富山鹿島町教会

礼拝説教

「神を知る」
イザヤ書 30章18〜20節
ヨハネによる福音書 14章7〜14節

小堀 康彦牧師

1.主イエスを神様と信じる
 預言者イザヤは、神様の救いが成る時「あなたを導かれる方はもはや隠れておられることなく、あなたの目は常にあなたを導かれる方を見る。」と告げました。この預言を成就する方としてこの世に来られたのが、私共の主イエス・キリストです。見えない天の神様のすべてが、主イエスという一人の人間に現れた。目に見える方として、神の民を導かれる方として来られたのです。
 主イエスを信じるということは、主イエスというお方が、天と地を造られた唯一人の神様と一つであられるということを信じることです。天地を造られた唯一人の神様が、肉体を持った、目に見える、主イエスという人間に現れた。これは度外れたことです。理屈としては納得出来ないことです。天と地とその中のすべてを造り、そのすべてを支配しておられる唯一人の神様。全宇宙さえも、この方を入れるには小さ過ぎる、偉大な方。全き聖さの故に、人間には見ることも出来ない、近づくことも出来ない方。その方と等しい独り子が、主イエスという人間としてこの地上に姿を現された。どうしてそんなことがあり得るのか、無限が有限の中に現れるのか、永遠を限られた時間の中に閉じ込めることが出来るのか、分かりません。分かりませんけれど、私共はそのことを信じております。このことを信じなければ、聖書は分かりません。

2.聖書が分かる
 よく「聖書を読んでも分からない。」という言葉を聞きます。この「分からない」という意味はいろいろあると思います。新約聖書で二千年前、旧約聖書には三千年以上前に書かれたものもあるのですから、それが書かれた背景が分からないので分からないということもあるでしょう。しかし、そういうことを調べても、やっぱり分からないという分からなさがある。それは聖書が何のために、何を記しているのか、そのことが分からないとどうしても分からない、そういう書物だからです。聖書は、神様の救いについて記したものであり、これを読む人が救われるためにあるのです。そして、この神様の救いに与るためには、主イエスというお方がまことの人であると同時にまことの神であるということを信じるしかないのです。ですから、聖書というものは主イエスを信じなければ分からないのです。逆に言いますと、聖書が少しでも分かるということは、その人に信仰が与えられ始めた「しるし」だとも言えるのです。
 しかし、信仰が与えられれば、すべてが分かるというわけでもありません。分かったと思っていた聖書の言葉が、長い時間の後に更に深い新しい理解へと私共を導くということも、次々に起こります。ですから、いつまでたっても、完全に分かったということがない。それが聖書なのです。本当に不思議な書です。これほど読む人に不親切で分かりにくい書はありません。しかし、読まれ続けています。それは、聖書の言葉を通して、天地を造られた神様が私共に語りかけるからです。この語りかけを聞き取るために、私共は聖書を読むのです。ですから、聖書が分かるというのは、この神様の語りかけを聞き取るということなのです。

