富山鹿島町教会

礼拝説教

「神様の救いの御手に触れた者」
サムエル記 上 2章1〜10節
ルカによる福音書 1章39〜56節

小堀 康彦牧師

1.ハンナの経験
 アドベント第二の主の日を迎えております。今朝与えられております御言葉には、三人の女性のことが記されております。旧約のサムエル記上1章以下にはハンナ、そしてルカによる福音書1章26節以下にはマリアとエリサベトです。この三人の女性に共通していることは、三人とも子を宿したということです。しかも、三人とも不思議なあり方で子を宿した女性なのです。
 ハンナには子がおりませんでした。夫のエルカナは、ハンナが子を産めなくても、「わたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」(1章8節)と言って慰めます。わたしがいるじゃないか。そんなに悩むな。沈み込むな。そう慰めた。しかし、もう一人の夫人ペニナには子がいるわけです。ハンナの嘆きは晴れることなく、主の神殿に詣でた時、彼女は「男の子を授けてください。その子の一生はあなたにおささげします。」と祈ったのです。それは、まことに真剣な祈りでありました。神様はその祈りを聞き届け、ハンナに男の子を与えたのです。その子がサムエルです。サムエルは、後にダビデが王として立てられる時に油を注いだ預言者であり、最後の士師となった人です。このサムエルを主にささげて、祭司エリのもとで神様に仕える者とする時に、ハンナが祈った祈り。それが、先程お読みしましたサムエル記上2章1節以下の御言葉です。
 このハンナの祈りは、後で見ますマリアの祈りと、とてもよく似ているのです。それは、我が身に子を宿すというあり方で、神様の御手に触れた者の祈りだからなのだろうと思うのです。男である私には、正直な所よく分からないのですが、子を宿すということは、しかもそれは自分の体に起きることですから、それこそ体全体で、自分の全生活で、全存在を賭けて、忘れようのない体験として経験するわけでしょう。子を宿すということは、一瞬のことではありません。10ヶ月続くわけです。しかも、その子が神様が祈りに応えて与えてくださった子であるならば、10ヶ月間、寝ても覚めても神様の御業を思わせられるわけです。神様は生きておられる、神様は憐れみに満ちておられる、神様は祈りに応えてくださる、神様の力とはなんと大きなものであることか。そのことを心の底から分からせていただく、そういうことだったに違いないのです。
 ですから、ハンナの祈りは、子が与えられてうれしい、感謝ですというような所を突き抜けて、神様の御業、神様の大きさ、神様の力をほめたたえるというものになっているのです。神様が祈りに応えて子を与えてくださったという出来事が、それを為してくださった神様そのものに対しての信頼と賛美へと昇華しているのです。

2.ハンナの祈り
 1節「主にあってわたしの心は喜び」と、この祈りは始まります。私共の喜びは、自分で生み出すのではないのです。神様が与えてくださるものなのです。私は主にあって喜ぶのです。その喜びは、誰も邪魔することは出来ない。誰もその口を閉ざすことは出来ないのです。
 2節「聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。」とハンナは祈ります。神様だけが力ある方であり、この方だけを私は拝む。この方の前に出れば、どんなに力ある者も、小さな者、取るに足りない者になるしかないのです。だから、3節「驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神、人の行いが正されずに済むであろうか。」となるのです。
 ハンナは更に、神様の御支配を高らかに歌います。6〜8節「主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。弱い者を塵の中から立ち上がらせ、貧しい者を芥の中から高く上げ、高貴な者と共に座に着かせ、栄光の座を嗣業としてお与えになる。」ここでは、マリアの祈りと同じように、社会の逆転を言っているように聞こえますが、そういうことではないでしょう。当時の女性にとって子がいないということは、現代では考えられないほどに、まるで「女性としての価値がない」というような評価を受けていたのでしょう。そのようなハンナに子が与えられ、高くされたのです。そして、それは相対的に、今まで高かったものが低くされるということになるのです。社会はどんどん動いていきます。花形産業だったものが、あっという間に斜陽化する。そういう変化の世の中にあって、いつの時代にも「弱い者」「貧しい者」がいるのです。しかし、神様はその弱い者、貧しい者、小さい者をいつも心にかけてくださっている。その証人がわたしだ。そうハンナは歌っているのです。
 このハンナの祈りの素晴らしい所は、子が与えられたという、全く個人的な喜び、個人的な経験、それを「神様が与えてくださった」という一点から受け取り直して、主の御業の大きさに目を開かれ、主をほめたたえていることなのです。

