富山鹿島町教会

礼拝説教

「悲しみが喜びに変わる時」
イザヤ書 66章7〜9節
ヨハネによる福音書 16章16〜24節

小堀 康彦牧師

1.本当のことと確認された主イエスの言葉
 主イエスは弟子たちにこう約束されました。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」今朝与えられている御言葉の20節の言葉です。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」驚くべき、素晴らしい約束です。この約束が本当なら何と幸いなことでしょう。
 先週も申し上げましたが、この福音書に記されております主イエスの言葉は、弟子たちがイエス様はこう言われたということを単に思い出して記したという言葉ではありません。そうではなくて、主イエスがこう言われたことは本当に本当だったということを弟子たちが知らされ、確認されたことが記されているのです。ですから、この主イエスの語られたことは本当かどうか分からないけれど、とにかくそう言われたのだから記しておこう、そんな風に記された言葉は一言もないのです。どの言葉も、弟子たちが本当にその通りだと知らされた、確認させられたものなのです。更に言えば、主イエスの御言葉は、二千年の教会の歴史の中で、代々の聖徒たちによって、本当に本当だと確認され続けているものなのです。このことは、私共が聖書を読む時に、良く弁えていなければならないことでしょう。
 とするならば、この「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」と言われた主イエスの約束もまた、弟子たちによって本当のことだったと確認された言葉であるということになります。では、弟子たちの味わった悲しみとはどのようなものであり、それがどのようにして喜びに変わったのでしょうか。

2.主イエスを見なくなり、また見るようになる
 16節を見てみましょう。主イエスは弟子たちに「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」と言われました。この主イエスの言葉が何を指しているのか、主イエスが何を語ろうとしているのか、弟子たちはこの時分かりませんでした。それが、17〜18節に記されております弟子たちの反応です。17〜18節「そこで、弟子たちのある者は互いに言った。『「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」とか、「父のもとに行く」とか言っておられるのは、何のことだろう。』 また、言った。『「しばらくすると」と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。』」とある通りです。弟子たちはこの時は分かりませんでした。しかし後に、この時主イエスは何を言われたのかはっきり分かりました。それは、ここで主イエスが言われたことを自分たちが経験することとなったからです。「あなたがたはもうわたしを見なくなる」とは、主イエスが十字架にお架かりになり死なれるということ、またその後天に昇り、弟子たちの目には見えなくなるということです。そして、「わたしを見るようになる」とは、十字架の後、復活されて弟子たちにその御姿を見せられるということであり、聖霊を与え、霊において弟子たちと共にあるということをお示しになるということです。
 今まで何度か申し上げてきましたが、ヨハネによる福音書においては、主イエスの復活と聖霊が注がれるというペンテコステの出来事は一度に起きます。ルカによる福音書や使徒言行録のように、十字架・復活・昇天・聖霊降臨という出来事を時系列で順に並べて記すというあり方では記していないのです。ヨハネによる福音書では、主イエスが十字架にお架かりになり三日目に復活すると共に、弟子たちに聖霊が注がれるのです。このことは、教会において起きている復活の主イエスに出会うという出来事が、聖霊なる神様の御業として起きている。その現実の中で主イエスの現臨というものを知らされ、弟子たちは主イエスの御言葉を確認させられて福音書を記したということなのだろうと思うのです。

