富山鹿島町教会

礼拝説教

「洗足」
エレミヤ書 31章31〜34節
ヨハネによる福音書 13章1〜20節

小堀 康彦牧師

1.明日死ぬとしたら
 明日自分が死なねばならないということを知ったなら、私共はどのように今日という日を過ごすでしょうか。私共は皆必ず死ぬのですけれど、その日が明日だとは思っていないので、今日という日を穏やかに過ごすことが出来ているのでしょう。もし明日死なねばならないとしても、そんなことは知りたくないとも思います。知ってしまったなら、不安と恐れでとても普通の生活をすることは出来ないと思います。「もしこれが最後の食事だとしたら何を食べたいか?」時々そんな質問をテレビ番組の中でされたりしますけれど、自分が明日本当に死んでしまう、これが最後の食事だ、それが分かってしまった状況の中で、人は何々が食べたいとは決して考えないのではないかと思います。不安と恐れに押しつぶされて、食欲なんか出ない。それが私共、普通の人間です。

2.この上なく愛し抜かれた主イエス
 しかし、主イエスは違いました。13章1節「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とあります。この13章から17章までは、いわゆる最後の晩餐の場面です。主イエスはこの時、「この世から父のもとへ移る御自分の時が来た」、つまり、御自分が十字架に架かって殺される時が来たことを悟っておられたのです。そして、弟子たちを「この上なく愛し抜かれた」のです。「この上なく」と訳されている言葉は、口語訳では「最後まで」と訳されておりました。「最後まで」「この上なく」愛し抜かれたというのです。
 この13章1節の言葉は、単にこの最後の晩餐の場面でのことを指しているというよりも、13章から始まる、主イエスが十字架にお架かりになる、この地上での最後の一日の歩みすべてを指しているのでしょう。主イエスは、十字架の上で息を引き取るまで、弟子たちを愛し抜かれたのです。まさにあの十字架こそ、主イエスの愛し抜かれた愛の形だったのです。弟子たちのために、弟子たちに代わって、一切の罪の裁きを引き受けられたのです。そして、主イエスが最後まで愛し抜かれた、この上なく愛されたこの弟子たちの中に、私共も入っているのです。
 この弟子たちとはどのような者であったか。聖書は「この上なく愛し抜かれた」と記したそのすぐ後に、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダのことを記すのです。2節「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」とあります。私は、この書き方にとても意味があるのだと思います。主イエスは、十字架で息を引き取るまで弟子たちを愛し抜かれた。そして、その弟子たちの中には、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダもいた。そう聖書は告げているのです。何故ユダは主イエスを裏切ったのか、本当の所はよく分かりません。しかし、この場にユダがいたということは重要です。何故なら、私共は誰も「自分はユダには決してならない」とは言い切れない者だからです。もちろん、ユダになりたい人なんていません。しかし、ならないと言い切れる人もいないのです。弟子の筆頭であったペトロでさえ、主イエスを三度知らないと言ってしまったのです。この場に居合わせた主イエスの弟子とは、そういう人たちだったのです。愚かで弱い私共と少しも変わりません。しかし、そのような弟子たちを、主イエスは最後までこの上なく愛し抜かれたのです。このユダさえも、主イエスはこの上なく最後まで愛し抜かれたのです。ユダはこの主イエスの愛の外にいた。主イエスはユダだけは愛さなかった。そんなことはないのです。だから自分も又、この主イエスの愛から外れているはずがない。私共はそう言い切れるはずなのです。

