富山鹿島町教会

礼拝説教

「身代わりの死」
イザヤ書 53章1〜12節
ヨハネによる福音書 11章45〜53節

小堀 康彦牧師

1.ヨハネによる福音書の後半へ
 先週の水曜日からレント、受難節に入りました。今日は受難節の第一の主の日となります。受難節は、イースターまでの主の日を除く40日間と定められております。私共はこの期間、特別なことはいたしませんが、昔は結婚式を挙げないとか、肉を食べないとか、いろいろありました。目的ははっきりしています。主イエスの御受難を覚えるということです。この期間は楽しいことを控えるということで、その前に目一杯楽しもうとカーニバルなどが行われるわけです。私共は受難節に入る前にカーニバルを行ったりもしませんけれど、主イエスの御受難を覚えて日々を歩むということは同じです。そのような受難節の最初の主の日にこの聖書の箇所が与えられましたのは、意図したことではありませんけれど、まことにふさわしいと思います。と言いますのは、今朝与えられました所から、ヨハネによる福音書においては、主イエスの十字架への歩みがはっきりするのです。今までも主イエスに石を投げようとしたり、捕らえようとしたり、殺そうとする場面はありましたが、それは実行されませんでしたし、何としてもそうするのだというほどでもありませんでした。しかし、今朝与えられております聖書の箇所の最後、53節に「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」とあります。実にこの日、主イエスを殺すことが決められ、実行されることとなったのです。その後の55節に「さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。」とあります。この過越祭の時に主イエスは十字架に架けられるのです。そして12章12節からは、主イエスがエルサレムに入城されることが記され、受難週の出来事が記されていくことになります。ですから、今朝の箇所より後はすべて、主イエスの十字架への歩みと御復活の出来事が記されることになるのです。ヨハネによる福音書は全部で21章ありますが、そのちょうど真ん中にあるのがこの11章です。分量からいっても、内容からいっても、この11章がヨハネによる福音書の前半と後半とを分ける所になっているのです。
 ヨハネによる福音書には、主イエスの御復活を除いて7つの奇跡が記されているのですが、その7つの奇跡の最後にして最大の奇跡がラザロの復活という出来事でした。そして、このラザロの復活という出来事が、主イエスの十字架への道を決定付けた、そうヨハネによる福音書は記しているのです。

2.信じる者と信じない者
 順に見てまいりましょう。45〜46節「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。」とあります。ラザロが死んで、姉妹であるマルタとマリアを慰めるために多くの人々が来ていたわけですが、その人々の目の前で主イエスはラザロを復活させるという奇跡を行って見せたのです。ラザロは死んでもう四日もたっていた。身体も腐り始めて臭っている。そのラザロに向かって、主イエスが「ラザロ、出て来なさい。」と大声で叫ばれると、ラザロが墓から出て来ました。もちろん、腐り始めた身体で出て来たのではありません。元気でピンピンした身体になって出て来た。この出来事を見た多くの人が主イエスを信じたのです。死人を復活させたのですから、主イエスを信じない方がおかしいほどです。確かに多くの人が信じました。しかし、この出来事によってすべての人が信じるようになったわけではないのです。今までも、主イエスが自ら神の子であることを語り、またその力を示された時には、必ず信じる者と信じない者が生じましたが、この時もそうでした。どんなにすごいことが起きても、信じる者と信じない者が生じるのです。すべての者が信じるという風にはならない。これは、どこまで行ってもそうなのでしょう。主イエス御自身が御復活されるということが起きても、それでも信じる者と信じない者がいたのです。きっと、主イエスが全能の御力をもって生きている者と死んだ者とを裁くために来られたとしても、それでも信じない者はいるのだろうと思います。この時、信じない人の中に、ご丁寧にエルサレムに行って、ファリサイ派の人々に、主イエスが起こされたこのラザロの復活の出来事を知らせた人がいたのです。多分、そのような人がいなくても、このラザロの復活という出来事はすぐにエルサレムにいる人々、ファリサイ派の人々や祭司といった人々の耳にも届いただろうと思います。人の口に戸を立てることは出来ません。ラザロの復活を見た人々は、その日のうちにいろんな人に話したはずです。あっという間にエルサレムにも伝わったでしょう。