3.しばらくすると
 いずれにせよ、主イエスは十字架にお架かりになって死ぬ、それはこの言葉を弟子たちに語られた次の日です。その時は、もうすぐそこまで来ている。だから、「しばらくすると」と主イエスは言われたのです。この「しばらくすると」というのは、ギリシャ語では「ミクロン」です。1mmの千分の一をミクロンと言いますが、あれと同じです。ですから、「ほんの少しの時」というニュアンスです。主イエスは金曜日に十字架の上で死んで、日曜日の朝復活されるわけです。ですから、これもミクロン、ほんの少しの時間の後ということです。主イエスが20節で「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れる」と言われているのは、主イエスが十字架にお架かりになって死んでしまうので、それで弟子たちは「泣いて悲嘆に暮れる」わけです。しかしこの悲しみは、主イエスの復活と聖霊の注ぎによって弟子たちが再び主イエスと出会うことで、喜びに変えられるというのです。そして、実際そうなりました。ですから、弟子たちが悲しんでいるのはしばらくの間だけ、ほんの少しの時、ミクロンの間だけだったのです。弟子たちは、このことを確認した上でこの御言葉を記したのです。このことを私共はしっかり受け止めましょう。
 しかし、私共は悲しみの日々を過ごす時、それが未来永劫いつまでも続くかのように思ってしまうものです。楽しい時、喜びの時はあっという間に過ぎ、苦しい時、悲しみの時は時計が止まっているのではと思うほどに時の進むのが遅く感じられるものです。しかし主イエスは、その時はミクロンだ、ほんのわずかの時だ、そう言われるのです。私共は生きていく上で、苦しいこと、悲しいことを避けることは出来ません。自分や親の老い、自分や家族の病気、子供の将来など、不安なことは山ほどあります。愛する者との別れもあります。主イエスは、しかしその時は未来永劫続くものではない、ミクロンだ、ほんのわずかの間だ、そう言われる。だから耐えよ、そう言われるのです。
 本当に悲しんでいる人に、「その悲しみは、しばらくの時だけです。」と言っても、なかなか通じないのではないかと思います。自分の目の前の悲しみの現実に囚われて、他は何も見えない、何も聞こえない、これがずっと続くと感じてしまうものです。その人に「あなたのその悲しみは、しばらくの時だけです。」と言っても、「人の気も知らないで。」と反発されるだけかもしれません。しかし私共は、その人のために、その人に代わって「しばらくの時だ」ということを信じ、祈らなければならないのです。祈りだってそうです。悲しみの極みの中にいる人は、祈ることさえ出来なくなるものです。その時、私共はその人のために、その人に代わって、「しばらくの間である」ことを信じて、祈るのです。それが、主イエスに救われた私共の務めなのです。

4.悲しみが喜びに
 主イエスはここで、「その悲しみは喜びに変わる」とさえ言われるのです。主イエスの十字架は、弟子たちにとって、悲しい、悲しいことでした。しかし、主イエスは復活され、聖霊を与え、いつまでも弟子たちと共におられることを明らかにされたのです。主イエスの十字架の死は、私共の救いの源、私共を一切の罪から贖い出す救いの御業であることが明らかにされたのです。この主イエスの十字架の悲しみは、救いの喜びへと変えられたのです。そして、この喜びは誰も奪うことの出来ない喜びとなったのです。教会はこの喜びの中に生きて来ましたし、今も生きているのです。
 主イエスの十字架がなくなったわけではありません。しかし、その次に起きた復活・聖霊の注ぎによって、十字架の意味が全く変わったのです。悲しみの出来事ではなく、喜びの出来事になったのです。主イエスが復活されたからです。聖霊が注がれたからです。主イエスの十字架の死は、最後の結末ではないのです。次があったのです。復活があり、聖霊の注ぎがあったのです。
 私共がこの地上の生涯で味わう悲しみもそうなのです。そのただ中にいる時、私共はもう他のものは何も見えないほどに、その悲しみに囚われます。もう明日なんて来ないのではないかと思うほどに、その悲しみに囚われてしまうものです。若い時には、失恋があり、受験や就職の失敗があります。結婚すれば、子育ての悩みがあります。嫁と姑の問題だってあるでしょう。愛する者との別れもあります。老いれば足腰が弱くなり、目も耳も遠くなります。数え上げればきりがない。しかし、復活の主イエスと出会うなら、私共は、それらがすべてしばらくの間のことであることを知るのですし、次があるということを知るのです。そして、そのような日々の中に、主イエスが突入され、出来事を起こし、私共の視線を変えさせ、私共と共におられることを知らされるのです。私共が、聖霊において復活の主イエスと出会うならば、そして主イエスが自分と共におられることが分かるならば、すべての悲しみの出来事はその意味が根本から変わってしまうのです。

