富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスの祈りに守られて」
詩編 36編6〜13節
ヨハネによる福音書 17章6〜19節

小堀 康彦牧師

1.私共の教会の祈りの課題
 先週、雑誌『信徒の友』編集部から往復ハガキが届きました。『信徒の友』の「日毎の糧」のコーナーで、私共の教会が「今日祈る教会」に当たるので、祈りの課題を75文字前後で書いて返信してください、というものでした。改めて長老会を開く時間もありませんので、牧師として私が願っていることを三つ書いて送りました。@高齢になった方々の信仰が最後まで守られるように。A求道者が増し加えられ、その方々に信仰が与えられるように。B隣接地の購入に道が開かれるように。この三つです。もちろん、祈るべき課題は挙げれば切りがないのですが、具体的に、しかも75文字という限定がありますから、この三つを記しました。「あなたの教会の祈りの課題を具体的に記してください。」というこの問いを前に、正直な所、少し困りました。祈るべき課題は山とあるからです。教会学校のこと、青年会のこと、奉仕者がもっと起こされること、説教がもっと力あるものになること、北陸連合長老会のこと、東日本大震災で被災した教会のこと、挙げだしたら本当に切りがありません。しかし、その中で私がこの教会の牧師として、今最も心にかけていることは何なのか。そのことを改めて問い直してみました所、この三つになるのではないかと思ったのです。
 求道者が与えられ、さらにその求道者の方々に信仰が与えられるように。これは、伝道者となって26年間、私の中でいつでも最重要の祈祷課題です。全ての営みはそこに向かって為されている。そう言って良いと思います。それは、教会においても同じことでしょう。今日、10月の特別伝道集会のチラシが出来ました。皆さん、友人でも家族の方でも、この人にイエス様を知って欲しい、イエス様の救いに与って欲しい、そういう方がいるでしょう。どうか、その人のために祈って祈って、このチラシを渡してお誘いください。私共はこの福音を伝えるために、先に救われたのですから。決して諦めないでください。
 それと、私共の教会は高齢の方が多くなってきました。玄関に立って礼拝に集う方々をお迎えしておりますと、やっとの思いで教会にたどり着いたという方も少なくありません。また、高齢になられ礼拝に集うことが難しくなってきている人も少なくありません。私の牧師としての願いは、その方々が天の父なる神様の御許に召される日まで信仰を守られることです。そのことをいつも祈り願っています。そして、そのような方々のために何が出来るのか、何をしなければならないのか、そのことを考えています。
 隣接地の購入に道が開かれることも、毎日祈っています。まだ地主さんから良い返事をいただいていません。売ってくれないということになるかもしれません。しかし、祈って祈って、祈りを積み上げてでなければ、「これが御心だ」というようなことは言えないのではないかと思います。皆さんも、どうか毎日祈っていただきたいと思います。
 祈りの課題はいつの時でもいくつもあります。この祈りの課題というものは、私共が何者であり、何を目指し、何を大切なことと思っているのか、そのことが現れる所でもあります。

2.大祭司の祈りの三つの段落
 今朝私共は、主イエスが十字架にお架かりになる前の晩に祈られた祈り、大祭司の祈りと言われる所から御言葉を受けています。主イエスは十字架にお架かりになる直前に一体何を祈られたのか。そこには、主イエスが御自身をどのように理解し、何を目指し、何のために歩んでこられたのかが現れているはずです。そのことを受け止めながら、私共の祈りの課題もまた、見直す時としていただきたいと思うのです。
 このヨハネによる福音書17章は大祭司の祈りと呼ばれる所ですけれど、目で見れば分かりますように、三つの段落に分かれています。ヨハネによる福音書ですから、第一段落はこのこと、第二段落はこのこと、第三段落はこのことというように、祈る内容がはっきり分かれているわけではありません。第一段落の祈りの中に第二段落で祈られることも入っていますし、第二段落の中に第三段落と同じことが入っています。しかし、この三つの段落は、ちゃんと意味があって分けられているのです。それは、この祈りが誰のために祈られているのか、その観点から見ますと、このように分けることが出来るということなのです。
 第一段落は、主イエスが御自身のために祈っている所です。1節に「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」とあります。御自身の十字架を前にして、「栄光を与えてください」と父なる神様に祈っているのです。この祈りから、主イエスは御自身が十字架にお架かりになることを御存知であり、自分はそのために地上に来た。そのように、主イエスは御自身を理解しておられたことが分かります。また、十字架こそが栄光であると受け止められていたことも分かります。
 第二段落は、誰のために祈っている所かと言いますと、9節に「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。」とあります。主イエスは、「わたしに与えてくださった人々のためにお願いします」と祈られていますが、これは主イエスの弟子たち、使徒たちのために祈っているのです。ここで「世のためではなく」とわざわざ言われておりますが、ヨハネによる福音書において「世」と言った場合、それは神様無しでやっていけると思っている世界のことを指しています。この世は、いつの時代でもそうなのでしょう。自分の力、自分の思いでやっていけると思っているし、そういうもので動いている所です。そのようなこの世のためではなく、「わたしに与えてくださった人々のためにお願いします」と祈るのです。神様が主イエスに与えられた人たち、つまり主イエスの弟子たち、この場合は御自分と一緒にいる使徒たちのことを指しています。第二段落は、この主イエスの弟子たちのために祈っているのです。
 そして、第三段落ですが、これは20節に「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」とありますように、使徒たちによって主イエスを信じるようになる人々、つまり教会の人々のために祈っているわけです。

