富山鹿島町教会

礼拝説教

「三本の十字架」
出エジプト記 32章30〜35節
ヨハネによる福音書 19章16節b〜22節

小堀 康彦牧師

1.クリスマスから十字架へ
 先週はクリスマスの礼拝を共々に守り、主イエスの御降誕を心から喜び祝いました。アドベントに入り、ヨハネによる福音書の連続講解から離れておりましたが、一か月ぶりにヨハネによる福音書に戻ります。与えられております御言葉は、主イエスが十字架にお架かりになった場面です。クリスマスから一気に十字架かと戸惑われるかもしれませんけれど、主イエスの御降誕はこの十字架の出来事と切り離すことは出来ません。私共のために十字架に架かってくださったイエス様の御降誕だから、私共は喜び祝うのです。クリスマスは命が誕生するから喜びの時で、十字架は死ぬから縁起が悪いという話ではないのです。クリスマスと十字架はひとつながりの出来事なのです。神様の永遠の御計画の成就としての私共の救いの出来事、神様の恵みの御業なのです。ですから、使徒信条においても、「聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ」とクリスマスの出来事を告げた後、すぐに「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と十字架の出来事が告白されるのです。

2.十字架を背負われる主イエス
 前回は、「十字架につけられる」と小見出しが付いている所の後半から御言葉を受けましたが、今日はその前半の所から御言葉を受けたいと思います。
ヨハネによる福音書は、他の三つの福音書、マタイ・マルコ・ルカとは少し違った視点から主イエスの歩みを記します。それは今までも何度も確認してきたことですけれど、ヨハネによる福音書は、「主イエスが誰であるのか」ということに集中して神学的、信仰的理解を明確に打ち出して記された福音書であるということです。このことをはっきりさせるために、他の福音書では記されていることが省かれていたり、独自の記事が記されたりしています。それは、この主イエスが十字架にお架かりになる箇所においても同じです。
 17節を見ましょう。「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。」とあります。「自ら十字架を背負い」です。他の福音書では、キレネ人シモンが主イエスの十字架を背負わされたことが記されています。しかし、ヨハネによる福音書はそれを記しません。主イエスは鞭打たれ、背中の肉は避け、血が流れ、とても十字架を背負って歩けるような状態ではなかったと思います。ピラトの総督官邸からゴルゴタまで1km程です。きっとキレネ人シモンが後半は十字架を背負ったのでしょう。しかし、そのことは記さない。
 このゴルゴタという言葉は「されこうべ」を意味するヘブル語ですが、これがラテン語に訳されてカルヴァリとなりました。それが英語にも受け継がれて、讃美歌などではカルヴァリの丘という言い方で用いられています。
 ヨハネによる福音書は、「主イエスが自ら十字架を背負い、ゴルゴタへ向かった」と記すことによって、この十字架に、私共が負うべき一切の罪の重荷を象徴させ、それを主イエスが背負ってくださったということを告げようとしたのでありましょう。主イエスは、嫌々十字架を背負われたのではないのです。自ら背負ってくださったのです。

3.私の十字架
 私共は、逃れることの出来ないような苦しみや困難のことを「これは私の十字架です。」というような言い方をしますけれど、十字架というのは、そのような単純な苦しみや困難などではないのです。十字架とは、私共の罪なのです。何が正しく、何が善きことであるかを弁えず、自分を造ってくださった神様に敵対している私共の罪。よしんば、何が正しいことか、善きことかを知ったとして、それを行うことが出来ない私共の罪。それによって神様との愛の交わりを失ってしまい、飼い主のいない羊のように、自分の人生の本当の目的と目標を見失ってしまっていた私共です。その一切の罪を、主イエスが私共のために、私共に代わって担ってくださったのです。
 主イエスが背負ってくださった十字架は、私共の一切の罪です。ですから、私共が自らの十字架を担うという時、それは自分の罪と戦うということであり、自分以外の者の苦しみや嘆きを自分のこととして受け止めて担っていく愛の業を指すのです。もし、自分でどうすることも出来ない苦しみや困難を自分の十字架と思うならば、その苦しみや困難を神様の御心として喜んで受け止め、その状況の中でも主をほめたたえて生き、他者のために執り成しの祈りを為し、神様の愛の御業の道具として生き切る。そのような歩みをもって主に栄光を帰するということしかないのです。それが自分の十字架を担うということなのです。

