富山鹿島町教会

礼拝説教

「一粒の麦死なずば」
イザヤ書 49章7〜9節
ヨハネによる福音書 12章20〜26節

小堀 康彦牧師

1.まことのメシアとして
 主イエスが十字架にお架かりになるその週の初めの日、主イエスはエルサレムに入られました。その時、大勢の人々が手に手になつめやしの枝を持って、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。イスラエルの王に。」と叫んで迎えました。主イエスは、その人々の中をろばの子に乗ってエルサレムへと入られたのです。人々はラザロの復活の出来事を聞いており、この方こそ旧約において預言されていた救い主、メシアであると期待し、喜び迎えたのです。主イエスは確かに、神様によって遣わされた救い主、メシアでありました。しかし、人々が期待するような、不思議な力をもってローマ軍を蹴散らし、ユダヤに独立と繁栄をもたらすために来られた救い主ではなかった。ユダヤ民族という枠の中には収まることのない、ユダヤ人に限らず、すべての人をその罪の縄目から救い出し永遠の命を与え給う、まことの神の独り子であられました。そのことを主イエスははっきりと告げられました。それが、今朝私共に与えられている御言葉が示していることです。

2.伝道する主イエスの弟子
 20〜21節を見てみましょう。「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ。」とあります。この過越の祭りに、ギリシャ人が来ていたのです。多分、まだ割礼は受けていないけれど、ユダヤ教の教えに関心を持ち、信じたいと思っていた人たちだったと思います。現代で言えば、私共の教会にもおられる求道者のような方を考えれば良いかと思います。このギリシャ人の何人かが、主イエスに会いたいと、主イエスの弟子であるフィリポに頼んだというのです。彼らも、エルサレムに来て、主イエスがラザロを復活させられたという話を聞いたのでしょう。そして、主イエスにお会いしたいと思った。ここで、主イエスの救いというものが、ユダヤ人という民族の枠を超えて与えられるということが暗示されていると見て良いでしょう。
 面白いのは、このギリシャ人たちは直接主イエスのところに行ったのではなくて、弟子のフィリポのもとへ来て、主イエスにお会いしたいと頼んだということです。主イエスが格式のある立派な家の中にいて、取り次ぎの者を通さなければ会うことが出来ないということではなかったはずです。しかし、この時この何人かのギリシャ人たちは、弟子のフィリポを通して、主イエスにお会いしたいと願った。直接では畏れ多いと思ったのかもしれません。フィリポはアンデレに話し、アンデレとフィリポが主イエスに、ギリシャ人が会いたいと言っていると伝えたのです。フィリポとアンデレは、この福音書の1章にも出て来ました。そこでも、アンデレは兄弟のシモン・ペトロを、フィリポはナタナエルを、主イエスのところに連れて来るという役割を果たしておりました。このフィリポとアンデレの姿は、主イエスの弟子とは何をする者なのか、伝道するということがどういうことなのかを示しております。主イエスの弟子は伝道するのです。そしてその伝道というのは、人々に主イエスを紹介することであり、主イエスのもとに人々を連れて来るということなのです。それが、主イエスの弟子に与えられている役割なのです。この役割は、主イエスのすべての弟子に与えられているものであり、もちろん私共にも与えられているものです。

3.栄光を受けるとき
 さて、この時の主イエスの言葉が23節以下に記されております。主イエスははっきり、「人の子が栄光を受ける時が来た。」と言われます。今まで主イエスは、「わたしの時はまだ来ていない。」と何度も言われました。カナの婚礼で水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われた時(2章4節)、仮庵の祭りのためにエルサレムに上られた時(7章6節、8節)、仮庵の祭りで捕らえられそうになった時(8章20節)。しかし、遂にその時が来たというのです。でも、この「栄光を受ける時」というのは、普通に考えられる晴れがましい時のことではありません。「栄光を受ける時」というのはノーベル賞をもらったり、あるいはオリンピックで表彰台に上ったりという時をイメージしますけれど、主イエスが栄光を受ける時というのは、そうではないのです。それはどういうことかというと、続けて24節にこう記されています。「はっきり言っておく(=これは主イエスが大切なことを言われる時の決まり文句です。口語訳では『よく、よく、あなたがたに言っておく。』と訳されておりました。ギリシャ語では、『アーメン、アーメン、レゴー、ヒューミン』です)。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。」これは明らかに、主イエス御自身が十字架にお架かりになられること、そして三日目に復活され、40日後に天に上られること、さらに、キリストの教会が全世界に広がって、多くの人が救われることを示しています。