3.主イエスへの人々の期待
 では、どういう形でこの出来事が伝わったか。ラザロという死んで四日もたった人が、イエスという人によって復活させられた、というような事実だけを伝えるという形ではなかったと思います。そこには、伝える人の考え、理解というものが加わった形で伝えられたに違いないと思うのです。その伝える人の理解が何であったかと言えば、それは「イエスという人はメシア、キリスト、救い主に違いない。ついに預言は成就した。救い主が来られた。」そういうメッセージ付きで、ラザロの復活の出来事は伝えられたのではないかと思います。もちろん、それを聞いた人々がすべて、「そうか、ついに救い主が来られたか。」と信じたわけではありません。「本当か。」と言う人もいたでしょう。「お前、聞いたか。どう思う。」そう言う人もいたでしょう。「嘘じゃないの。」と言う人もいたでしょう。しかし、多くの人が、この話を聞いて主イエスに期待した。本気で信じたわけではない人も含めて、多くの人々が主イエスに期待した。そういう状況になったことは間違いないと思います。主イエスは一躍、時の人になった。
 問題は、この人々の主イエスに対しての期待でした。この期待は、主イエスを救い主として祭り上げることになります。それは、ユダヤ人の期待によって造り上げられた救い主に主イエスを祭り上げるということです。主イエスという救い主が来たのだから、この方によってローマ軍を破り、ユダヤ人が独立する。更には、ユダヤ人が全世界の上に君臨する。そのような期待でありました。この状況を写し出しているのが、47〜48節の言葉です。「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。』」 最高法院と訳されている言葉は、口語訳では議会と訳されておりました。元は、サンヘドリンという言葉で、ローマによってユダヤの自治を認められていた会議体のことです。これは、ファリサイ派・律法学者・民の長老・祭司といった人々から成る70人で構成される会議体で、召集長は大祭司でした。これが召集された。彼らがこの事態をどれほど重く受け止めていたことが分かります。ラザロの復活という出来事が人々の間に広まる。そうすると、人々の期待が主イエスに集まり、ついには反ローマののろしが上がるのではないか。そんなことになったらどうなるか。ローマの支配は、その民族の文化や宗教に対しては大変寛大でした。しかし、反乱に対しては武力をもって徹底的に叩く、それがローマのやり方でした。彼らはそれを良く知っていましたから、だから恐れたのです。ローマを恐れたのです。ユダヤの自治を任されていた彼らは皆、宗教的指導者たちでもありました。しかし、彼らがここで恐れたのは、神様ではなく、ローマでした。国民を守り、神殿を守るためにはどうしたら良いのか。そしてそれは当然、自分たちの持っている特権、今の生活を守るためにはどうしたら良いのかということでもありました。

4.大祭司カイアファの考え?神様のお考え?
 ここで、召集長である大祭司が発言します。49〜50節「彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。』」要するに、イエス一人を殺せば済むことではないか、ということです。この会議に集まっていた人々はローマを恐れ、どうしようかと悩んでおりましたけれど、皆が最初から主イエスを殺そうと考えていたわけではないのです。ただ、この大祭司カイアファの言葉に、皆が納得してしまったのです。そして、この日、主イエスを殺すということが決まってしまったのです。後はタイミングとやり方を決めるだけです。この大祭司の発言はとても分かりやすいです。イエスという男さえ殺してしまえば、人々の期待も消え、ローマへの反乱も起きず、ローマに滅ぼされることもない。イエスという男さえ殺せば、ユダヤは安泰。すべて丸く収まる。こうして、主イエスの十字架への道が決められていった。実に分かりやすい。
 ところが聖書は、事はそんなに簡単ではないと告げるのです。51〜52節「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」この大祭司カイアファの発言は、自分の考えから話したのではないと言うのです。では、誰の考えか。神様の考えだったと言うのです。多分、カイアファがこれを聞けば、「何を言うか、あれは私が考えて、私が言ったのだ。」と言うと思います。確かに、大祭司カイアファは自分の考えを言ったのです。しかし、100%自分の考えだと思って言ったことが、神様の預言として神様に用いられてしまう。カイアファ自身が考えていたこととは全く違う意味で、神様が預言として用いた。そう聖書は告げているのです。聖書が告げる神様の御支配とは、そういうものなのです。私共は別に、神様からのお告げを受けて、この仕事をしたり、この人と結婚したりしたわけではないでしょう。自分で決めたのです。しかし、神様は、私共が100%自由な決断をした事柄の中で、御自身の御計画を実現していかれるのです。この時のカイアファの発言もそうでした。
 大祭司カイアファは、自分では全く意識していないし、そんなつもりで言っているのではないのですけれど、主イエスの死、主イエスの十字架の死というものが、身代わりの死である、この方が一人死ぬことによって民が滅びないで済む、民が生きることになる、この福音の真理、主イエスの死の意味をここでカイアファは告げたのです。カイアファはそんなつもりではないのです。自分の民、自分の神殿、自分の立場を守ろうとしただけです。神様のことなんか、ちっとも考えていなかったかもしれません。こんなことを言えば、カイアファは大祭司でありますから、「お前に何が分かるか。私はこの神殿を、このユダヤの民を守らなければならない。この重圧がお前に分かるものか。」そう言い返されるかもしれません。彼は、神に従おうとして、生けるまことの神を殺すことにしてしまったとも言えるかもしれません。

