富山鹿島町教会

礼拝説教

「一つの群れとなる」
エゼキエル書 37章21〜28節
ヨハネによる福音書 10章16〜30節

小堀 康彦牧師

1.囲いの外の主イエスの羊
 主イエスは御自身を「羊の門である」「良い羊飼いである」と告げ、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。」と告げられました。「この囲いに入っていないほかの羊」とは、ユダヤ人以外の羊、異邦人の羊ということであります。ユダヤ人以外の者が救われることはないというのが、当時のユダヤ教の常識でした。しかしイエス様は、異邦人の中にも「わたしの羊」がいるのだと告げ、異邦人もまたわたしの救いに与るのだと告げられたのです。
 異邦人に向かって積極的に伝道を展開したのは、使徒パウロです。このパウロたちの異邦人伝道に対して、生まれたばかりのキリストの教会の内には様々な意見がありました。すべてのキリスト者がパウロたちの異邦人伝道に賛成だったわけではないのです。これは使徒言行録やパウロの手紙を読めば分かりますが、割礼を受けなければ主イエス・キリストの救いに与ることは出来ないと考える人も大勢いたのです。一番最初のキリスト者たちは、十二使徒を初め、皆ユダヤ人でした。ですから、救われるのはユダヤ人だけというユダヤ教の常識から、なかなか抜け出すことが出来なかったのでしょう。しかし、キリストの教会は、ユダヤ人という囲いの外に、主イエス・キリストを宣べ伝えていきました。そのために使徒パウロが大きな働きをしたことは確かですけれど、パウロは何も自分の考えでそのようなことを始めたわけではないのです。復活の主イエス・キリストによって彼は召され、その主イエスの御命令によって異邦人伝道へと遣わされていったのです。そして、この復活の主イエスの御命令は、主イエスが十字架にお架かりになる前に、今朝与えられた主イエスの御言葉「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。」によって、既に明確に告げられていたことだったのです。しかし、主イエスの弟子たちはこの主イエスの言葉をきちんと受けとめることが出来ないでいたのです。ですから、使徒パウロが、ユダヤ人の常識というものによって曲げられそうになった神様の御心、主イエスの救いの御業というものを、まっすぐに直したということなのです。
 人間は間違うものなのです。自分の考え、常識というものからなかなか抜け出せないのです。しかし神様の御心は、この私共の常識などというものの中に納まりきることは出来ませんから、しばしば私共が御心を曲げて理解してしまうということが起きるものなのです。しかし神様は、その間違いをそのままにはされません。神様は人(この場合はパウロであり、バルナバでありますが)を起こし、必ず御心を成就していかれるのです。人間の思いだけでキリストの教会が形作られ、歩んで来たのではないし、歩んでいるのではないのです。そこには必ず、生ける神様の働き、御支配というものがあるのです。私共はこのことを大らかに信じて良いのです。御心によらなければ、私共がどんなに正しいと思い、そうなるようにと願っても、事は成らないのです。 

2.神様の永遠の選びの中で救われる
 さて、16節の「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。」という言葉ですが、直訳しますと、「わたしはこの囲いのほかの羊を持っている。」となります。「ほかの羊もいる」というのは、「ほかの羊をわたしは持っている」という言葉なのです。つまり、この囲いの外のほかの羊もイエス様が既に持っている、外にもイエス様のものである羊がいるということです。14節を見ますと、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」とありますから、イエス様は、私共を含めてこの時まだ誰も見ることの出来なかった、主イエスの救いに与る者たちのことを既に御存知であり、それらの者たちは「わたしの羊」なのだ、わたしのものなのだ、わたしの支配の中にあるのだと宣言さたのです。
 これは、このイエス様の宣言は、神様の永遠の選びの中で、私共が救いに与ることとなった次第を明示しています。何故なら、主イエスがこれを語られたとき、異邦人の弟子は一人もいなかったのです。にも関わらず、主イエスは「この囲いの外の御自分の羊」を知っていると告げられた。これは、主イエスの羊となり、主イエスの救いに与る者は、その人がこの地上での命が与えられる前から、主イエスが御存知であるということです。主イエスは父なる神様の独り子であられますから、天地が造られる前から父なる神様と一つです。ですから、イエス様は父なる神様と永遠に共にある者として、父なる神様が選ばれたこの救いに与る者を、すべて御存知だったということです。
 私共は、自分で選び、自分で決断し、自分で信じてキリスト者になったと思っているところがあるかもしれませんが、そうではないのです。イエス様はこの時既に、囲いの外にいる私共のことを御存知であり、しかも私共を御自分の羊として見ておられたのです。私共が主イエスを知る前から、イエス様は私共を御存知であり、私共を御自身の羊として導いてくださっていたのです。良いですか皆さん。私共は、イエス様が「わたしの羊」として見て、導いてくださっているから、今朝ここに集って来ているのです。それ以外に、私共がここに集っている理由はないのです。今、私共がここにいるということは、私共が主イエスの羊である、イエス様がそのように私共を見てくださり、導いてくださっているということの確かな「しるし」なのです。私共はそのことをしっかり受けとめなければなりません。イエス様は、「その羊をも導かなければならない。」と告げられました。私共は、この主イエスの導きの中で生かされ、ここに集っているのです。たまたま、偶然、この教会に集っているのではないのです。主イエスの導きの中で、今ここにいるのです。

