富山鹿島町教会

礼拝説教

「為された業によって分かる」
詩編 19編2〜17節
ヨハネによる福音書 10章22〜42節

小堀 康彦牧師

1.信じる者と信じない者が生じる
 主イエスが、自ら神の子であり救い主であられることを示す何かを語り、何かを為されますと、必ずこれを信じる者と信じない者とが生じます。どうしてそうなるのか、私共には分かりません。しかし、ヨハネによる福音書は、繰り返しこのことを記しております。今朝与えられております御言葉においても、31節で「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。」とありますが、42節では「多くの人がイエスを信じた。」とあります。また、今朝与えられております御言葉の直前の所、主イエスが「わたしは良い羊飼いである。」と話された後、19〜21節に「この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人は言った。『彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。』ほかの者たちは言った。『悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。』」とあります。また、9章には、主イエスによって生まれつき目の見えなかった人が見えるようにされる出来事が語られておりますが、ここでも、いやされた人は主イエスを信じ、ファリサイ派の人々は信じなかったということが記されておりました。8章では、30節で「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」とあります。しかし、この信じた人々に主イエスが「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」と語りますと、59節「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。」となりました。さらにその前の7章においても、40〜44節「この言葉を聞いて、群衆の中には、『この人は、本当にあの預言者だ』と言う者や、『この人はメシアだ』と言う者がいたが、このように言う者もいた。『メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。』こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。」とあります。主イエスが神の子、救い主であることを明らかにする業を行い、そのことをお語りになりますと、そこには必ずそれを信じる者と信じない者が生じました。そして、信じない人々は、ただ信じないというだけではなくて、主イエスを殺そうとしたのです。ヨハネによる福音書は繰り返し繰り返しこのことを告げるのです。

2.救い主であるが故に殺された
 主イエスの十字架への道は、このようにして動かし難いものに定まっていったと、ヨハネによる福音書は記しているのです。実に、主イエスはキリストであるが故に、メシア・救い主であるが故に、それを信じ受け入れない者は主イエスを殺す、主イエスを十字架につけることへと至ったのです。主イエスが十字架の上で殺された理由は、主イエスの思想や生き方の問題などではないのです。主イエスというお方は誰か。この一点をめぐっての人々の対応だったのです。主イエスが、「互いに愛し合いなさい。」「自分がして欲しいことを人にもしなさい。」と言っているだけの、ただの愛の説教者に過ぎなかったのならば、主イエスは決して十字架に架けられることはなかったのです。主イエスは神の子、救い主であられたが故に、十字架に架けられたのです。どうして神の子が十字架に架けられなければならないのかと思うかもしれません。しかしそうではなくて、聖書は、まさに主イエスが神の子であるが故に十字架に架けられたのだと告げているのです。
 こう言っても良いでしょう。主イエスというお方が神の子、救い主でないとするならば、私共は主イエスというお方を、歴史上たくさんいる偉い人の一人として受け入れることが出来るし、私共自身は根本的な所で何一つ変わることなく、主イエスの語られたことを良い話の一つとして聞くことが出来ます。しかし、主イエスが神の子であり、まことの救い主であるとするならば、私共はこの方を受け入れることにおいて、根本的に変わらなければならない。何を大切にし、何のために生き、何を喜びとし、どのように生きるのか、その根本から変わらなければならない。それまでの自分を捨てなければならないのです。しかし、それは大変なことですし、つらいことです。自らの罪を認め、神様に赦しを求めなければならない。けれども人は、そんなことはしたくないし、そんなことをするくらいなら主イエスというお方を亡き者にする、あるいは主イエスを悪霊に取りつかれた者として抹殺するということなのでしょう。主イエスの十字架は、決して神様の御前にひれ伏そうとしない私共の罪が、もっとも顕わに現れた所なのです。しかし、その十字架こそが、私共の一切の罪の赦しの場となったのです。まことに「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。」(ローマの信徒への手紙11章33節)であります。
 なぜ主イエスを信じる者と信じない者が生じるのか、私共には分かりません。主イエスを信じる人は素直な人で、良い人で、謙遜な人だから。そんな図々しいことを言える人はいないでしょう。しかし、そのように信じる人と信じない人がいることは事実なのです。私共にはその理由が分からない。それは、その理由が私共の中には、私共の側にはないからです。ヨハネによる福音書はその理由を、主イエスの羊であるか、主イエスの羊でないかということだと告げています。神様が私共を主イエスの羊として選んでくださった。だから、羊が飼い主である羊飼いの声に聞き従うように、私共は主イエスの声を聞き分けて、主イエスを神の子、救い主と信じ受け入れるのだと言うのです。つまり、理由は神様が選んでくださったからです。では、どうして神様は私共を選んでくださったのか。それは、私共を選んだ神様に聞いてみなければ分かりません。私共には分からない。ただ私共は、この神様の御心にかなう歩みを為してまいりたいと願うばかりなのであります。 