5.もう自分を守らなくてよい
 私はここに、人間の知恵の浅さ、愚かさがはっきりと示されているのではないかと思います。しかし、誰もカイアファを笑うことは出来ません。私共の中にもカイアファがいるからです。自分の立場、自分の属する組織、自分の家族など、自分が守らなければならないものを私共はいろいろ持っている。そして、それを守るために、私共はしばしば戦うのです。相手をやっつけようとするのです。こいつさえやっつければ、すべて丸く収まる。そのためには手段を選ばない。そういう時、私共は恐ろしいほどに知恵が働くのです。悪知恵というものです。自分を守るために相手を攻撃する。これは、ほとんど本能のようなものでしょう。誰にだってある心の動きです。しかし、だからいいじゃないか、仕方がないじゃないか、ではないのです。
 聖書は、カイアファを少しも正当化していないのです。彼は、自分の民、自分の神殿、そして自分を守るために主イエスを殺すことにしました。聖書は、「それが当然のことだ。」と言ってはいないのです。そのような愚かな罪に満ちた発言、決定さえも、神様は用いてしまわれた。その神様の知恵、神様の御支配に目を向けよ。そう告げているのです。この主イエスを殺すことにした大祭司カイアファの身代わりとしても、カイアファのためにも、主イエスは死なれたのです。
 幼児教育の中でとても大切だと考えられていることの中に、基本的信頼というものがあります。これは、二、三歳までの幼い時に育まれると考えられているものです。どういうことかと言いますと、自分以外の人に対して基本的に信頼して相対していくのか、逆に信頼出来ないとして相対していくのか、その基本的な心の態度が幼児期の初めに形成されていくと考えられているのです。もちろん、基本的信頼が十分に育まれた方が、対人関係がうまく行くに決まっています。しかし、これは幼児期に育まれるのですから、本人にはどうしようもありません。私共は、自分の生まれ育つ環境を選ぶことは出来ないのですから。私は、この基本的信頼というものが、大人になってもその人の性格などに強く影響を与えることは認めます。けれども、それは決して決定的なものではない思います。程度の問題だと言って良いでしょう。絶対的に誰に対しても信頼する人はおりませんし、逆に誰に対してもいつも牙をむいている人もおりません。みんな程度の差で、信頼したり、信頼しなかったりしているのでしょう。しかし、私共に与えられている福音は、程度問題なんかではありません。決定的に、徹底的に、絶対的に、私共の自覚的生き方を変えるのです。この自覚的な歩みこそが、信仰の歩みです。
 カイアファは、自分の民、自分の神殿、自分の立場、自分自身を守るために主イエスを殺すことにしました。しかし福音に生きる者は、最早このような生き方をしなくて良いということなのです。自分で自分を守るために悪知恵を働かせて相手を攻撃するようなことなど、しなくて良い。もっと言えば、もう自分を守るために戦わなくて良いのです。「何故なら、もうあなたは守られている。主イエスがあなたのために、あなたに代わって十字架の上で死なれた。だからもう、あなたが殺されることはない。安心して生きなさい。自分を守るために着込んだ、厚い心の鎧を外しなさい。幼子のように、神様に対して、人に対して、心を開いていったら良い。確かに、心を開いて信頼するが故に傷つけられることだってあるだろう。しかし、主イエスがいやしてくださる。だから大丈夫。」主イエスを殺すことを決めた大祭司カイアファさえも、神様の御支配の中にあったのです。私共の日々は、間違いなく神様の御支配の中にあるのです。だから、もう自分を守るために相手に牙をむく必要はないのです。自分を偉そうに見せて相手を威嚇する必要もありません。カイアファであることをやめる。それが、主イエスの十字架の死を覚えて歩む、受難節にふさわしい私共の歩み方なのではないか。そう思うのです。

[2012年2月26日]

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