富山鹿島町教会

クリスマス記念礼拝説教

「飼い葉桶に眠る御子」
ルカによる福音書 2章1〜20節

小堀 康彦牧師

1.受洗者、転入者が与えられて
 今日二人の方が転入会され、一人の方が洗礼を受けられます。転入される方は、もう20年も前から礼拝出席をし、教会学校の教師や聖歌隊の奉仕も長年にわたってしておられる方です。皆さんの中には、「あれっ、教会員じゃなかったの。」と思われる方もあるでしょう。お子さん二人も、当教会で洗礼を受け、今は東京の教会で教会生活をされています。そして、洗礼を受けられる方は、5年ほど前から「あいあいの会」に来られるようになって、それから「ノアの会」に、そして2年ほど前からは礼拝にも集われるようになった方です。二人のお子さんも教会学校に来ておられます。
 私は、この方々と洗礼あるいは転入の準備の時を持ちながら、「時が満ちる」ということを思わされておりました。神様の御業には、神様の御計画があり、神様の時があるということです。私共は、もっと早くとか、まだ早いとか、いろいろ思うのですけれど、神様の御業というものは、私共の思いや都合を超えて、神様の時の中で進んでいくのです。人は、それを早めることも遅くすることも出来ません。

2.神様の時は満ちる
 今朝与えられた御言葉は、主イエスがお生まれになった時のことが記されています。イエス様は、マリアとヨセフが、まだ結婚前のいいなずけであった時に生まれました。これはマリアが聖霊によってイエス様を身ごもられたからで、もちろん最近の「出来ちゃった婚」と同じではありません。しかし人間の目から見れば、まだ早いということになるでしょう。また、イエス様は、マリアとヨセフがベツレヘムという町に人口調査の登録をするために旅をしていたその時に生まれた、と聖書は記すのです。これも、何も旅先で生まれることはないだろうと思う。家で生まれた方が良いに決まっています。しかし、それが神様の時というものなのです。マリアもヨセフも、旅先で出産したかったわけではなかったでしょう。しかし、そうなってしまった。神様の時が満ちたからです。
 6節を見ますと、「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて」とあります。この「月が満ちて」というのは、出産を指していると考えて日本語に訳すとこうなります。しかし、この言葉はギリシャ語から直訳すれば「日が満ちて」「時が満ちて」と訳せる言葉です。出産というものは、早すぎても遅すぎても困ります。時があるのです。マリアとヨセフにとって、それは自分の都合の良い時ではありませんでしたけれど、それが神様の定めた時だったのです。それは神様の時が満ちたということなのです。そして、この神様の時は旧約以来の、もっと言えば天地創造以来の神様の救いの御計画の時が遂に満ちたということが出来ると思います。
 神様の時は満ちるのです。私共の時の感覚は、「過ぎていく」というものでしょう。過ぎていく時、それは文字通り「過ぎ去る」時、一瞬一瞬が過去となっていく時です。しかし神様の時は、未来に向かって進んでいくのです。神様の御計画されている出来事に向かって進んでいくのです。そして、出来事が起きる。そのような時は、過ぎ去る時ではなく、満ちていく時なのです。私共も、単に過ぎ去っていく時に生きているのではなくて、神様の御計画の中で、満ちていく時の中に生かされているのです。私共一人一人にも、神様の御計画というものがあるからです。
 この神様の時が満ちるということについて、私はこんなイメージを持っています。一つの壺があります。そこに、一滴一滴、水が落ちていきます。その壺のどの辺りまで水が入っているのか、外からは分かりません。しかしある時、水がいっぱいになると、その壺から水があふれ出てきます。この水があふれ出るのが、神様の出来事であり、一滴一滴水が壺に落ちていくのが、それが神様の時が満ちるということなのです。いつかは分からない。しかし、いつか必ず水は壺にいっぱいになって、あふれてくるのです。それまでは何も起きません。しかし、この何も起きていないかのように見える時は、神様の時が刻一刻と満ちている時なのです。本日の礼拝には、まだ洗礼を受けていない方も大勢いらしていると思います。その方々の上にも、神様の時が今満ちているところであることを信じて良いのです。

