富山鹿島町教会

礼拝説教

「主をほめたたえよ」
出エジプト記 15章1〜21節
ルカによる福音書 1章57〜80節

小堀 康彦牧師

1.アドベント第3週を迎えて
 アドベントの第三の主の日を迎えています。先週は、ノアの会のクリスマス会、市民クリスマス、中高生のクリスマス会があり、訪問聖餐もありました。また、家庭集会において、毎日のようにクリスマスの讃美歌を何曲も歌い、クリスマスのメッセージを語ってきました。その中で、まだ教会に来ておられない方から、こんな質問を受けました。「クリスマスというのは12月25日なのに、どうして何回もクリスマスを祝うのですか。」というものです。確かに、私などは幼稚園・保育園のクリスマスなどを加えますと、20回以上クリスマスを祝います。言われてみれば、なるほどと思います。一つには、みんな一度には集まれないので、新年会や忘年会が何度もあるのと同じように、何度もクリスマスを祝うことになるということなのでしょうけれど、それだけではありません。クリスマスというのは、アドベントから1月7日のエピファニーまで一か月にわたるシーズン全体のことで、その頂点が12月25日なのだ、と考えた方が良いと思います。これは、教会生活をしていますと自然に身に付いてくる感覚かと思いますが、教会の中で歩んでいないと、なかなか分かりにくいことなのかもしれません。
 我が家は、アドベントに入る前の、クリスマス・リースを作ったりクリスマス・カードを作ったりする所からクリスマス一色になってしまいますので、人生の10分の1はクリスマスを祝っているような状態です。実におめでたい家なのですけれど、主イエスが私のために来てくださったということは、それ程までに大きいことだということなのです。主イエスを知らなかったなら、私の人生はどうなっていただろうかと思いますと、これほどの肯定感と申しますか、「これで良かった。これで良いのだ。」という思いの中で生きることは出来なかったのではないかと思います。もっとこうだったらああだったらと不平を言い、人と比べてはうらやみ、勝ち組だ負け組だというようなつまらない評価からも自由に生きることは出来なかったのではないか。神様に生かされていることを知り、そのところで喜んで生きることも出来なかったのではないか。そんな風に思います。まさに、「今日あるは、神の恵み。」(コリントの信徒への手紙一15章10節)なのです。そして、クリスチャン・ホームに育ったわけでもなく、キリスト主義学校に通ったわけでもなく、周りには一人もクリスチャンなどいないのに、まことに不思議なように導かれ、キリストの救いに与り、牧師として立てられ、歩んでいる。これはもう、神様の選びとしか言いようがない。本当にありがたいことだと思うのです。

2.神様の御計画の中で
 私共がこのように、クリスマスを喜ぶ者とされた、キリスト者とされている、そこには私共の思いを超えた神様の御計画というものがあるのでしょう。私共は、その神様の御計画というものを知り尽くすことは出来ません。しかし、自分が主イエスの救いに与ったということを思います時に、どうしても自分の思いをはるかに超えた神様の御手というものを考えないわけにはいかないのです。神様の御計画とか、神様の恵みの選びというものは、自分が救われたということを思います時に、自分の信心深さだとか、熱心さだとか、知恵とかいうものでは説明出来ない、納得出来ない、そのことを何とか言い表そうとしたものなのでしょう。神様の御計画とか、神様の選びという概念が先にあるのではないのです。神様の救いの出来事が、私が救われたという事実が、先にあるのです。私共の信仰というものはいつだって、神様の現臨に触れる、神様の救いの御業に与る、そこにしか成立していかないのです。
 今日は、二つの喜びの歌の御言葉が与えられています。一つは、旧約の出エジプト記において記されております、あの海の奇跡の出来事の後でモーセとイスラエルの民が主をほめたたえた歌です。そして、もう一つは洗礼者ヨハネが生まれた時、父である祭司ザカリアが歌った歌です。どちらも、神様の具体的な救いの御業に与った時に歌われたものです。神様は、その救いの御業を成し遂げるために、神の民イスラエルをアブラハムとの契約から生まれさせ、様々な出来事を起こし、人を遣わして来られました。その出来事の中で最も大きなことを三つ上げるとすれば、出エジプトの出来事とバビロン補囚からの解放の出来事、そして主イエス・キリストの到来でありましょう。この三つの出来事は、全く違う時代に全く違う出来事として起きたものであります。しかし、これらの出来事は決してバラバラの出来事ではありません。これらの出来事を貫いている一本の芯があるのです。それが、神様の救いの御意志であり、神様の救いの御計画というものなのです。そして、その出来事に与った者は、神様の現臨に触れ、神様をほめたたえる者とされたのです。聖書は、この神様への賛美に満ちております。そして、神の民とは、この神様をほめたたえる者へと新しくされた者のことなのです。