3.主イエスに足を洗っていただく
 主イエスは、食事をする前に弟子たちの足を洗い、手ぬぐいでふき始められました。これは突拍子もないことでした。人の足を洗うのは、当時の習慣では奴隷のすることだったからです。弟子たちはみんな驚きました。一体イエス様は何を始められたのか。弟子たちにはさっぱり分かりません。目を丸くして、主イエスの為されるがままに足を洗っていただいたのだと思います。
 しかし、ペトロの番になると、ペトロは黙っておりませんでした。ペトロは思ったことを正直に口にしました。6節「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか。」これは、一体何をなさるのですか、どうしてそんなことをなさるのですか、そういう意味でしょう。それに対して主イエスは、7節で「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」と答えられました。今は分からない。しかし、後になれば分かる。「後で」とは、いつのことでしょう。それは、主イエスの十字架と復活の後でということです。この「洗足」の出来事は、主イエスが明日お架かりになる十字架の出来事を指し示しているからです。何故主イエスは十字架にお架かりになるのか。主イエスの十字架はどういう意味があるのか。そのことをこの洗足の出来事は示していたのです。
 ペトロは続けて言います。8節「わたしの足など、決して洗わないでください。」このペトロの気持ちは良く分かります。イエス様に足を洗っていただくなど滅相もない。とんでもない。そう思ったのでしょう。これに対しての主イエスの言葉は意外なものでした。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」と言われたのです。私共は、主イエスとの関わりをどう考えているでしょうか。ペトロはこの時、自分は主イエスに従って来た。舟を捨て、網を捨て、すべてを捨てて主イエスに従って来た。主イエスが行かれる所はどこでもついて行った。主イエスの教えも聞いた。主イエスの為された奇跡も見た。自分はいつも主イエスと一緒だった。それが彼の考えていた主イエスとの「関わり」だったと思います。ところが、主イエスはここで、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」と言われた。それは、この洗足の出来事が、主イエスの十字架の出来事を指し示しているからです。主イエスとペトロ、主イエスと私共の関わりというものは、ペトロが私共が自分で主イエスのために何をしたのかという所にあるのではなく、主イエスが足を洗ってくださる、ここに生まれるものだということなのです。
 主イエスに足を洗っていただく。それは、私共の一番汚れている所を洗っていただくということです。私共の、誰にも言えない、誰にも見せられない、心の一番奥にある一番汚れている所を洗っていただく。つまり、私共の罪を赦していただく。このことによって主イエスとの関わりが生じるということなのです。イエス様が私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになってくださった。この救いの御業を、感謝をもって受け取ることなしに、主イエスとの関わりは生じないということなのです。これを拒めば、主イエスとの関わりはなくなってしまうのです。

4.洗礼と聖餐
 ペトロはこの主イエスの言葉を聞いて、「主よ、足だけでなく、手も頭も。」と言います。ペトロらしい微笑ましい言葉ですが、主イエスはこの言葉を引き取ってこう答えられました。10節「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」この主イエスのお言葉は、どう理解すれば良いのか難しい所です。「皆が清いわけではない」というのが、イスカリオテのユダを指して言われていることは、次の11節を見ればすぐに分かります。問題は、その前の所です。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」と言われた時の「体を洗う」と「足を洗う」とは何を指しているのかということです。
 当時の習慣に詳しい人がこう説明します。当時、夕食に招かれる時は、風呂に入って全身を洗ってから出かけた。しかし、途中でサンダル履きの足は汚れる。それで、主イエスはここで足だけを洗われたのだ、と。しかし、こういう説明を聞いても、「ああそうですか。」というだけで、この主イエスの言葉の深い意味が分かるわけでもありません。
 私は、この「足を洗う」というのは聖餐を、「全身を洗う」というのは洗礼を示していると考えています。マタイ・マルコ・ルカが記す、最期の晩餐の場面における聖餐制定の記述が、このヨハネによる福音書においては全くない、抜けているのです。これをもってある人々は、ヨハネによる福音書は洗礼や聖餐というものを問題にしていないと言います。しかし私は、そんなことはあり得ないと思います。ヨハネによる福音書は、マタイ・マルコ・ルカよりも何十年か後に記された福音書です。ヨハネによる福音書を記した人は、これら三つの福音書を知っていたはずです。そして、ヨハネによる福音書を記した人が生きていた教会では、洗礼も聖餐も行われていたのです。ですから、ヨハネによる福音書の3章にはニコデモとの対話の中で、5節「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と言って洗礼を暗示し、6章においては「わたしは命のパンである。」(35節)、「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」(53節)と言われて聖餐を暗示しているのです。確かに、洗礼とか聖餐という言葉は直接的には出てきません。しかし、これらの主イエスの言葉が、洗礼や聖餐を指し示しているのは明らかでしょう。ヨハネによる福音書は、マタイ・マルコ・ルカのように直接的に主イエスが聖餐を制定されたというような書き方ではなくて、洗足という主イエスの十字架を指し示す出来事の中で、洗礼・聖餐を暗示するというあり方を用いたのです。つまり、ここで主イエスは、主イエスを信じ洗礼を受けた者は清いが、日々の生活の中で過ちを犯してしまう私共は、繰り返し繰り返し聖餐に与ることにおいて、清められ続けなければならない、そう言われたのです。
 そして、この洗礼と聖餐とに与ることによって、主イエスとの関わりが私共に与えられるのです。洗礼にしても聖餐にしても、私共は主イエスが差し出してくださる救いの恵み、主イエスの十字架と復活によって与えられた罪の赦しと永遠の命の恵みに、感謝しつつ与るだけです。主イエスが私共を生かすために仕えてくださっている。この事実を、感謝をもって受け入れるだけなのです。