3.主イエスの羊は、主イエスの声を求め、本当の居場所を求める
 イエス様は、「その羊もわたしの声を聞き分ける。」と言われました。27節でも「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」と告げられました。主イエスの羊は、主イエスの声を聞き分け、この声こそ私が従うべき声だと分かり、これに従うのです。主イエスの声を、自分を導くまことの羊飼いの声として聞く、聞くことが出来るということは、私共が主イエスの羊だからなのです。主イエスが私共を御自身の羊として見てくださり、御自身の羊として守り、支え、導いてくださっているからなのです。私共がここに毎週集まって来るのは、主イエスの声を聞くためです。私共を導き、永遠の命、神の国へと導いてくださる主イエスの声を聞くためです。主イエスの羊は、主イエスの声がこの世界にいろいろある思想や生き方、考え方の一つではないことを知っています。主イエスの羊は、主イエスの声だけが自分を導く声であることを知っているのです。主イエスの羊でない者にはそれが分かりません。いろいろある考え方の一つでしかないのです。
 先日、ある教会員の方と話をしておりましたら、「自分はしっかりした居場所を求めて教会に来た。」と言われました。その方は、ちゃん家もあり、家庭もあり、外から見れば何か不自由なところがあるような方ではありませんでした。しかしその方は、何か自分がフワフワしていて、ここにいれば良いのだというしっかりした所がなかったというのです。教会の礼拝に始めて集われた時には、もう既に高齢になっておられた方です。私はこの方が話されることをとても良く分かるような気がしました。主イエスの羊は、主イエスの御声に出会うまで、自分の本当の居場所を見つけることが出来ない者なのではないかと思うのです。それは、家庭の問題とか人間関係とかで説明出来ないものだと思います。居場所という言い方をすると、私共は、すぐに心理学的な説明をもって何か分かった様な気になってしまうところがありますけれど、そうじゃないと思います。もっと人間の存在の根本に関わることです。私共は、自分が何者であるかを知らない。もちろん、母であったり、父であったり、会社員であったり、夫であったり、妻であったり、いろいろな役割としての自分であることは分かっているし、その役割を皆果たしているわけです。しかし、そのような社会的役割だけで、自分が何者であるかがすべて分かるのではないのです。主イエスの羊は、本当の導き手である主イエスと出会うまで、自分が何者なのか分からないし、自分はここにいるべき者なのだという本来の居場所がないのです。この方は、自分のしっかりした居場所を求めて、たまたまこの教会に来たと言われましたけれど、私は決してたまたまではないと思います。主イエスが自分の羊を求めて導いてくださったということなのだと思うのです。
 私共は、自分でも説明のつかない「内的な促し」というものによって行動することがあります。この本人さえもなぜだか分からない「内的促し」というものによって人生が大きく変わるということがあるのです。私が初めて教会に集った時もそうでした。「教会に行きたい。」「教会に行かなければならない。」そんな思いが内から湧き上がって来ていたのです。心理学的には、私がそれまで読んだ本の影響という合理的な説明を試みます。しかし、私は主イエスの導きであったとはっきり思うのです。もちろん、主イエスの導きは「内的促し」というものによってだけではありません。そうするより他になかったという形で導かれることもあるでしょう。「確かな居場所を求めて」というこの方の言い方に、私は、主イエスの羊が自分の本当の羊飼いを求めて歩む姿を見たように思いました。

