富山鹿島町教会

礼拝説教

「完了」
イザヤ書 55章8〜11節
ヨハネによる福音書 19章28〜30節

小堀 康彦牧師

1.十字架の下で、十字架を見上げて捧げる礼拝
 今朝、私共に与えられております御言葉は、主イエス・キリストが十字架にお架かりになった場面です。この御言葉によって、私共は十字架にお架かりになった主イエスを仰ぎ見、そこに示された神様の愛、私共の救いをしっかり受け取り、2013年の新しい歩みを主の御前に始めてまいりたいと願うものです。
 主イエスが十字架に架けられ、死なれた。このことは、改めて言うまでもないほど、私共にとりまして信仰の中心であり、私共の救いの根拠であります。それは、すべてのキリストの教会に、十字架が高く掲げられておりますことからも明らかです。私共の教会においては、講壇の後ろの壁が十字に切ってあり、そこから外の光が入ってくるようになっています。この礼拝堂には、他に一切の装飾らしきものはありません。この礼拝堂に入ると、自然とこの十字架に目がいくようになっている。私共は、この十字架を仰いで礼拝を捧げるのです。そしてこの講壇で語られることは、この十字架の下で告げられる言葉であり、主イエスの十字架に向かって人々を招くため以外のものではないのです。今朝私共は、主イエスが十字架にお架かりになった場面の御言葉を受けますけれど、たとえそうでない時にも、私共は主イエスの十字架を見上げ、この十字架にお架かりになった主イエスを仰ぎ、拝み、礼拝をささげているのです。それ以外に私共の礼拝は捧げようがないのです。

2.渇く
 主イエスの十字架について、マルコによる福音書は、午前9時に十字架につけられ、午後3時に息を引き取られたと記しております。つまり、主イエスは6時間にわたって十字架の上で苦しまれたということなのです。このことは、しっかり覚えておかなければなりません。一瞬にして息絶える、そのような死に方ではなかったのです。両手、多分手首の辺りに釘を打たれ、そこから流れ出る血によって、出血多量で死を迎える。そういう死に方だったのです。十字架は最も残酷な処刑の仕方であったと言われます。それは、最も長く死の苦しみを味わわなければならなかったからです。その苦しみの中で、主イエスは「渇く。」と言われたのです。体内から血が流れ出て、異常なほど水分を失った体は、渇きに渇いたのです。主イエスが味わった渇きは、人間が経験する最も激しい渇きであったに違いありません。救い主の受難を預言した詩編22編16節には、「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。」とあります。主イエスの口の中は、素焼きのように全く水気がないほどに渇いたのです。
 この渇きは、主イエスが私共と同じ肉体を持っておられたということ、そして主イエスは私共の誰もが味わわなければならない死の苦しみを味わわれたということを示しております。主イエスが私共と同じ肉体を持ち、私共と同じように肉体の死という苦しみを味わわれたということは、私共がどんな苦しみの中にある時でも、主イエスは同じ苦しみを知っているお方として、私共と共にいてくださるということです。
 私は牧師として、多くの方の死に立ち会ってきました。死を迎えるということは、本当に大変なことです。しかし、その度に思うことは、主イエスは今、この人の苦しみを知っている方として、この人と共にいてくださっているということです。この主イエスが私共と共にいてくださるとは、私共がどんな状況の中にあっても共にいてくださるということなのです。「イエス様は、こんな私の苦しみは分からないだろう。」そう言いたくなる私共に向かって、主イエスは十字架の上から、「わたしは知っている。あなたの苦しみを、痛みを、嘆きを、わたしは知っている。」そして、「わたしはあなたと共にいる。私はあなたを見捨てない。」そう言ってくださるのです。
 私共が味わう、どんな苦しみも痛みも嘆きも、主イエスは知っておられる。主イエスが十字架に架けられた時、十二弟子の一人であったユダが裏切りました。一番弟子のペトロでさえ、主イエスを知らないと三度まで申しました。主イエスは、最も愛する者に裏切られるという苦しみ、嘆きをも味わわれた。だから、私共はどんな状況の中にあっても、この方の前に出るならば、十字架に架けられた主イエス・キリストの前に立つならば、自分が孤独ではないことを知るのです。誰も分かってくれない。いいえ、主イエスは分かってくださっている。私はひとりぼっちだ。いいえ、主イエスは共にいてくださる。