3.証しする交わり
 先週、アドベント第一の祈祷会が行われました。奨励は婦人会の担当でした。奨励に当たった方はこの一年を振り返り、ご主人の突然の病気、自分の体調不良という中で、しかし神様の守りの中にあったということがはっきり分かる、という証しをしてくださいました。それを聞いた人はみんな、自分の体験と重ね合わせながら聞いていました。そして、ああ自分も守られていたと、改めて主の御手の中にある幸いを思い、共々に主をほめたたえたのです。
 何故、教会は証しをするのでしょう。それは、神様の救いの御手に触れた者は、ハンナと同じように、主をほめたたえないではいられないからでありましょう。そして、証しを聞くことによって、自分の体験が、神様の救いの御手に触れた者に共通であることを知り、共々に主をほめたたえるということが、そこに起こる。もちろん、私共の体験はまことに個人的であって、その人以外に分かりようがない。しかし、それが神様の御手によって起きたことであることを知る者は、個人的な所、出来事の固有性を超えて、その出来事の背後にある神様を見、その出来事を導かれた神様を見る。そして、主をほめたたえるのであります。証しというものは、私共の信仰をもう一度思い起こさせ、主は生きておられるという事実に改めて目を開かせるのです。証しは、私共の信仰を引き起こし、新しくし、強める、そういうものなのです。

4.エリサベトの所に急いだマリア
 さて、ルカによる福音書の二人の女性ですが、一人はエリサベト。彼女は、不妊の女と言われていたのに子を宿します。「不妊の女と言われていた」とありますので、50歳くらいだったのではないかと思います。このお腹の子は、後に主イエスに洗礼を授けることになる、洗礼者ヨハネです。先週、マリアのもとに天使ガブリエルが来て、神様によって身ごもることを告げた場面、いわゆる受胎告知の場面を見ました。この時マリアは、「神にできないことは何一つない。」という天使の言葉によって説得され、納得させられ、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と言ったわけです。その後マリアはどうしたかと言いますと、39〜40節「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。」とあります。マリアはエリサベトの所に行ったのです。しかも「急いで」です。
 一体何がマリアをエリサベトの所に急がせたのでしょうか。それは、天使ガブリエルが御告げを告げた時、「エリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」(1章36〜37節)と言ったからです。しかし、マリアは天使の言葉が本当かどうか確かめようとして急いだのではないと思います。そうではなくて、エリサベトの証しを聞きたかったのだと思います。同じように神様の御手によって子を宿す身となった者同士で話したかったのだと思うのです。このマリアの思いは、信仰者なら誰でも分かるでしょう。神様の救いに与った者は、共に語り合い、共に祈りを合わせたいのです。そのことによって、自分の個人的な体験が、キリストの教会に脈打つ普遍的な信仰と一つになる。そして、共に主をほめたたえるという交わりが、そこに生まれるからです。
 キリスト者は、いつもこの交わりを求め、この交わりの中で信仰を育てられ、訓練されていくのです。交わりと言いますと、すぐに人間同士の仲良しを想像する人もいるかと思いますが、教会において「交わり」と言う場合、それは「キリストにあって」の交わりです。そこには証しと賛美(これは祈りと言っても同じですが)、これがその根底にいつもあるのです。これを失った所では、教会の交わりというものは甚だ人間臭い、愚痴と不平と不満と陰口ばかりが為される所となってしまうでしょう。それではキリストの香りを放つことなど、決して出来ません。

