と悪魔の子
 さて、主イエスはここで「神の子」と「悪魔の子」という、過激と思えるような対比としておられます。こういう対比を私共は真似しない方が良いでしょう。
 ここで主イエスが告げられている「悪魔の子」の特徴は何か。それは、「自分の欲望を満たすことを第一とする」人のことです。自分の欲望を満たすために生きる者だということです。これは、私は食べることが好きだ、食欲を満たすことをとか、そういうレベルのことではありません。別の言い方をしますと、神様の栄光を求めるのではなくて、自分の栄光を求める者だということです。
 ユダヤ人たちは、自分たちはアブラハムの子孫であることを誇りとし、神様によって義とされるというよりも、自分たちが良い行いをして、それによって神様に向かって、自分は正しい者だと主張する、そういう信仰のあり方でした。それは、結局のところ、自分が偉くなりたい、偉い者と認めさせたい、そういう欲望の中で生きているということなのではないのかと、主イエスは言われたのです。
 一方、「神の子」の特徴は、主イエスが50節で「わたしは、自分の栄光は求めていない。」と告げ、54節で「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父」であると告げられているように、自分の栄光を求めず、自分で自分に栄光を与えることもせず、ただ神様が自分に与えてくださる栄光を求める者であるということです。神様の独り子であられる主イエスの栄光はどこに現れたか。それは十字架の上においてでした。十字架は極刑ですから、主イエスの十字架の出来事は、見えるところだけで見れば、まことに栄光とは正反対のところにある姿です。ですから、自らの栄光を求める者は決して、十字架にはつかないでしょう。しかし、主イエスは十字架にお架かりになり、神様の御心を果たされました。しかし、そのような歩みを認めない、求めない、そういう心が主イエスを十字架につけたということなです。
 アドベントの第二週を迎えるこの時、私共は、神の御子が馬小屋に生まれた、小さな幼子として生まれたということの意味を、しっかり受けとめなければなりません。ここには、十字架に繋がる、主イエス・キリストの謙遜というものがあります。私共は、ただ神様の栄光だけを求める者として新しくされたのです。神の子とされた、「アバ父よ」と神様に祈ることを許されたとは、そういうことです。

6.マーガレット・エリザベス・アームストロング宣教師
 昨日、アームストロング青葉幼稚園の開園百周年の記念式に出席してまいりました。私共の教会の方も何人も来ておられました。開会礼拝から始まる、とても素敵な会でした。私共の教会のT長老が、式の最後に理事として挨拶され、祈りをささげられました。
 この式典において改めて心に刻まれたことの一つは、マーガレット・エリザベス・アームストロングという一人の婦人宣教師を通して示された神様の愛でありました。そして、神様に従って生きるとはどういうことなのか、献身するとはどういうことなのか、それがどんなに美しく素晴らしいことなのかということでありました。自らの栄光を求めず、ただ神様の栄光が現れることだけを求め、ただ神様によって与えられる栄光だけを求める、その姿がどんなに美しいかということです。しかし、その歩みは、目に見えるところだけを見れば少しも美しくない、困難と嘆きの連続でありました。先の大戦が始まる1941年に亜武巣マーガレットとして彼女は日本に帰化されたのですが、当時は日本全体がキリスト教を敵性宗教と見なし、外国人を排斥する、そういう時代でした。彼女は、泥をかけられたり棒切れを投げつけられたりしても怪我をしないようにと、夏でもいつも長いグリーンのコートを着ていたと、青葉幼稚園の百周年記念に出版された『日本人になった婦人宣教師』という本に記されています。彼女は、この時、婦人宣教師として唯一日本への帰化を認められた人でした。しかし、当時日本への帰化を申請をしていたのは彼女だけではありませんでした。多くの婦人宣教師たち、そして婦人だけではありません、男性の宣教師たちの多くも帰化を申請したのです。しかし、そのほとんどは認められませんでした。私は、このことを思うだけで目頭が熱くなります。彼らは、これから始まる日本が本当に困窮し、苦しむ、そういう辛い時代を共に歩まなくて、どうして神様の愛を伝えることが出来るかと考えたのです。まことに、献身するとはどういうことなのか、神様の栄光だけを求めて生きるとはどういうことなのか、改めて自らの歩みを問われる思いがいたします。
 私共は悪魔の子ではありません。神の子とされています。このことは、私共の献身の歩みの中で証しされていくことなのではないでしょうか。主イエス・キリストの十字架の献身によって与えられた命の恵みに応える者として、この一週も歩んでまいりたいと心から願うものであります。  

[2011年12月4日]

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