3.神殿奉献記念祭にて
 さて、今朝与えられております御言葉は、エルサレム神殿において為された主イエスとユダヤ人たちとのやり取りです。22節を見ますと、「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。」とあります。わざわざこのように記されているということは、ここで主イエスがお語りになったこと、ここでの主イエスとユダヤ人とのやり取りを理解する上でこの祭りの時であったということが必要なこと、大切なことだからでありましょう。これは、単にそれが行われた時を示すために記されているのではないと思います。それ以上の意味がある。
 この神殿奉献記念祭というのは、ハヌカと呼ばれる、12月25日に行われる祭りでした。この祭りは、過越祭や仮庵祭のように出エジプトの出来事に起源を持つものではありません。それよりずっと後の、主イエスのこの時代より200年ほど前の出来事を記念して守られていた祭りです。その頃、ユダヤを支配していたのはセレウコス朝シリアでした。この国はアレキサンダー大王の東方遠征によって巨大な帝国が生まれましたが、アレキサンダー大王の死後、すぐに部下たちによって三つに分割されました。その一つがセレウコス朝シリアです。時にこのシリアの王様、アンティオコス・エピファネスが、ユダヤ人たちにギリシャの宗教を強要し、エルサレムの神殿にギリシャの神々の像を置いてユダヤ人たちに拝ませ、割礼を禁じたのです。これに対して、ユダヤ人たちは抵抗し、多くの人の命が失われました。そして何年かの戦いの後、紀元前164年12月25日に、エルサレム神殿にあったギリシャの神々の像を取り除き、再び主なる神様を礼拝出来るようになり、それを記念するために守られたのがこの祭りだったのです。この戦いを指導したのがユダ・マカベアという人です。この時代のことを記しているのが、私共はそれを聖典にはしておりませんけれど、カトリックなどでは旧約の続編として認めているマカベア書です。ですから、この祭りの時、ユダヤ人たちは200年前にマカベアによって自分たちの信仰を守った出来事を覚え、民族的・宗教的高揚を覚えたのです。