5.マリアの幸い
 さて、マリアが住んでいたのはナザレ村です。一方、エリサベトの家は、夫のザカリアが祭司でしたから多分エルサレムの近くに住んでいたと思われますので、100km以上は離れていたと思います。ちょっと行って来る、という距離ではありません。しかしマリアは、エリサベトに会うために急いで出かけたのです。
 そして、マリアがエリサベトの家に着き、挨拶をしますと、エリサベトは、42〜45節「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と言うのです。エリサベトは、聖霊によって知らされていたのでしょう、マリアが「主のお母さま」であることを知っていたのです。マリアが宿した子が主であることを知っていたのです。そして、マリアの訪問を喜び、そして「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と、マリアに告げたのです。
 エリサベトが告げる幸い、それは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた」者に備えられている幸いです。これは、私共が普通に考えている幸いとは少し違うのです。マリアはまだ結婚していません。そして、神様によって子を宿した。いいなずけのヨセフはそれを信じてくれるだろうか。周りの者たちの目はどうだろうか。自分の親だって信じてくれるかどうか分からない。何というふしだらな娘だ、親不孝な娘だと言われるかもしれない。日常の感覚で言えば、少しも幸いではないのです。しかし、エリサベトは「なんと幸いでしょう。」と言い切るのです。私共に与えられている幸いとは、この幸いなのです。主が言われたことを信じる。それは、主を信じることであります。そこには、主が共におられ、すべての道を拓いていってくださると信じることが出来る幸いがあるのです。私共の見通しや、そこから来る不安や恐れから解き放たれる所の幸いです。私共には、このマリアに与えられたのと同じ幸いが備えられているのです。

6.マリアの賛歌
 マリアはエリサベトの言葉を受けて、神様をほめたたえます。マグニフィカートと呼ばれる大変有名なマリアの賛歌です。マリアはこう語り始めます。47節「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」マリアは、「主をあがめる」と言うのです。この「あがめる」という言葉は、「大きくする」という意味がある言葉です。マリアは「神様を大きくする」と言うのです。神様の大きさ、偉大さ、その力に触れたマリアの思いが表れています。この神様を大きくすることこそ、私共の信仰の根本でしょう。自分が大きくなれば、神様は小さくなるのです。自分が自分がという思いが、神様が神様がというように変わる。これが私共の信仰です。
 48節「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」とマリアは言います。ここは、マリアの謙遜というふうに言われる所ですけれど、この謙遜ということも、よく注意しておかなければならない言葉です。謙遜が悪いと思う人はいないでしょう。謙遜でありたいと私共は思う。しかしその場合、空気を読んで自己主張はしないとか、あまり目立たないようにするとか、そういう外面的なものとして謙遜というものを理解しがちです。しかし、マリアの謙遜とは、信仰による謙遜とは、そのようなものではないのです。マリアは自分を「主のはしため」と言います。これは「主の奴隷女」ということです。私共の考える謙遜では、そこまで自分を低くすることはないと思うのではないでしょうか。マリアはどうして、ここまで言うのでしょうか。確かに、マリアは大工ヨセフの妻となる人ですから、社会的身分は高くはなかったでしょう。しかし、そういうことではないのです。ここで大切なのは「主のはしため」、「主の」と付いている所です。マリアは自分を見て、自分は取るに足らない者と言っているのではないのです。そうではなくて、神様の大きな御業に触れて神様の大きさを知らされた時、自らの小ささを知らされたということなのです。良いですか。人と比べて自分は小さいとか、劣っているとか、そういうことではないのです。神様の大きさの前に、自らの小ささを知らされたのがマリアだったのです。だから、49節「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」と続いているのです。神様の大きさの前に自分の小ささを知らされて、どうして謙遜にならないでいられるでしょうか。マリアの謙遜とは、そういうものなのです。
 私共は、ローマ・カトリック教会のように「マリア様」と言って祈ることはしません。マリアには全く罪が無かったとも思いません。しかし、マリアはその身に主イエスを宿したのです。主イエスを我が身に宿す。それは、マリアにだけ与えられた祝福でした。私共も、信仰において主イエスを宿します。主イエスが私共の中に住んでくださって、御言葉をもって私共を導いてくださいます。この幸いを最も徹底的に知らされたのが、マリアだったのです。マリアは主の言葉を信じました。あり得るはずがないことを、主の言葉ですからと受け入れました。そして、主イエスを我が身に宿しました。主イエスを我が身に宿して生きる最初の人となったのです。そのマリアが、「わたしは主のはしためです。」と神様の御前にへりくだり、神様を大きくし、ほめたたえたのです。
 アドベントの日々、神様が私のために為してくださった御業を数え上げ、主の大きさを思い起こし、主をほめたたえつつ歩んで参りたいと思う。主の御言葉を信じる者の幸いに生き切りたいと思うのです。共々に主の恵みに生かされていることを証しし、主をほめたたえ、祈りを合わせて歩んで参りましょう。

 

[2012年12月9日]

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