4.一粒の麦
 この主イエスの言葉は大変有名で、外国の小説などを読んでいますと、ひょいと出て来たりします。あまりに有名なものですから、いつの間にか、「他人のために犠牲になるような生き方をすれば、やがてそれは報われる」というような意味にも使われることが多くなってきました。しかし、この一粒の麦とは本来主イエスを指しているのであって、それ以外の人を指してはいないのです。ただ、この主イエスの十字架において現れた神の愛に触れた者は、御自分の命を一粒の麦として十字架に架けられた主イエスというお方と離れ難き関係に入りますから、この主イエスの歩みと自分の歩みを重ね合わせるように生きざるを得ない。そこで、主イエスのように地に落ちて死ぬ一粒の麦として、自らを献げる生き方をする者が出て来る。それが献身者であり、殉教者たちです。
 私がこの言葉を印象的に心に刻んだのは、まだ洗礼を受けて間もない頃、三浦綾子の『塩狩峠』という本を読んだ時でした。この本の始めにこの言葉が記されていたのです。この「一粒の麦もし死なずば」の「一粒の麦」は、確かに主イエスのことを指しているのですが、それにとどまらず、主イエスと結ばれた者の生き方となるのです。三浦綾子さんは、この聖書の「一粒の麦もし死なずば」と言われた「一粒の麦」が主イエスを指していることは百も承知でした。しかし、この一粒の麦として十字架にお架かりになられた主イエス・キリストと出会い、主イエスの救いに与った者は、主イエスの歩みと重ねるようにして生きる。『塩狩峠』の主人公は、ブレーキの効かなくなった汽車を止めるために、自分の体を献げたのです。この主人公は、まさにその様に一粒の麦としての主イエスと一つとされて歩んだのです。

5.自分の命を憎む者
 主イエスは、この「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」という言葉に続いて、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」と語られました。主イエスの十字架の死は、私共の罪の裁きの身代わりです。この方の死によって、私共は永遠の命に生きる者とされた。ですから、私共はもはや主イエスの十字架がなかったかのように生きることは出来ません。主イエスの十字架と結び合わされた者として生きるしかない。それが、「この世で自分の命を憎む」ということです。この言葉が大変きついので、何も憎まなくても良いだろうという感じを私共に抱かせるかもしれません。もちろんこれは、自分が生きることを憎んで、自分を殺して生きるということを意味しているのではありません。まして、自殺を勧めているのではありません。これは、この世において、自分の欲を満たす、自分の栄光を求める、そういうことのために生きる生き方を憎むほどまでに拒否する。ただ神の国と神の義を求めて生きる者となるということです。神を愛し神に仕え、人を愛し人に仕える者として生きる者となるということです。主イエスが受けた栄光と、自分が受ける栄光が重なるということです。これが献身ということです。主イエスの十字架は、私共の身代わりの死であるばかりでなく、私共に献身という全く新しい生き方を与えるものなのです。主イエスの罪の赦しの中に生きるということと、献身という生き方は切り離すことが出来ません。主イエスの十字架は、必ず私共を献身へと導くのです。キリストの教会は、その初めから今に至るまで、このキリストによって召された献身者の群れとして存在しているのです。
 この主イエスの「一粒の麦もし死なずば」という御言葉、そして「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」という御言葉は、私に、ヨハネによる福音書15章13節「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」との御言葉を思い起こさせます。この主イエスの御言葉もまた、十字架の上で自らの命を捨てられた主イエスの歩みが、その十字架によって新しくされた主イエスの弟子の歩みとなるということを示しているわけですが、この御言葉は、「このような歩みを自分はしているか」「このような歩みが自分に出来るか」、そのような思いを私共の中に引き起こすのではないかと思うのです。
 ある牧師が、この御言葉についてこう語ったのを聞いたことがあります。1分は60秒、1時間は3600秒、一日は86,400秒、一年は31,536,000秒、人生80年とすれば、人の一生は2,522,880,000秒、約25億秒。友のためにその一日をささげて生きたなら、その人は自分の命の25億分の8万をささげていることになるのだというのです。私は妙に納得してしまったのです。自分の命を友のために捨てる、この世で自分の命を憎むということは、具体的には、友のために、人のために、自分の時間を使う、自分の富を使う、そういうことになるのだと思うのです。体が弱くなり、もう人のために何もすることが出来ないと嘆かれる方もおられるでしょう。しかし、祈ることが残されています。どうか祈ってください。私のために、教会の為に、祈ってください。祈ることは時間を要します。誰かのために祈るとすれば、誰かのために自分の命を献げていることになるのです。それが愛です。自分の時間も自分の富も、自分のためにしか使うことが出来ない、それが自分の命を愛する者の生き方なのでしょう。そのような歩みから、私共は新しくされた。その様な生き方と決別したのです。主イエスの十字架によって、私共は「献げる」という、全く新しい歩みに生きる者とされたのです。