3.飼い葉桶のしるし
 さて、生まれたばかりのイエス様はどうなったかと言いますと、7節「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせた。」と聖書は記します。マリアもヨセフも旅の途中ですから、ゆりかごもベビーベッドもあるはずがありません。そこにあった飼い葉桶に、主イエスは布にくるまれて寝かされたのです。飼い葉桶が主イエスのゆりかごとなったのです。これは、マリアとヨセフがわざわざそうしようと思ってしたことではありません。他に無かったので仕方なく、あり合わせの物で間に合わせたということでしょう。
 しかし、ここにも神様の深い知恵、私共の思いもよらない配慮があったのです。救い主の誕生です。天と地を造られたまことの神の子の誕生です。立派な家の暖かな部屋で、ふかふかの布団に寝かされ、人々の歓喜の声に包まれてしかるべきでありました。讃美歌21の256番の4番の歌詞に、「こがねのゆりかご、錦のうぶぎぞ、きみにふさわしきを」とあるとおりです。しかし、主イエスは飼い葉桶に寝かされたのです。
 このことを、天使はこう言いました。10〜12節「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」「飼い葉桶に寝ている」、これが救い主の「しるし」なのです。こがねのゆりかごでも、錦の産着でもなく、「布にくるまって飼い葉桶に寝ている」、これが救い主の「しるし」なのです。これは一体どういうことなのでしょうか。 それはこの救い主が、人々の上に威圧的な力をもって君臨する王としてではなく、どこまでも人々の下に降られ、どんな人をも下から支え生かす、まことの愛の王として来られた方だということです。天の高みから降られた御子は、地上に人の姿をお採りになるだけでは済まず、その中でも最も低い所まで、これ以上低い所はないという所にまで降られたのです。どんな境遇の中に生きている人も、「神様など、高くて遠くて、私には関係ない。」と言うことがないためです。どんな人の傍らにもおられ、どんな人をも愛し、どんな人とも共に生き、上から下から守り支える方として来てくださったからです。
 この飼い葉桶のしるしは、最後の十字架につながります。イエス様は、犯罪人と共に十字架に架けられて死ぬのです。これは、どんな人とも死ぬまで一緒だということを示しているのです。飼い葉桶で眠る御子は、十字架の上で死なれる御子だということなのです。飼い葉桶に眠る御子は、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(ヘブライ人への手紙4章15節)方なのです。クリスマスは十字架と切り離すことは出来ません。私のために、私に代わって、十字架に架かってくださったお方が生まれた。だから嬉しいのです。だから喜びなのです。この方によって、私が造り変えられたからです。神の子、神の僕として、新しい希望の中に生き、新しい目的と意味と価値とをもって生きる者とされたからです。永遠の命の中を生きる者とされたからです。

4.天上の喜び
 主イエスがお生まれになった時、天使が羊飼いたちに告げました。10節「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」そして告げられたのは、救い主としての主イエスの誕生でした。この主イエスの誕生は、すべての民が与ることの出来る大きな喜びなのです。
 私が幼い頃、クリスマスは自分には関係ないと思っていました。サンタクロースは金持ちの家に来るのだと教えられていました。しかし、クリスマスの喜びは、貧しい人にも、弱い人にも、苦しんでいる人にも、困り果てている人にも与えられているものなのです。サンタクロースの持ってくるプレゼントは、神様が与えてくださった大きな喜びの、ほんのおすそ分けに過ぎません。神様は、どんな状況の中で生きている人をも愛しておられる。その人に代わって愛する独り子を十字架にお架けになる程までに、愛しておられる。この神の愛こそ、私共に与えられている大きな喜びなのです。
 主イエスがお生まれになった時、天使と天の大軍が「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と神様を賛美した、と聖書は記します。クリスマスの喜びは、本来、天上の喜びなのです。神様の永遠の救いの御業が成就することを知らされた天使たちは、大いに喜び喜んだのです。この天上の喜びに触れた者が、クリスマスを喜び祝うようになりました。
 子どものクリスマス会にはサンタクロースが登場します。私は、サンタクロースは天使の一人だと思っています。子どもたちはサンタクロースにいろいろ質問をします。こんな質問もあります。「サンタクロースさんは、クリスマス以外の時は何をしているのですか。」皆さんなら何と答えるでしょうか。私は、サンタクロースはクリスマス以外の時には主を賛美していると思います。何故なら、天上におけるクリスマスの喜びは、イエス様が生まれた時だけのものではないからです。主イエスが生まれて以来、天上ではこの喜びがずっと続いているのです。罪人が一人悔い改める毎に、天上では大きな喜びに包まれます。イエス様が生まれたのは、この救いの出来事を起こすためだからです。世界中で今日は一人も死ぬ人がいなかったという日がないように、今日は一人の罪人も悔い改めなかったという日もないでしょう。その度に、天上では天使たちが喜び喜ぶのですから、天上ではいつも主を賛美し喜び祝っているはずなのです。サンタクロースも、その喜びの中できっと主を賛美しているはずです。
 地には戦いがあり、飢えがあり、病があり、嘆きがあり、涙があり、悲しみがあります。それは時として、私共の日常のすべてを飲み込んでしまうように思われる時もあるでしょう。右にも左にも行けない、前にも後ろにも行けない。進退窮まれり。何をどうして良いのか分からない。そういう時もあります。
 しかし、忘れてはなりません。その時にも私共の上に天は開いているのです。そして天では、最初のクリスマスの日と同じように、主をほめたたえる歌が鳴り響いているのです。私共には天があるのです。八方塞がりのように思えても、いつでも天は開いているのです。ですから、思い出しましょう。そしてクリスマスの讃美歌を口ずさんでみましょう。そうすれば、必ず天からの光が差してくるはずです。クリスマスの讃美歌は、クリスマスの時にだけ歌われるべきものであるなどということはないのです。私は、クリスマスの讃美歌で葬儀をしたこともあります。クリスマスの讃美歌を歌えば、「御子が生まれた。私のために御子が生まれた。だから、私は神様の愛からこぼれ落ちているはずがない。この八方塞がりに見える状況も、神様が道を必ず拓いてくださる。私にはそれがどのようにして成るのか分からないけれど、神様がその全能の御腕をもって道を拓いてくださる。時が満ちるならば、神様の御業を見ることになる。」そう信じられるはずです。
 今、天上の天使の歌声に声を合わせ、私共も主をほめたたえましょう。

[2012年12月23日]

メッセージ へもどる。