4.まだ見ぬ主イエスの羊を求めて
 この富山の地にも、私共がまだ見たことのない「主イエスの羊」がたくさんいるのです。私共が伝道するということは、この主イエスの羊を見つけることなのであって、私共が説得したり、信じるように仕向けたりというようなことではないのです。主イエスの羊は、主イエスの声を聞き分けるのです。私共は、一人でも多くの人に主イエスの声を伝えていく、それだけなのです。主イエスの羊は、その声をちゃんと聞き分ける。そういうものなのです。この主イエスの羊は、神様の永遠の選びの中で、天地が造られる初めから主イエスの羊なのであって、その羊の群れは、神様の御計画の中で始めから終わりまで一つの群れなのです。
 ここで私は、天地が造られた時から終末に至るまで、一人も欠けることなく主イエスの羊の群れとされている、おびただしい聖徒たちの群れを思うのです。それは、数えることが出来ないほど多くの聖徒たちの群れです。今まで生きていた人だけではありません。まだ生まれて来ていない人々もいます。それらすべての主イエスの羊の群れが、見えざる教会、ただ一つのキリストの体なる教会、聖なる公同の教会なのです。この見えざる教会には、もちろん私共のこの富山鹿島町教会も含まれておりますが、主イエスの声を聞くために主の日の礼拝を守っているすべてのキリストの教会が含まれているのです。私共は、教会というと、目に見える私共のこの教会しか考えないところがありますけれど、それははなはだ狭い了見であると言わざるを得ないでしょう。主イエスの羊の群れとしての教会は、もっともっと広く大きく豊かなのです。そして、その一つなる主イエスの羊の群れとしての教会の姿は、主イエスが再び来られる時に明らかにされるのです。見えざる教会が、その時、誰の目にも明らかな一つの群れとして立ち現れるのです。

5.御自分の命を自ら捨てられた主イエス
 主イエスは、この羊の群れのただ独りのまことの良き羊飼いとして、この一匹一匹の羊のために御自身の命を十字架の上で捨て、そして三日目に復活なさいました。歴史家たちは、当時のユダヤ教の人々によって主イエスが十字架につけられたと言います。出来事としてはその通りです。しかし、主イエスは殺されたくなかったのに殺されたということではないのです。17〜18節「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」とありますように、主イエスは御自身で御自分の命を捨て、十字架にお架かりになったのです。ここにあるのは、何も出来ず、ただ為されるままに十字架に架けられていく、弱々しい主イエスの姿などではありません。主イエスは堂々と、自ら十字架への道を歩まれたのです。これはとても大切な所です。主イエスはその時代の権力者によって、その力に負けて、為すすべもなく十字架につけられたのではないのです。もしそうであるならば、どうしてそのような力も権威もない主イエスを信頼し、自分を必ず導いてくださる方として信じることが出来るでしょうか。主イエスは、神の子、天地を造られたただ独りの神様の御子なのであり、その権威と力をもって十字架に架けられたのです。天地をひっくり返そうと思えば、そうすることがお出来になった。しかし、主イエスはそうはされなかった。何故でしょうか。18節の最後に「これは、わたしが父から受けた掟である。」とありますように、そうすることが父なる神様の御心だったからです。
 十字架の上で自らの命を捨てること、そして復活すること、そのことによって異邦人を含めた主イエスの羊のすべてに救いをもたらすこと、それが父なる神様の御心だったからです。主イエスは父なる神様と一つであられますから、父なる神様の御心に従って十字架にお架かりになったということなのです。
 28節を見てみましょう。主イエスは「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」と告げておられます。主イエスが自ら十字架の上で命を捨てられたのは、主イエスの羊が永遠の命を与えられるためだったのです。そして、主イエスの羊は主イエスのものであり、父なる神様のものであります。不安も嘆きも罪も死もサタンも、主イエスの羊を自分のものにすることは出来ないのです。私共は、この主イエスの確かな守りの中で永遠の命に向かっての歩みを、地上で一日一日歩んでいる者なのです。どんなに強い力が私共の上に襲いかかって来ようとも、ただ独りのまことの良き羊飼いである主イエスが、その全能の力をもって、守り、支え、導いてくださるのです。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」私共を主イエスの手から、父なる神様の手から奪うことは誰にも出来はしないのです。そして、見えざる教会、主イエス・キリストの体なる聖なる公同の教会に連なる者は、誰一人欠けることなく、永遠の命に与ることになるのです。これが、主イエスの十字架と復活によって私共に示され、与えられた約束です。この約束の中、この一週も主イエスの御声を聞き、促しを受け、為すべき務めに励んでまいりたいと心より願うのであります。

[2012年1月22日]

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