3.使徒たちのための祈り
 さて、今朝与えられておりますのは第二段落の所です。先程、この祈りは「世のためではなく、主イエスの弟子たちのために、使徒たちのために」祈られたものであると申しました。しかし、誤解しないで欲しいのですが、主イエスは「世」はどうでも良いと思っていたのではないのです。ヨハネによる福音書3章16〜17節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とありますとおり、世を救うために主イエスは来られたのです。世はどうでも良いというはずがありません。しかし、順番があるのです。まずは使徒たちなのです。これは、救いの秩序と言っても良いでしょう。神様は、いきなり世のすべての人を救うのではなく、まず使徒、それから使徒によって主イエスを信じるようになる人々、その人々が増し加えられることによって世を救おうとされているのです。
 また、この祈りは使徒たちのために為された祈りなのだから、私共には関係ない、そういうことでもありません。使徒たちのために為された祈りは、現代において主イエスの福音を保持し、それを宣べ伝えるという、使徒たちの働きを担っている私共のためにも祈られた祈りでもあるのです。

4.弟子たちが守られるように
 主イエスはここで何を祈られたでしょうか。第一に、守られることです。11節に「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。」とあり、15節に「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」とあります。主イエスは御自身が十字架にお架かりになって世を去ることを御存知であり、そうなった場合、残された使徒たちが困難な状況に陥ることをも御存知でした。今までは主イエス御自身が使徒たちと共にいて、彼らを守られた。しかし、主イエスが世を去られた後、使徒たちはどうなるのか。イエス様は、この使徒たちが守られるように、父なる神様に祈られたのです。
 もし、使徒たちが主イエスの福音から離れてしまうというようなことになってしまえば、誰がこの福音を保持し、この世に伝えていくのでしょうか。この重大な任務を与えられていたのが、主イエスの弟子たちです。ですから、主イエスは彼らのために祈るのです。「守られるように」と祈るのです。
 では、何から守られるようにと、主イエスは祈られたのでしょうか。「悪い者」です。悪い者とは、悪魔・サタンと理解しても良いと思います。しかし、それに限定することはありません。私共を主イエスの救いから離れさせようとする一切の悪しき力です。困難、苦しみ、嘆き、迫害、それらはどれも私共を主イエスから離れさせる力を持っています。私共が主イエスによってこのように祈りなさいと与えられた「主の祈り」においても、「我らを試みに逢わせず、悪より救い出し給え。」と祈るように教えられています。私共は絶えず、私共の信仰を亡き者にしようとする悪しき力に脅かされているのです。主イエスはそのことを御存知であり、そうならないように祈ることを教え、またそうならないように、私共のために祈ってくださったのです。
 私共は、祈りが聞かれることを信じています。であるならば、まことの神の独り子である主イエスの祈りが聞かれないはずがありません。主イエスが「守られるように」と祈ってくださったが故に、使徒たちは殉教しなければならない状況においても守られ、使徒としての務めを果たし、その信仰を全うしたのです。使徒たちが立派で、意志が強かったからではありません。主イエスが祈ってくださり、その祈りを父なる神様が聞いてくださったからです。
 私共が今朝こうしてここに集っているのも同じです。私共には、自分の信仰を守り続けていく力はありません。まことに誘惑に弱く、すぐに弱音を吐き、どうしてこんな目に遭うのかと、神様に不平を漏らす私共であります。しかし、守られている。ありがたいことです。そこにはこの主イエスの祈りがあるのです。私が牧師をし続けていられるのも同じです。他に理由はありません。主イエスが私共のために、私共の信仰がなくならないように祈ってくださっているからです。
 始めに、高齢になった方々の信仰が最後まで守られるようにというのが牧師としての私の祈りです、と申し上げました。私共の信仰は、主イエスが祈ってくださり、神様がそれを聞いて守ってくださるのだから、何も心配する必要はないし、わざわざ祈る必要はないではないか。そう考える方がおられるかもしれません。しかし、それは理屈です。私は、主イエスが私共のために祈ってくださり、それを父なる神様が聞いてくださっていることを知っています。その事実があるから、私もまた牧師として立ち続けることが出来ているのです。それを百も承知の上で、なお私は祈らないではいられないのです。何故か。牧師だからです。主イエスの羊を守り養うのが牧師の務めだからです。私はこう思うのです。この主イエスの祈りを知った者は、この主イエスの祈りに声を合わせ、心を合わせるようにして祈るしかない。主イエスがなんとしても使徒たちの信仰を守りたいと思ったのと同じように、私共もまた愛する者たちの信仰が守られるようにと願い、祈らざる得ない。それは、私共に主イエスと同じ心を与えられているからだと思うのです。
 「老い」というものは、本当に大変な課題です。私共の人生における最後の危機です。単なる肉体の危機ではありません。信仰の危機なのです。この信仰の危機を、ただ主イエスの御言葉を握りしめて、一人一人しっかり乗り超えていって欲しいのです。悪しき者から守られて欲しいのです。