3.主イエスは何故渇かれたのか
 主イエスは十字架の上で「渇く。」と言われた。しかし、主イエスは、ヨハネによる福音書4章において、シカルという町の井戸に水を汲みに来た女性に、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と言われた。決して渇くことのない水を与えることの出来る方が、ここで渇いている。どうしてでしょう。
 主イエスが与える水とは信仰によって渇きをいやす水、霊の水であり、ここで主イエスが渇いているのは肉体の渇きだから事柄が違う。そういう説明も出来るでしょう。しかし、それでは十分な説明にはなっていません。主イエスというお方は、まことの神であられますから、本当は自ら渇くことのない方であって、必要とあらばいつでもどこでも水を得ることが出来たのです。十字架から降りることだって出来た。しかし、そうはされなかった。渇くはずのない方が、ここで渇かれたのです。人間が味わう、最も激しい渇きを我が身にお受けになったのです。それは、私共が渇くことがないようにするためでした。私共が渇かないでよいように、私共の一切の渇きを引き受けて、自ら激しい渇きを味わわれたのです。
 私共が味わう渇き。それは愛を求める渇きであり、平安を求める渇きであり、神様との交わりを求める渇きであり、真実を求める渇きであり、明日への希望を求める渇きであり、我が子の将来を案じる渇きでありましょう。その一切の渇きから私共を解き放つために、主イエスは十字架の上で激しい渇きを我が身に引き受けられたのです。
 29節を見ると、「そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。」とあります。「酸いぶどう酒」というのは、ぶどう酒は古くなると酢に変わっていくわけですが、その途中のものでしょう。これは何のために用いるかというと、気付け薬と言いますか、あまりの痛み、苦しみのために気を失う者が出る。そうすると、これを飲ませて、正気に戻らせるわけです。どうしてそんなことをするのかと言えば、死に至る苦しみから逃れさせないためです。イエス様は、これを受け取られたのです。最後の最後まで、この苦しみ、痛みから逃れようとせずに、これを引き受けられた。それは、私共が渇くことがないためです。私共の一切の渇きを我が身に引き受け、「あなたの渇きは、わたしがすべて引き取った。だから、あなたはもう渇くことがない。わたしから受けよ。永遠の命に至る水を受けよ。」そう告げるためでした。

4.成し遂げられた
 そして、主イエスは最後にこう言って息を引き取られたのです。「成し遂げられた。」これは、口語訳では「すべては終わった。」と訳されていました。この言葉は、なかなか訳すのが難しい言葉です。直訳すれば「終わった。」という一言なのです。しかし、この「終わった」と訳すだけでは十分ではないと考え、「すべては」という言葉を加えて訳したのでしょう。というのは、この「終わった」という言葉は、ある目標、目的があって、それを達成し終わったという意味の「終わった」なのです。ですから、「完成した」「完了した」と訳しても良いのです。まだ途中だけれども、もう時間がないのでこれで終わり。そういう意味ではないのです。これですべてが完了した、完成した、だからこれで終わり。そういう意味です。それで、新共同訳では「成し遂げられた。」と訳したのです。
 主イエスが十字架の上で息を引き取られたことによって、一体何が完成、完了したのでしょうか。それは、神様の救いの御業です。イエス様がクリスマスに馬小屋でおとめマリアから生まれ、様々な奇跡を行い、様々な教えを聞かせ、人々を神様の御許に招き続けてきた。その救い主としての為すべきすべての業が完了したということです。
 フィリピの信徒への手紙2章6〜11節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」とあります。これは、キリストの教会が生まれて間もない頃に教会の礼拝の中で用いられていたとされる、主イエス・キリストをほめたたえる最も古い歌の一つと考えられているものです。ここで、主イエスは神の身分でありながら、自分を無にして、僕の身分、つまり人間となられたと言われています。これがクリスマスの出来事であります。そして、それに続いて、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と歌うのです。誰に従順であったかと言えば、言うまでもなく、神様に対してです。主イエスは、神様に従順に従って十字架にお架かりになったということです。イエス様の十字架は、人間の目から見れば、ファリサイ派の人々や祭司長たちによって捕らえられ、ローマ帝国の権力によって十字架に架けられたと見えるでしょう。しかし、本当はそんなことではなくて、神様の救いの御計画によって、イエス様はその神様の御計画を承知して、それに従って十字架にお架かりになったということなのです。だから、イエス様は十字架の上で息を引き取られる時に、「成し遂げられた。」完了した、完成した、と言われたのです。
 先程、イザヤ書55章8節以下をお読みしました。8〜9節に「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」とあります。罪人を赦すために神の独り子を人間として遣わし、十字架につけられる。このような神様の思い、神様の道を誰が思うことが出来たでしょう。神様の思い、神様の道は、私共を遥かに超えています。更に11節には「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」とあります。この「わたしの言葉」というのは、神様が預言者を通して告げてこられた言葉、聖書の言葉と読むことが出来ますが、「まことの神の言葉である主イエス・キリスト」と読むことも出来るでしょう。主イエスは、神様の望むことを成し遂げ、神様が与えられた使命を果たされたのです。だから、「完了した」「完成した」なのです。
 この十字架によって完了した主イエスの救いの業とは、私共のために、私共に代わって、神様の裁きをお受けになることでした。全く罪のない神の御子、神そのものであられるイエス様が、最も厳しい十字架という刑罰をお受けになることによって、私共の身代わりとなってくださったのです。主イエスによる救いの業はここに完了したのです。