4.モーセの執り成し
 先程、出エジプト記32章30節以下をお読みしました。ここには、モーセによって率いられたイスラエルの民が、シナイ山においてモーセが神様から十戒をいただいている間に、山のふもとで金の子牛を造って、これこそエジプトの国から自分たちを導き上った神だと言って拝むという、大変な罪を犯してしまった時のことが記されています。モーセは、山から下り、その光景を見ると、十戒が刻まれた二枚の石の板を砕いてしまいました。そして、もう一度山に登り、神様に執り成しを願ったのです。モーセは、罪を犯したイスラエルの民のために神様にこう願います。32節「今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」モーセは自分の命と引き換えに、イスラエルの民の赦しを願ったのです。神様はこの時、モーセに命を差し出すことをお求めになりませんでした。しかし、はっきりこう告げられたのです。33〜34節「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。」神様ははっきり「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。」と言われました。「わたしの書」とは、神様の許にある「命の書」のことです。この書に名が記されている者は、神様の救いに与るのです。この書に名前のない者は、神様の裁きによって滅びるしかありません。モーセは、自分は滅びてもいいから、イスラエルの民の罪を赦し、滅びから救ってくださいと願ったのです。モーセは、イスラエルの民の身代わり、生け贄となることを申し出たのです。しかし、神様はこの申し出をお受けにならず、モーセの今しなければならないこと、つまり、イスラエルの民を約束の地に導き上る役目を果たしなさい、と言われたのです。
 私共はここで、二つのことに気付かなければなりません。一つは、神様に罪を犯した者は、誰も滅びから逃れることは出来ないということです。ここでイスラエルの民が犯した罪は、神様を捨てて金の子牛を祀ったことです。これを、自らを滅びへと至らしめる重大な罪と思うでしょうか。別に、人殺しをしたわけでも、盗みをしたわけでもないではないか。何でそんなことで怒るのか。そんな感覚が私共の中にはあるかもしれません。しかし、自分を生かし、育み、守り、導いてくださっている生ける神様に対する忘恩、裏切りこそ、最も重大な罪なのです。
 昨日テレビを見ておりましたら、ロンドンオリンピックで金メダルをとったボクシングの村田諒太選手が自分の出身小学校に行って授業をするという番組をNHKでやっていました。彼は、高校時代に良き指導者に出会って現在の自分があるという話をして、君たちも今までそういう出会いが与えられているだろう、あるいは与えられる、その出会いを作文に書きなさい、と言いました。そこで、一人の小学生が、自分のお母さんはいつも自分のそばに居てくれた、この出会いが一番だ、という作文を書いたのです。すると、それを聞いた村田選手が泣くのです。職員室に帰っても泣くのです。自分は、小学生に言われるまで、本当にこんな身近にいた母に感謝することがなかった。そう言って泣くのです。私も泣いてしまいましたけれど、これが忘恩の罪ということなのです。父や母に対してさえも、そのような私共です。まして神様に対して、何という忘恩の罪を犯してきたのかと思う。神様がいるとかいないとか。神様がいなければ、自分もいないのです。そんなことさえ分からない私共です。だとすれば、一体誰が神様の裁きから逃れることが出来るでしょうか。
 第二に、どうして神様はモーセの身代わりの申し出をお受けにならなかったのでしょうか。モーセにはイスラエルの民を約束の地へと導く使命があったから、その使命を全うさせるためだ、という考え方もあるでしょう。しかし、私はそのようなことではなかったと思います。モーセの申し出にもかかわらず、モーセにはイスラエルの民の罪の身代わりとなる、イスラエルの民の罪を担う力がなかったからです。もっとはっきり言えば、モーセではダメだったのです。何故なら、モーセは偉大な人でありますけれど、人でしかなかったからです。イスラエルの人々の罪をすべて担うためには、全く罪のない人でなければならなかった。全く罪のない人。まことの神が人となられた、主イエス・キリストでなければならなかったのです。主イエスは、「聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ」ました。これは主イエスが、まことの神にしてまことの人であることを示しています。主イエスが「聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ」たということは、まことに信じ難いことではあります。しかしこれは、信じても信じなくてもどうでも良いようなことではないのです。イエス様がまことの神でなかったのなら、私共の一切の罪を背負うことなど出来なかったのですし、そうなれば私共の罪はそのままにされ、ただ神様の裁きの前に滅びるしかないからです。しかし、主イエス・キリストは「聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ」てくださいました。まことの神でありまことの人として、私共の一切の罪を背負うために生まれてくださったのです。