3.主イエスと神様は一つに結ばれている
 今日与えられております箇所も、言葉の表面をなぞっているだけでは本当には分からない、そういう所です。7節「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」これは、神様と主イエスとが一つである、天地を造られた神様が主イエスという方に現れたということを、主イエス御自身が告げられているのです。更に主イエスは10節で「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」と告げられます。これは、理屈で考えますと、全く分からない言葉でしょう。ビンの中にビー玉がある。これは分かる。しかし、同時にビー玉の中にビンがあると言われると、さっぱり分からないということになるでしょう。もちろん、神様はビンでもないし、イエス様はビー玉でもありません。神様もイエス様も生きておられる御人格のある方です。これは、神様とイエス様は別の方であるけれども、神様として一つであるということを、主イエス御自身が語られているのです。イエス様が神様であることを信じる者にとって、この言葉は少しも難しいことはありません。しかし、信じない者にとっては、何が言われているのかさっぱり分からないということになるのではないでしょうか。聖書は信じなければ分からないとは、そういうことです。
 この父なる神様と主イエスとの一体性は、言葉と業とにおいて現れました。そのことが10節後半〜11節「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」と言われていることです。ここで、主イエスは「信じなさい」と繰り返します。主イエスが語られた言葉は父なる神様が語られた言葉であり、主イエスが為された業は父なる神様が為された業である。そのことを信じなければ、私共は父なる神様を知ることは出来ない。これを信じることが、神様の御許に行くことが出来る唯一の道なのです。
 「神を知る」ということは、神様とはこういうお方であるはずだ、こういうお方でなければならない、そんな風に私共が頭の中で造り上げていくことによって出来ることではないのです。多くの宗教は、そのようにして勝手な神様を造っています。聖書は、それを偶像だと言うのです。「神を知る」ということは、偶像を造り上げることではないのです。また、様々な修行をして神様に近づこうとする試みが、多くの宗教で為されます。しかしそのような道は、人間の可能性として存在していません。天地を造られた神様に、どうして人間が近づくことが出来るでしょうか。太陽に近づけば、人は燃えて溶けてしまうしかないのと同じです。神様と私共とは、それこそ天と地以上に隔たっているのです。人間は神様のおられる天に昇ることは出来ません。どんなことをしても出来ません。しかし、神様は天から降って来ることがお出来になります。全能のお方だからです。神様は、御自身の独り子である子なる神様を、イエス様として世に送ってくださったのです。ここに天と地を結ぶ道が出来ました。地から天に道を作ることは出来ません。しかし、天から地に向かって道が作られた。それが主イエスというお方なのです。
 神様は、このイエス様の言葉と業との中に、御自身の御心を現されました。私共は、この主イエス・キリストという方を見ることによって神様を見、この方の言葉を聞くことによって神様の言葉を聞き、この方の業によって神様の業を知る道が与えられたのです。このイエス様御自身が、神様が私共に与えてくださった、神様の御許へと続く、唯一つの道なのです。この道以外に、私共と神様とがつながる道はありません。この主イエス・キリストの中に、主イエス・キリストと共に、神様はおられるのです。
 11節で「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」と言われております。これと同じような言葉は10章37〜38節にもあります。これは、「イエス様の言うことは信じなくても、イエス様が行った業によって信じなさい。」と言っているように読む人がいるかもしれませんが、そうではありません。信じる内容は、主イエスと神様とが一つである、ということです。このことは、主イエスが語られた言葉にも表れているし、その為された業にも現れています。ですから、「言葉を通してにせよ、業を通してにせよ、イエス様が神様と一つであることを信じなさい。」と言っているのです。この主イエスと神様とが一つであるということを外してしまいますと、私共は神様の御許への道を失うことになってしまうのです。

4.主イエスより大きな業をする?
 さて、12節「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」とあります。これも分かりにくいです。私共は主イエスを信じているわけですが、はたして主イエスがなさった業より大きな業を為しているのでしょうか。とてもそんなことは言えないでしょう。主イエスは13章16節で「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。」と言われました。「僕」・「遣わされた者」とは弟子です。「主人」・「遣わした者」とは主イエスです。弟子たちは主イエスに勝らない。これはその通りと思います。ところがこの12節は、それと正反対のことを言っているように聞こえます。一体どういうことなのでしょうか。
 12節の最後に「わたしが父のもとへ行くからである。」とあります。これが鍵です。これは、主イエスが天に昇られることを指しているのですが、主イエスが天に昇って何が起きるかと言いますと、弟子たちに主イエスが天から聖霊を与えるということが起きるわけです。主イエスを信じる者の群れである教会には、この主イエスの霊、聖霊が注がれ、その聖霊の導きの中を二千年の間歩んできたのです。主イエスが地上の歩みをしていた間に主イエスと出会うことが出来たのは、その当時に生きていてユダヤに住んでいた人々だけでした。しかし、主イエスが天に昇り、聖霊を与えてくださることによって、主イエスと会う人々は全世界に広がり、しかも時代を超えました。そして、キリストの教会が世界中に広がり、この二千年の間歩んできたのです。この歴史を貫き全世界に広がるキリストの体である教会は、今何をしているでしょうか。主イエスの救いを宣べ伝え、救いの御業にお仕えしています。
 こんな計算をしてみました。現在、世界にキリスト者は約20億人います。小児洗礼が多数を占めると思いますが、キリスト者として生きるのが50年としますと、1年間で4千万人が洗礼を受けていることになります。1日当たり約10万人です。これはものすごい数でしょう。これが、聖霊なる神様によって現在進められている救いの御業なのです。
 私共自身は、主イエスより大きな業など出来るはずもありません。しかし、主イエス・キリストが送ってくださる聖霊なる神様御自身が、主イエスを信じる者を用いて、イエス様が十二人の弟子たちと伝道したときよりもっと大きな救いの御業を、現在も全世界において展開しているのです。ですから、主イエスのこの御言葉は、このことを見ただけでも成就していると言って良いでしょう。