5.産みの苦しみ
 私共の出会う悲しみは、ただ悲しいというだけのことではなくて、新しい何かがそこから生まれて来る「産みの苦しみ」だと主イエスは言われるのです。21節「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」とあります。
 私は男ですので、お産の苦しみというものがどれ程のものであるか知りません。医者に聞いたところ、人間が味わう三大激痛とは、お産、くも膜下出血、尿路結石だそうです。お産の苦しみは知りませんが、尿路結石の痛みなら私も何度か経験しています。初めてこの痛みを味わった時、私はこの痛みが一日続いたら確実に自分は気が狂うと思いました。尿路結石の痛みはその後に小さな石が出るものでしかありません。しかし、お産は赤ちゃんが生まれてくるわけです。私共の苦痛には、ただ石しか出てこない尿路結石のような痛みと、新しい命が生まれてくるお産の痛みとがあるのでしょう。主イエスが私共に告げておられるのは、お産の苦しみです。その苦しみが、次の新しい命につながっていく苦しみです。私共の苦しみは、そのような苦しみになるのだと言われるのです。そして、そのような産みの苦しみとなっていくかどうか、その分かれ目は、聖霊を注がれ復活の主イエスと出会うということなのです。この復活の主イエスとの出会いは、私共のまなざしを天の父なる神様へと向けさせます。神の御国へと向けさせます。その時私共は、この苦しみが未来永劫続くものではないことをはっきり知ることとなります。そして、神様が自分に次の何かを備えてくださっていることを確信することが出来ますし、私共の命がこの地上の生活で終わることがないということもはっきり教えてくださいます。次の何か。それを知ることは出来ません。知ることは出来ませんけれど、必ずあるのです。
 先日、前任地の教会員であるご夫婦が訪ねて来られました。お二人で洗礼を受け、二人のお子も後に洗礼を受けました。二人のお子は幼稚園から育った子たちでした。しかし、私が転任する直前に離婚されました。私共夫婦はお二人と何度も何度も話しをしました。何とか離婚されないようにと祈り続けました。百通を超える手紙も書きました。どうしてこんな事が起きるのかと、神様に訴え続けました。しかし、離婚されました。神様は祈りを聞いてくださらないのかと嘆いたこともありました。私共が転任する時の心残りの一つは、このご夫婦のことでした。しかし、先日富山に訪ねて来られ、また二人でやり直しますという報告を受けました。私共夫婦は、これが神様が次に備えておられたことだったのかと、目が開かれる思いでした。

6.祈りの武具を持って
 悲しみ、苦しみ、嘆きの中を歩むことはつらいことです。そのような時を私共は避けることは出来ません。人生には必ずそのような時があるのです。しかし、主イエスはその時は「しばらくの間」だし、必ず神様が備えてくださっている次があることを教えてくださいます。そして、そのことを信じて歩む私共のために、祈ることを教えてくださったのです。23節b〜24節「はっきり言っておく。あなたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」主イエスの名によって父なる神様に祈る。この祈りがなければ、私共は悲しみ、苦しみ、嘆きによって困り果てた中で明日に向かって歩んでいくことは出来ないからです。悲しみ、苦しみ、嘆きの暗闇の中、私共は天上の光を求めて祈るのです。十字架の死を打ち破って主イエスを復活させられた方の全能の力、私共一人一人に注がれている愛に裏付けられた全能の力を信じて祈るのです。これは、主イエスが私共に与えてくださった、最も力ある武具です。悲しみ、苦しみ、嘆きの暗い力に対抗する武具なのです。使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙6章10〜12節でこう言いました。「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」使徒パウロは、自分たちの敵が誰であるのか知っていました。私共から生きる力と勇気とを奪う者。出口のない嘆き、悲しみに私共を押し込める者。彼らの最後の砦は死です。しかし主イエスは、悪魔の最後の砦である死を打ち破り、復活されました。この復活の主が、私共と共にいてくださるのです。だから、主イエスが私共に教えてくださったように、祈りつつ、今「しばらくの間」堪え忍び、持ち堪えましょう。必ず神様が次の何かを備えてくださっているのですから。

[2012年8月19日]

メッセージ へもどる。