5.他の二人と共に十字架に付けられた主イエス
 イエス様の十字架の右と左には、それぞれ十字架が立ちました。主イエスの他に二人の者が主イエスと一緒に十字架につけられた、とヨハネによる福音書は記します。ここにも、他の福音書との違いがあります。三本の十字架が立ったことは皆同じなのですが、他の福音書では、この十字架につけられた者が、マタイとマルコでは強盗、ルカでは犯罪人となっています。常識的に考えて、十字架につけられたのだから、それがどのような犯罪であったにせよ、犯罪人であったのは間違いないでしょう。しかし、ヨハネは、この二人については何の注釈も付けないのです。それは、この二人が犯罪を犯した人だから十字架につけられたのだという以上に、主イエスの十字架は他の二人の人の十字架と共にあったということに重点を置きたかったからなのだと思います。もっとはっきり言えば、この主イエスと共に十字架につけられた人とは、罪人である私共すべてを表しているとヨハネは告げようとしているということなのです。
 先程、出エジプト記32章33節の「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。」との神様の言葉を見ましたが、それに続いて神様は「わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」と言われました。彼らは、モーセの執り成しによって赦されたのではないのです。罰するまでの日を引き延ばされただけです。その神様の罰とは、具体的には、このように罪を犯した者として裁かれ、滅びるということなのです。私共にそんなつもりがあったか無かったかは関係ないのです。しかし、ここで主イエスも一緒に十字架につけられています。このことには二つの意味があります。一つは、神様の裁きによってこの十字架の上で滅びるしかない私共に代わって、主イエスは十字架に架かってくださったということです。本当は、右と左の十字架につけられた人のように、私共も十字架につけられなければならない者であるにもかかわらず、全く罪のないまことの神であられる主イエス・キリストが十字架に架けられたので、もはや私共はそのような裁きを受けず、この裁きから救われたということです。
 第二に、主イエス・キリストというお方は、クリスマスに飼い葉桶で眠られたように、最も低い所にまで下ってくださり、罪人を招き、どんな罪人をも見捨てることなく、共に歩んでくださるお方だということを示しています。牧師をしておりまして、時々こういう言葉に出会います。「私のような者が教会に行って良いのでしょうか。」その言葉を聞くと、私は「どのような者なのですか。」と問うのですけれど、大抵、どうしてそんなことで躊躇するのかと思うような答えが返ってきます。家が仏教ですとか、毎週礼拝に行けるか分かりませんとか、まだ聖書を読んだことがありませんとか。そんなことはどうでも良いことでしょう。イエス様は、どんな罪人をも見捨てず、死に至るまで共に歩んでくださる方なのです。私共は弱く愚かでありますから、具体的な状況の中で、どうすることが神様の御前に善きことであるのかをしょっちゅう見失います。いや、神様のことなど考えることなく、どうすれば上手くいくのかしか考えなかったり、自分は正しいけれど相手は間違っているという思いから自由になれずに苦しむことが多いのです。それは間違いなく、私共が罪人であることの「しるし」です。しかし、たとえそうであっても、主イエスは私共を見捨てずに共に歩んでくださり、「悔い改めよ。立ち返れ。神の子、神の僕として歩み直せ。」と語り続け、招き続けてくださっているのです。この招きが無くて、どうして私共は今朝ここに集うことが出来たでしょうか。私共は今朝もこの主イエスの招きの言葉を聞くのです。そして、「主よ、あなたこそ私のただ一人の主です。あなたによって私は神の子とされました。ここからまた新しく歩んでまいります。私共の歩みのすべてを、御手の中に置いてください。」そう祈るのでしょう。
 何度も言います。あなたの罪は赦された。主イエスの十字架によって赦された。主イエスはあなたを決して見捨てない。だから、神の子としてふさわしく、今ここから新しく歩み出しなさい。忘恩と裏切りの罪の中にとどまっていてはならない。 

[2012年12月30日]

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