5.十字架に続く神様の御業
 主イエスの救いの御業は、十字架によって完了しました。しかしこの後、父なる神様の御業が、この主イエスの業に続くのです。それが復活です。フィリピの信徒への手紙2章9節「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」とあります。この「高く上げ」というのは、十字架の後の、主イエスの復活そして昇天を指しています。主イエスは十字架の上で死なれました。しかし、それですべてが終わったのではないのです。復活そして昇天と続き、昨日も今日もとこしえに変わらぬ方として、天の父なる神様の右に座しておられるのです。
 先程、主イエスの十字架を見上げるならば、そこから主イエスが私共に語りかけてくださる御言葉を聞きました。「わたしは知っている。わたしは共にいる。わたしは決してあなたを見捨てはしない。」この言葉は、十字架の上で死んでしまい、それで終わりという方の言葉であるならば、何の力も意味もないのです。単なる気休めにもなりはしません。しかし、この言葉は、十字架の上で死に、そして三日目に復活して、今も天と地のすべてを父なる神様と共に支配しておられる方の言葉なのです。だから、私共は大丈夫なのです。この方の御手の中に守られ、生かされているからです。死に至る苦しみさえも、この方と一緒なら大丈夫だと言えるのです。  主イエス・キリストの十字架によって、私共の救いに必要な手続きは完了しました。ですから、私共は善い人になって、優しい人になって、善い行いを積み上げて、初めて救われる、そういうことではないのです。私共は、救われるために何も求められていません。イエス様がすべてを完了してくださっているのです。私共は、ただこの恵みを感謝をもって受け取るだけなのです。この恵みに感謝して生きるだけなのです。
 この主イエスの救いの御業に感謝して生きるということは、この恵みを無駄にしないように生きるということです。まるで救われていないかのように、神様など関係ないというように生きないということです。そんなことは、私共には最早出来ないのです。私共はただ、「イエス様、あなたは私を神の子としてくださるために、私に代わって十字架の上で苦しみを受け、神様の裁きを引き受けてくださいました。ありがとうございます。だから、私は神の子として、神の僕として歩んでまいります。この世の誘惑に負けず、あなたの御国に向かって歩んでまいります。」そう応えるしかないのではないでしょうか。
 私共は今から聖餐に与ります。主イエス・キリストの体と血とに与る、主イエス・キリストの命に与ります。この聖餐に盛られているキリストの体とは、十字架にお架かりになられた主イエスの体です。この血潮は、主イエス・キリストが十字架の上で流された血です。これを食べ、これを飲むということは、あの十字架にお架かりになり、復活された主イエス・キリストが、私共の中に入り、私共と一つになってくださり、どんな時も、死に至るまで、いやこの肉体の死をも超えて、私共と共にいてくださるということなのです。信仰を新たにされ、感謝の中、共々にこの聖餐に与りたいと思います。

[2013年1月6日]

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