5.主イエスの名によって願うことは、何でもかなえられる?
 そして、13〜14節です。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」これは、前後の文脈から切り離して受け取られかねないのですが、それは正しくありません。これと同じ言葉は、15章16節、16章23〜24節にもあります。ここで主イエスは、「わたしの名によって願う」ということを繰り返し語られます。確かに、私共は祈りの最後に、「この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。」と言います。この主イエスの御名によって、主イエスの御名を通して祈るというのが、キリストの教会に与えられた祈りの形です。
 イエス様はここで、その祈りの形さえ整っていれば何でもかなえてやると言われているのでしょうか。そうではありません。そういうことならば、この主イエスの名によって祈る祈りは、不思議な呪文と同じということになるでしょう。そして神様は私共の、全能の力を持っている召し使いとなってしまいます。まるで、アラジンの魔法のランプと同じです。その様な理解は、神様を侮ることです。主イエスはそんな約束をしておられるのではありません。
 ここで主イエスは、二度繰り返される「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」という言葉の間に、「父は子によって栄光をお受けになる。」と言われています。これが大切です。主イエスの名によって祈る祈りがかなえられることによって、父なる神様が栄光をお受けになるというのです。つまり、主イエスの名によって祈られることがかなえられるのは、私共の欲や思いを満足させるためではなくて、父なる神様が栄光をお受けになるためであると言われているのです。ということは、私共が主イエスの御名によって願い主イエスによってかなえられる祈りとは、神様の栄光が現れるための祈り、神様の御心にかなう祈り、ということになるのではないでしょうか。
 この神様の栄光が現れるための祈りといえば、私共は、「主の祈り」の最初の祈り、「願わくは御名をあがめさせ給え。」を思い起こします。これは、「御名があがめられますように。」「神様、あなたが栄光をお受けになりますように。」という祈りです。主イエスは、この主の祈りに導かれる祈りにおいて、この主の祈りによって示されている祈りにおいて、祈られることは何でもかなえてあげようと言われた、ということになるのだと思います。
 私共が主の祈りに導かれて祈る祈りは、私共の中から出て来る祈りとは少し違うのだと思います。私共の内側から出て来る祈りというのは、家内安全、商売繁盛の域を出ない所があります。しかし、主の祈りに導かれる祈りは、「御国を来たらせ給え。御心が天になるごとく、地にもなさせ給え。」と続くのです。これは、神様の救いの御業が前進し、すべての者の唇に主がほめたたえられ、神様の御前にすべての者がひれ伏し、己が腹を神とせず、自らの罪と悪とに打ち勝ち、互いに愛し合い、互いに仕え合う世界となりますように、と祈る祈りでしょう。そして、そのために神様こうしてくださいという願いが生まれる。この願いは、私共の願いというよりも、聖霊なる神様が私共に与えてくださった願いであり、そうであるならば、かなえられないはずがないのです。この祈りを与えるのも、この祈りを成就されるのも共に、主イエスが送り給う、主イエスの霊である聖霊なる神様御自身だからです。ですから、私共は安心して、かなえられることを信じて祈れば良いのです。

6.「主イエスが神様と一つであられる」ことにすべてがかかっている
 私共の祈りがかなえられることも、主イエス・キリストの救いの御業が前進し続けていることも、すべては主イエスが天地を造られた唯一人の神様と一つであられるということにかかっています。神の独り子が人間として生まれて、人間として生活し、人間の一切の罪を担って十字架にお架かりになってくださったのです。もし、主イエスが神様の独り子でなかったのなら、まことの神でなかったのなら、私共の祈りも、伝道も、教会という存在も、信仰も、一切は空しいのです。私共に救いはなく、私共はただ当てもなく死に至るまでの時間を過ごしているだけということになってしまうでしょう。しかし、そうではない。主イエスは、まことの神であり、天地を造られた唯一の神の独り子であり、その父と等しい方なのです。この方と出会った者は神と出会った者であり、この方を愛するものは神を愛する者であり、この方を信じるものは神を信じる者なのです。そして、この方が私共を天の父なる神様の御許へと連れて行ってくださる方なのです。そのことを、この方の霊であり父なる神様の霊である聖霊は、代々の聖徒たちに、そして私共に、教え続けてくださっているのです。まことにありがたいことです。今共々に、この方を力の限りほめたたえたいと思います。

[2012年6月17日]

メッセージ へもどる。