5.互いに足を洗い合う
 今、聖書を学び祈る会では、エゼキエル書を学んでいます。私が8年前にこの教会に着任して以来、イザヤ書、エレミヤ書を既に学びました。エゼキエル書を学び終わりますと、旧約の三代預言者をすべて学んだことになります。この預言書を学ぶ中で、何度も出てきます言葉に、行動預言あるいは象徴預言というのがあります。預言者がとても印象に残る行動、それはしばしば突拍子もない行動なのですが、その行動と共に預言を語るというものです。その突拍子もない行動と共に、預言された言葉が人々の心に残るわけです。私は、この主イエスがなされた洗足という出来事も、旧約以来の行動預言の伝統の中にあるのだと思います。主イエスは、本来奴隷がする仕事である足を洗うという行動と共に、言葉を与えられました。それが14〜15節です。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わねばならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
 主イエスは弟子たちの足を洗われました。これは、主イエスが私共のために十字架にお架かりになったことを指し示しているわけですが、この主イエスによって足を洗っていただいた者、つまり主イエスの十字架による罪の赦しの恵みに与った者は、互いに足を洗い合うようになるということなのです。しかし、16節に「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。」とありますように、私共が互いに足を洗い合うといっても、それによって主イエスの十字架のような完全な罪の赦しを与え合うなどということは出来ませんし、もちろんそういうことではないのです。しかし、確かなことは、私共が互いに罪を赦し合い、愛の交わりを形作るために召されたということです。
 ここで私共は、主イエスが「互いに足を洗い合わねばならない」、「互いに」と言われていることをしっかり受けとめなければなりません。主イエスが私共の足を洗ってくださった。だから私も赦そう。それは良いことです。素敵なことです。しかし、主イエスが言われているのは「互いに」です。つまり、私も赦してもらおう、赦してもらわなければならない者である、ということを認め合うということです。「私は赦そう。しかし、私は別に赦してもらわなくても良い。自分は、赦してもらわなければならないような者ではない。」私共は、どこかでそんな風に思っている所があるのではないでしょうか。しかし、そうではないのです。「赦してやる」といった、人を見下したような所に愛は生まれません。主イエスは弟子たちの前に身をかがめ、足を洗われたのです。そして、今朝も私共の足元に身をかがめ、足を洗い、そして言われているのです。「互いに足を洗い合いなさい。」私共もペトロのように、「そんなことはしないでください。」そう叫びたくなります。しかし、主イエスは「わたしがここまでしなくて、どうしてあなたの高慢を打ち砕くことが出来よう。あなたは赦されなければならない。神様に赦していただかなければならないし、隣人に赦してもらわなければならない。そのことが分かるか。」そう告げておられるのです。
 私共は、私共の足元にうずくまっておられる主イエスに向かって、「主よ、お赦しください。」そう叫ばずにはおられません。そして、「主よ、あなたの仰せの通り、互いに赦し合う者として歩んでまいります。」そう言うしかないのでしょう。私共はまことに欠けの多い人間です。しかし、神の子とされ、神の僕とされています。それは、互いに足を洗い合う、互いに仕え合い、互いに赦し合う交わりを形作る者として召されているということです。互いに相手の失敗をあげつらうのではないのです。互いに赦し合い、支え合い、励まし合い歩んでいくのです。
 主に足を洗っていただいた者として、それぞれ遣われた場でこの一週も歩んでまいりましょう。

[2012年4月22日]

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