4.メシア・救い主とは?
 そのような祭りの時に、ユダヤ人たちが主イエスを神殿で取り囲んで、24節「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」と問うたのです。ここには、ローマ帝国の支配の中で、救い主・メシアを待ち望むユダヤ人たちの願い、希望が表明されていると見て良いでしょう。安息日を破るような主イエスを救い主として認めたくはない。しかし、メシアであるならどんなに良いか。マカベアが大国シリアを破ったように、イエスがローマ軍を打ち破ってくれるのではないか。そのような相反する思いの中で、しかし期待を込めて、こう尋ねたのでありましょう。
 しかし、主イエスの答えは、「その通り。わたしがメシアである。」ではありませんでした。そうではなくて、「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。」でした。「わたしは言っているではないか。わたしはメシアとしての業を行っているではないか。それなのにあなたたちは信じない。」そう言われるのです。どうして、主イエスは「その通り。わたしがメシアである。」とお答えにならなかったのでしょうか。それは、この神殿奉献記念祭という時に、もし主イエスが「わたしがメシアである。」と答えたならば、人々は主イエスを200年前に強大なシリアを破ったマカベアのように、軍隊を率いてローマ軍を破り、ユダヤ民族の解放のために働く指導者と見なし、そのような人として祭り上げたでしょう。それでは困るのです。主イエスは、人々が思い描くそのような救い主・メシアではなかったからです。
 人々は、救い主と言えばこういう方だと勝手にイメージして、その中にまことの救い主であられる主イエスを当てはめようとします。まことの救い主によって、自分の中の救い主のイメージを変えようとはしない。しかし、それでは困るのです。何より、主イエスはユダヤ民族の救い主といった小さな存在ではないのです。主イエスは、天地を造られたただ独りの神様の御子です。ですから、主イエス・キリストというお方は、ユダヤ人だけを救うお方ではなく、ローマ人をも含めすべての民をその救いに与らせるお方なのです。先週見ましたように、16節で主イエスが「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」と語られたのはそういう意味です。異邦人の救いをも語られたのです。しかし、ユダヤ人たちにそのような救い主のイメージはありませんでした。救われるのはユダヤ人たちだけだと、固く信じていたからです。ですから、そのイメージを持ったままの人々に、「そうだ。わたしが救い主だ。」とは言えなかったのです。言葉としての「救い主・メシア」は同じでも、その姿は全く違ったものだったからです。だから、言葉の上だけで、「そうだ。わたしが救い主だ。」などとは決して言えなかったのです。

5.言葉と中身
 これは、いつの時代、どの国においても起きることです。私共は、この日本において、21世紀という時代において、主イエスの福音を宣べ伝えております。そこにおいて起きていることも、同じです。例えば、神様と言っても、私共が言う場合と、この日本においてその言葉を受け取る人々との間には、大きな違いがあるでしょう。日本で神様と言えば八百万の神であって、唯一の神などというものは知らないからです。それは「信じる」という言葉にしてもそうですし、「愛」という言葉についてもそうですし、「救い」「命」「自由」「平和」等々、ことごとく違うわけです。言葉はその言葉の持つ歴史や文化と深く結びついていますから、当たり前のことです。ですから、私共は聖書の説き明かしというものを、どうしても必要とするのです。聖書を黙読して、それでみんな分かったでしょう。おしまい。そういうわけにはいかないのです。そんなことをすれば、聖書をみんなが勝手に自分のイメージで読み込むことになります。そして、聖書が語ろうとしていることではないことを聖書の中に読み込んでいく、自分のイメージの中に聖書を取り込んでいくということが必ず起きるでしょう。そこでは、唯一の神様が拝まれ、主イエスが神の子として拝まれるということさえ、怪しくなっていくと思います。私共は、この主の日の礼拝のたびごとに、主イエスが与えてくださった救いの出来事、救いの恵みに共に与ることによって、聖書と同じ言葉を理解し、聖書の言葉を語り合い、同じ言葉で祈り合う共同体を形作っているのです。教会とは、まさにこの礼拝における共同体験を通して、共通言語を持つ群れのことなのです。聖書は、この言語を持つ民と共にあるのであって、教会抜きに聖書だけがあっても、それを正しく読み、受け止めることは出来ないのだと思います。まさに、主イエスの声を聞き分ける民によって、聖書は読まれ、聞かれ、受け取られ、神の言葉であり続けてきたのです。