3.ザカリアの不信仰
 さて、主イエス・キリストが生まれる前に洗礼者ヨハネが生まれたことを、聖書は告げます。救い主が生まれる前に、主の道を備えるために力ある預言者が来ることが、神様に遣わされた預言者によって知らされておりました。神様は、預言者を通して語られたことを成就するため、救い主イエス様の誕生に先立って、洗礼者ヨハネを誕生させたのです。この洗礼者ヨハネの誕生は、主イエス・キリストの誕生が偶然、たまたま、その時であったということではなくて、長い長い神様の救いの御計画に基づいた、神様の救いの御業の成就として為されたことであったということを示しています。
 洗礼者ヨハネの父はザカリアです。彼は、エルサレム神殿に仕える祭司でありました。母はエリサベト。彼女もまた、祭司の家の出でした。この二人には子がありませんでした。二人とも既に年をとっており、エリサベトは不妊の女と言われておりました。ところが、ザカリアがエルサレム神殿の聖所において香をたくという祭司の務めをしていた時に、天使ガブリエルが現れ、ザカリアに向かって「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」と告げたのです。しかしザカリアは、これを信じ受け入れることが出来ませんでした。男の子が与えられるというのは大きな喜びでありますが、彼も妻も年をとっていますし、今更そんなことはあり得ないと思ったのです。まことに常識的な判断です。けれども、彼は祭司です。神様の御言葉を信じ、専らそのために生きるはずの人なのです。にもかかわらず、天使ガブリエルの言葉を素直に受け取ることが出来なかった。ここには、明らかな不信仰があります。それで神様は、ザカリアの口を利けないようにされたのです。
 ザカリアの不信仰、それは神様の御業を自分の常識の中に閉じ込めようとしたことです。しかも、彼は祭司だったのです。しかし、このザカリアの不信仰を笑うことは、私共には出来ません。ザカリアは、神様が天と地の全てを造られたことを信じていたでしょう。モーセが神様によって海の奇跡を起こし、イスラエルの民がエジプトの軍勢から守られたということを信じていたと思います。また、イスラエルが荒野の旅の間中マナによって養われたということも信じていた。しかし、この神様の大いなる力が自分にまで及ぶとは考えていなかったのです。そして、年老いた自分たちに子が与えられるという出来事を信じ受け入れることが出来なかったのです。これは、私共においてもしばしば起きることです。主イエスがおとめマリアから生まれたことは信じる。主イエスが目の見えない人の目を開かれたことは信じる。主イエスが十字架の上で死んで三日目によみがえられたことは信じる。しかし、そのような神様の大いなる御業は過去のことであって、自分の人生とは直接には関係しない。信仰は心の問題であって、現代の日本に生きる自分の日常生活の中に神様の奇跡が起きるなんてことは、とても信じられない。そういう思いが、私共の中にはどこかにあるのではないでしょうか。これはザカリアの不信仰と同じものです。
 しかし、神様はこの不信仰なザカリアを選んで、洗礼者ヨハネの父とするのです。ザカリアは特別信仰深かったから選ばれたのではないのです。これは大切なことです。私共が選ばれたのもそうです。私共が特別善良な人であったり、信仰深かったり、愛に満ちた人であるから選ばれたのではないのです。良き所など私共の中には何一つないのです。しかし、選ばれた。まことに不思議でありがたいことです。

4.口が利けないザカリア
 ザカリアは、ヨハネが生まれるまでの間、口が利けないという状態にされました。ある日突然、口が利けなくなる。それは本当に大変なことだったと思います。私など、一日だって口が利けないなんて考えられません。しかし、ザカリアは十か月もの間、口が利けないままにされたのです。神様はなんてひどいことをするんだと思われるでしょうか。確かにひどいことです。しかし、ここまでのことがザカリアには必要だったということなのではないでしょうか。私共の不信仰というものは、それ程までに根深いものだということなのだと思うのです。
 ザカリアは十か月もの間、口が利けませんでした。その間、エリサベトのお腹はどんどん大きくなっていくわけです。ザカリアは口が利けない中で、神様が本当に生きて働かれる全能のお方であることを毎日毎日思い知らされていったに違いありません。そして、自らの不信仰の罪を知らされたはずです。エリサベトやマリアは、神様の不思議な御業によってお腹に子を宿しました。彼女たちは、我が身に子を宿すというあり方において、神様の現臨に触れたのです。そしてザカリアは、口が利けなくなるというあり方で、神様の現臨に触れさせていただいたということなのではないでしょうか。
 彼は口が利けなくなりました。そのことによって、彼は神様への不信仰の言葉を語ることが出来なくなりました。私共の口は、放っておくと愚痴、不平、不満、悪口で満ちるものです。それらは不信仰の実だからです。でも、不信仰の言葉を閉め出すために、どうして口を利けなくするまでの必要があったのか。そこまでしなくても良いだろう。そんな疑問を持つ方もおられるでしょう。しかし、私は逆にこう考えるのです。不信仰の言葉だけを閉め出すということが出来るものでしょうか。言葉とは心から出るものですから、心が変わらない限り、ザカリアの口から、私共の口から、不信仰の言葉を閉め出すことは出来ないのです。私共は神様をほめたたえるために造られました。この神様への賛美は、神様の御力、御業、御言葉に触れ、神様の御前に徹底的に低くされることがなければ、私共の口から生まれることはないのです。神様は何故ザカリアの口を利けなくされたのか。それは、ザカリアを新しく造り変えるためだったのです。