6.主イエスと共に
 そして、この歩みは喜びの歩みなのです。何故なら、そのような歩みは、主イエスと共に生きる歩みだからです。26節に「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」とあります。
 私共は献げるという新しい歩みに生きる時、主イエスが自分と共におられ、自分が主イエスと共にあることを知ります。主イエスが私共と共にいてくださるというのは、何か背後霊や守護霊のように私の後ろにピッタリとイエス様が付いているというようなことではないのです。神様なんて関係ない、自分の欲を満たし自分の栄光をひたすら求めるような生き方をしていて、イエス様が共にいて自分の歩みを守ってくださる、そんな都合の良い信仰は、聖書の信仰ではありません。それは、生ける神様を偶像にしてしまう、自分の利益のために神様を奉仕させようという信仰のあり方です。それは、主イエスの十字架と出会って与えられた信仰ではありません。そうではなくて、主イエスの歩みに私共の歩みを重ねるようにして生きる時、献げるという新しい生き方に歩む時、その歩みは主イエスと共にある歩みとなるということなのです。そして、この主イエスと共にあるということこそ、私共の何にも代え難い喜びなのではないでしょうか。嫌な主人なら、僕は主人の顔を避け、なるべく主人と一緒にいないようにしようと思うでしょう。なるべく主人から仕事を言いつけられないようにしようとするでしょう。しかし、心から愛し、慕わしい主人なら、僕はその主人を誇りに思い、主人と共にあることを何よりも喜びとするものなのではないでしょうか。
 主イエスは、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。」と約束してくださいました。主イエスが、私共と共にいてくださるというのは、主イエス御自身が与えてくださった約束なのです。これは、感じることではなくて、信じる事柄です。そして更に主イエスは、「わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」とも約束してくださいました。天地を造られた神様が、私共を大切にしてくださるというのです。何とありがたいことかと思います。天地を造られた神様が、私共を大切にしてくださるのですから、誰が私共に悪さをすることが出来るでしょう。自分を大切にしてくださる天の父なる神様という主人を持つ者とされた。自分と共にいてくださる主イエス・キリストという主人を持つ者とされた。それがキリスト者なのです。
 私共の日々の歩みにおける最大の関心事は、どうすれば人に好かれるか、どうすれば楽が出来るか、どうすれば社会的地位や富を手に入れられるか、というようなことではありません。それらはどれも、主人を持たなかった時の私共の関心事でしょう。主人を持った今、私共の関心事は、どうすることが主イエスに従うことであり、父なる神様の御心に適うのかということなのであります。良き僕は、主人と共にあることを何より喜び、主人が喜ぶことを自分の喜びとするのです。私共は、主イエスの十字架によってもたらされた多くの実りの一粒一粒なのです。主イエスの十字架がなければ、私共もないのです。この主イエスの十字架こそ、我が命、我が誉れ、我が宝、我が喜びなのです。
 受難週の日々、この十字架の主イエスと一つにされていることをしっかり受け止めて、それぞれ遣わされている場において、存分に用いられ、主にお仕えしてまいりましょう。そこに、私共のまことの喜びがあるのですから。

[2012年3月18日]

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