6.主イエスと神様は一つ
 30節で、主イエスは「わたしは父とは一つである。」と告げられました。これは実に明確な、そして大胆な、主イエス御自身が誰かということを示している言葉です。ユダヤ人たちは、この主イエスの言葉をある程度正しく聞いたのだと思います。だから、これを聞いて31節で「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。」ということになったのでしょう。ユダヤ人たちにとって、人間が神となるなどということは決して赦されない、第一の神様への冒涜でした。石で打ち殺さなければならない罪だったのです。人間が神となることはない。それは全く正しいことです。人間を神に祭り上げることほど神様を冒涜するものはありません。野球の神様、サッカーの神様、笑いの神様等々、神様がそこら中にいる日本人の感覚ではピンと来ないかもしれませんが、ユダヤ人は、先程のマカベア戦争において、偶像礼拝から自らを守るために命を落としたのです。このユダヤ人の主張は全く正しいのです。しかし、ここに一つの盲点がありました。それは、天地を造られた神がその全能の力をもって、私共の思いを超えた愛の故に、人間になるという道でした。人が神様となるのではありません。神様が人となられるのです。これは全能の神様の御業においては不可能なことではありません。ただ、人々の想像力をはるかに超えた出来事でした。主イエス・キリストは天地を造られた神の独り子、父なる神様と共に天地を造られ、父なる神様と永遠に一つであり、永遠に生き給う神の御子が、人となられたのです。何か優れた人間を、あの人は神だと言って祭り上げたのではないのです。

7.言葉を生み出す出来事
 主イエスは、「救い主、神の子」という言葉だけでこのことが正しく伝わることがないことを御存知でした。ですから、「救い主、神の子」という言葉を生み出す、その言葉のもととなっている出来事そのものに目を向けさせ、御自身が何者であるかを伝えようとした。それが37〜38節で主イエスがお語りになったことなのです。「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」この主イエスの言葉は、わたしのことは神の子と信じなくてもいいけれど、行った業は神様の業だと信ぜよ、と言っているように聞こえるかもしれません。しかし、そうではないと思います。これは、「わたしのことはあなたがたが考えているような救い主、神の子と信じなくても良い。なぜなら、わたしはあなたがたが考えているような救い主、神の子ではないからだ。しかし、わたしが行ったこと、ベトザタの池での病人のいやしであり、五千人の給食であり、生まれつき目の見えなかった人のいやしであるが、それらを見ればわたしが何者か分かるだろう。そして、それを行うことが出来たわたしを『神の子、救い主』と言うなら、あなたがたが考え、また期待している『神の子、救い主』のイメージは根本的に変えられなければならないし、あなたがたの救いの理解も、生き方も、すべて変えられていくことになる。」そう言われたのだと思います。
 ユダヤ人たちはこれを受け止めず、主イエスを捕らえようとしました。しかし、主イエスはその手を逃れて、エルサレムを去って行かれました。まだ十字架の時が来ていなかったからです。人が主イエスをどうしようとしても、神様の時が来ていなければ、たとえ神様の御心であったとしても成らないのです。
 主イエスは「わたしを信じなくても、その業を信じなさい。」と言われました。ここで、主イエスが「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」(マタイによる福音書7章17節)と言われたことを思い起こすことが出来るでしょう。その人が何者か、どういう人なのか、それはその人の為していることを見れば分かるのです。主イエスは、この御言葉を御自身にも当てはめられたのです。人々から生まれつき罪の中にあったと切り捨てられていた生まれつき目の見えなかった人をいやし、38年間も病の中で苦しんでいた人をいやされた主イエス。そして、自分を十字架に架けた人々の罪さえも担って、代わりに十字架の裁きを身に受けられた主イエス。ここに、まことの神と一つであられた神の独り子の姿があります。これがまことの救い主の姿なのです。
 そして、この神様の愛を受け、私共は神の子として召されました。私共が神の子とされていることもまた、私共が結ぶ実によって明らかにされるのです。私共は主イエスの羊でありますが、主イエスの羊は主イエスの御声を聞き分けるのです。そして、ただ聞くだけではなくて、その主イエスの御声に従うのです。ここに私共の実が結ばれていきます。私共はただ名前だけのキリスト者であることは出来ないのです。キリスト者としての実を結ぶことが求められているのです。私共が何者なのか、それは私共が結ぶ実によって明らかにされるからです。
 聖霊なる神様が、私共のこの一週の歩みを導いてくださり、それぞれ遣わされた場において主イエスの羊としての実を結んでいくように、共に祈りを合わせたいと願います。

[2012年1月29日]

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