5.その名はヨハネ
 月が満ちて、エリサベトは男の子を産み、近所の人や親類は喜び合いました。子が生まれるというのは、いつの時代、どの国においても、喜ばしいことであります。そして、八日目になって、律法に従って割礼を施すことになりました。この日に名前を付けるのが当時のユダヤの習わしでした。多分、一族の中の主だった人が名前を付けることになっていたのでしょう。これも当時の習わしに従ってでしょう。この男の子はザカリアと名付けられる運びになりました。ザカリア・ジュニアといった所です。しかし、その時です。母エリサベトが「いいえ、名はヨハネとしなければなりません。」と言ったのです。多分、その当時、母親に自分の子の名を付ける権利というようなものはなかったのではないかと思います。ザカリアもエリサベトも祭司の家の者ですから、祭司の家の慣習、格式といったものもあったのだと思います。名付け親というべき人が立てられる習慣でした。ですから、このエリザベトの言葉に周りの者は相当驚いたはずです。「エリザベト、何を言い出すのだ。」そんな空気が流れたことでしょう。一族の中にそんな名の者はいない。そこで、人々は父ザカリアに、「この子に何と名を付けたいか。」と手振りで尋ねました。板に書かれた答えは、「この子の名はヨハネ」でありました。エリサベトもザカリアも、この子が神様によって与えられたことを知っていました。天使ガブリエルは、「その子をヨハネと名付けなさい。」と最初にザカリアに告げておりました。多分ザカリアは、何故自分が口を利けなくなったのか、その理由を妻エリサベトに筆談で伝えていたのでしょう。二人は、この子を神様の御業によって与えられた子として受け入れたのです。その「しるし」が、ヨハネという名付けだったのです。
 すると、ザカリアの口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めたのです。話せるようになったザカリアの口から出た言葉は、主をほめたたえる言葉でした。彼は、十か月の間に心の底から変えられたのです。神様の現臨に触れ、神様の御前に自らの不信仰を悔い改め、神様をほめたたえる者に変えられたのです。不信仰な者が神様をほめたたえる者に造り変えられる、このことこそ神様の御業です。このことのために、神様の奇跡はあるのです。

6.ザカリアの賛歌
 68節から始まるザカリアの歌は、ラテン語の訳の最初の言葉を取って、ベネディクトゥスと呼ばれ、長いキリストの教会の歴史の中で大変重んじられてきました。このザカリアの歌は、小見出しで「ザカリアの預言」となっているように、単に子が生まれて嬉しいということを歌っているのではありません。神様の救いの御業に触れた者が、主をほめたたえているのです。それは、マリアの賛歌と同じです。
 68〜75節は神様の救いの御業をほめたたえ、76〜79節は生まれる子がどういう人生を歩むかが語られています。今、そのすべてを見る時間はありません。大切な所を数点挙げて終わります。
 68〜75節においてザカリアが主をほめたたえているのは、アブラハムとの契約を覚えて、預言者によって語られてきたとおり、ダビデの家から救い主を起こされた、ということです。69節の「救いの角」というのは、「角」は力の象徴ですから、力に満ちた救い主イエス・キリストを指しています。ここでザカリアは、アブラハム以来の神様の救いの歴史を思い起こして、神様をほめたたえているのです。祭司ザカリアにとって、それらはすべて前から知っていることでした。しかし、知っているということと、それを本当に分かり、本当に信じているということは違うのです。今まで知っていたことが、自分がその神様の救いの御計画の中に立たされることによって、神様の現臨に触れて、本当に分かったのです。だから、「ベネディクトゥス」ほめたたえよ、となったのです。
 76〜79節においては、この男の子がどういう者として歩むかが記されています。76〜77節「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」これは、ヨハネが主の道を備える者として歩むということが言われています。そして、そのことによって何が起きるのか。「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」ということが起きるのです。ザカリアは、神様によって御子イエス・キリストによってもたらされる神様の救いを見て、主をほめたたえて、こう歌ったのです。私共は、このザカリアの預言は正しく、私の上に確かに起きたことを知っています。私共一人一人が朝日に照らされるように、主イエス・キリストの光に照らし出され、死の闇、罪の闇から救い出されて、神様の平和の中を歩む者とされたからです。
 だから、クリスマスは嬉しいのです。喜ばしいのです。主をほめたたえずにはいられないのです。
 次の主の日、私共はクリスマス記念礼拝を守ります。その日までの一日一日を、主をほめたたえる者として歩んで参りましょう。

[2012年12月16日]

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