5.聖なる者にしてください
 第二に、17節「聖なる者としてください。」と祈ってくださいました。これは口語訳では「聖別してください。」となっておりました。聖別というのは、「神様の御用のために取り分けること」を言います。ですから、私共が聖別されるということは、私共が神様の御用のために、神様の栄光のために生きる者となるということです。世の人が持つキリスト者のイメージは、謙遜で、優しくて、穏やかで、親切で、酒も飲まず、というようなことなのかもしれません。しかし、主イエスがここで弟子たちを「聖なる者としてください」と祈られたのは、そのようなイメージの人にしてくださいと祈ったのではないのです。そうではなくて、神様の御用のために、神様の栄光のために、神様との親しい交わりの中に生き切る者としてくださいということなのです。
 主イエスの弟子たちを聖めるのは御言葉です。主イエス・キリスト御自身であり、主イエスの御言葉であり、主イエスの十字架の御業です。これによって、罪人に過ぎない主イエスの弟子たちが、神様のものとされ、聖められ、立てられ、用いられるのです。
 この「聖なる者としてください。」に続いて、18節「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。」と告げられていることからも、この聖めを求める祈りが、聖別を求める祈りであることが分かるでしょう。主イエスによって遣わされた者として、主の御業にお仕えするために生きる者となるということです。
 私共は、主イエス・キリストによって救われました。それは、心の平安を得たとか、家庭が円満になったとか、そういうことではないのです。もちろん、神様はそのような祝福もまた与えてくださるでしょう。しかし、主イエスによって救われたということは、そんなことではないのです。主イエスによって救われたということは、神様のものとされたということです。それは、神様の御用にお仕えする者になったということであり、生きる意味と目的が変えられたということなのです。そのために、主イエスは御自身を十字架の上でささげられたのです。弟子たちが、この十字架の上にささげられた主イエス・キリストと一つにされ、自分もまた神様にささげる者として生きるようになる。それが、主イエスの願い、主イエスの祈りなのです。

6.主イエスの喜びが我が内に満ちあふれる
 最後に、主イエスがお語りになった驚くべき言葉に注目して終わります。13節に「世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」とあります。主イエスが語り、祈られたのは、「わたしの喜びが弟子たちの内に満ちあふれるようになるためだ。」と言われるのです。主イエスの喜び。それは、父なる神様と一つである喜びでしょう。それは、とてもとても、私共が経験する喜びとは全く次元が違うではないか、と私共は思います。それは、おいしいものを食べた時の喜びとか、旅行した喜びとか、高い山を登り切った時の喜びというようなものとは、全く違うはずです。しかし、主イエスは、弟子たちが喜ぶようになるためというのではなくて、「わたしの喜びが弟子たちの内に満ちあふれるためだ。」と言われるのです。
 主イエスの喜びが私共にも満ちあふれるとしたら、それはどんなに幸いなことかと思います。この喜びとは、父なる神様が喜ばれる喜びであり、主イエス・キリストが喜ぶ喜びです。実は私共は、この喜びの一端を既に知っているのです。それは、洗礼者が与えられたときの喜びです。私共はその人のことをたとえ良く知らないとしても、礼拝の中で行われる洗礼式に同席し、不思議と涙が溢れるという経験をしたことがあるのではないでしょうか。これは、不思議な涙です。この洗礼式の喜びは、罪人が神様の御許に立ち帰るという救いの出来事を見る喜びであり、救われた者がその救いを喜ぶことを共に喜ぶ、そのような喜びなのではないです。この喜びは天上の喜びであり、まさに父なる神様の喜びであり、主イエス・キリストの喜びでもあるのです。
 更に、主イエスの喜びには、父なる神様の御心に完全に従うことが出来たという喜びがあったはずです。主イエスは私共にこの無上の喜びに満ちあふれさせようと、私共を召し出してくださったのです。まことにありがたいことです。この喜びに与る者として、この一週もまた、それぞれの場において、主の御業にお仕えしていきたいと思います。

[2012年9月16日]

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