富山鹿島町教会

礼拝説教

「あなたはわたしを愛するか」
申命記 6章4〜5節
ヨハネによる福音書 21章15〜17節

小堀 康彦牧師

1.愛を問う
 復活の主イエスはペトロに対して、「わたしを愛しているか。」と三度問われました。愛を問う。これはとても厳しい問いです。いいかげんな答えを許さない問いです。相手の答え次第によっては、今までの関係がすべてご破算になってしまう、そのような問いです。問う方も問われる方も真剣にならざるを得ません。ここで主イエスがペトロに問うているのは愛です。わたしを誰だと思うか、というような問いではありません。わたしを神の子と信じるか、わたしを神とあがめるか、わたしを信頼するか、と問うているのでもありません。愛しているか、と問うのです。私共は、この主イエスの問いをしっかり受け止めなければなりません。この問いは、ペトロに対しての主イエスからの最後の問いです。私共は主イエスをまことの神と信じ、あがめ、礼拝しています。主イエスの力と御支配に信頼し、主イエスの御名によって父なる神様に祈りを捧げています。その私共に今朝、主イエスは「わたしを愛しているか。」と問うておられるのです。私共はなんと答えるのでしょうか。
 私共が愛を問われる場面として思い起こすのは、結婚式の場面でしょう。そこで問われる愛とは、その時の気分、気持ちといったものではないでしょう。自分の将来を含めた決断、意志、志といったものも含んでいます。それがなければ結婚は出来ません。また、愛というものは、私共の存在の根底においてその人と深く結び合わされることを意味します。その人なしには生きられない、その人なしの自分を考えることが出来ない、というほどの深い結びつきです。主イエスはそのような愛を問うのです。私は、「信仰は頭で理解することではない。」としばしば申します。それは、理解することが不要だと言っているのではありません。聖書を読み、そこに記されていることを理解し、整理し、考え、組み立てるという作業を私もしてきましたし、今もしています。たくさんの本も読みます。しかし、ある神学者が「信仰における理解は誤解である。」と言いました。私共が理解したつもりになっているキリスト教やキリスト教神学というものは、神様の光に照らし出されれば、誤解に過ぎなかったことが明らかになるというのです。私共の信仰の歩みは、この誤解に過ぎないことが明らかとなるような、頭での理解によって導かれるものではないのです。そうではなくて、愛です。主イエスに愛されている。主イエスを愛する。この愛によって突き動かされ、導かれていくのです。主イエスはそのことを教えようとして、弟子の筆頭であるペトロに愛を問うたのではないでしょうか。
 使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の13章の最後で「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と告げました。そして、14章1節「愛を追い求めなさい。」と続きます。これは、まさにそのことを語っているのでしょう。先週の長老会において、この聖句を2013年度の教会聖句とすることが決まりました。愛を追い求める。主イエスに愛を注がれ、主イエスを愛する。主イエスに愛を注がれ、隣人を愛する。この愛がいよいよ豊かにされるように、私共は願い求めていきたいと思うのです。

2.三度問う
 さて、主イエスはここでペトロに対して、15節「この人たち以上にわたしを愛しているか。」と問われました。「この人たち以上に」というのは不思議な言い方です。元のギリシャ語には「この人たち以上に」とは記されて無く、「これら以上に」とあるだけです。だから、「この人たち以上に」ではなくて「これらの物以上に」と理解し、「これら」とは、その場にいた他の弟子たちを指しているのではなくて、そこにあった舟や魚を指していると理解すべきだと言う人がいます。でも私はそうではなくて、この新共同訳のように、「この人たち以上に」と理解して良いと思っています。と申しますのは、この主イエスの問いは、ペトロが三度主イエスを知らないと言った出来事と深く結びついていると思うからです。マルコによる福音書14章29節において、ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」と言いました。それに対して主イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と言われました。そして、その通りになってしまいました。
 ペトロは、「この人たち以上にわたしを愛しているか。」と主イエスに問われた時、それが主イエスを三度知らないと言う前であったら、「もちろんです。」と自信を持ってはっきり答えたに違いありません。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」と言ったのと同じように、自信を持って答えたでしょう。しかし、この時のペトロは、そのように答えた自分が結局主イエスを三度知らないと言ってしまった、その出来事がまるで無かったかのようにここで主イエスに答えることは出来なかったのです。そして主イエスもまた、あの発言、あの出来事を思い起こさせようとして、あえて「この人たち以上に」とペトロに問うたのでありましょう。
 愛は人と比べるものではない。その通りです。そんなことは、イエス様は百も承知です。承知の上で、ペトロに、あの発言、あの出来事を思い起こさせるために、主イエスはあえてこう言われたのです。だから、三度なのです。
 ペトロは三度も主イエスに「愛しているか。」と問われて、悲しくなった。その悲しみは、わたしはイエス様に信用されていないのかという悲しみだけではなくて、三度知らないと言った自分の姿を思い起こさせられて悲しくなったということなのではないでしょうか。ペトロが主イエスを三度知らないと言った所での説教でも申し上げましたように、三度主イエスを知らないと言ったということは、単に三回言ったということではないのです。そうではなくて、もう否定できないほどに、完全に、徹底的に、言い訳が出来ないほどにということです。ということは、ここで主イエスが三度問うたということもまた、徹底的に、もう打ち消すことが出来ないほどに問うたということなのです。そして、ペトロの口から「愛している」という言葉を三度引き出したということなのです。主イエスを愛すると言ったことを、もう決して否定出来ない、忘れることが出来ないようにと問うたということなのです。ちょうど、三度知らないと言ったペトロの罪を打ち消すように、主イエスは三度愛を問い、ペトロに三度「愛している」と答えさせたということなのです。この愛を三度問うというのは、大変厳しい問い方です。しかし、ここで主イエスは、ペトロとの間の愛を徹底的に揺るぎないものにしようとされたということなのです。三度主イエスを知らないと言ったペトロを徹底的に赦し、御自身との愛の交わりを確かにし、新しい者にしようとされたということなのです。

3.二つの愛
 この主イエスのストレートな問いに対して、ペトロの答え方には口ごもったところがあります。それは、三度知らないと言ったペトロは、もう自分の意志や思いに自信がなくなったからです。
 主イエスは「わたしを愛しているか。」と問われますが、この「愛」はアガパオーという「神の愛」を意味する動詞です。それに対して、ペトロが「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答える「愛」は、友情や親子の愛を示すフィレオーという動詞です。この二つの動詞は、ヨハネによる福音書においては、それ程違った意味に使われてはいないという見解もあります。しかし、ここではペトロが主イエスに問われた神様の愛を示す言葉では答えることは出来なかった、そう考えるのが自然でしょう。ペトロの「愛している」という言葉は、「好きです」と訳しても良いのではないかと思います。
 ここでペトロは、「わたしはあなたを愛しています。」と率直に普通に答えることが出来ませんでした。彼は「わたしがあなたを愛していること、好きなことは、あなたがご存じです。」という言い方しか出来なかったのです。それは、「三度あなたを知らないと言ったわたしであることを、あなたはご存じです。そんなわたしですが、それでもわたしはあなたが好きなのです。とても神様の愛のように、父なる神様がその独り子を十字架に架けてまで私共を赦さんとて愛してくださった愛のように、あなたを愛することは出来ません。そのことをあなたはご存じです。すべてを捨てて愛することなど出来そうもありません。しかし、あなたが好きなのです。そのこともあなたはご存じではないですか。」そうペトロは言ったということなのです。
 私共もそうではないでしょうか。主イエスに愛を問われ、「私はすべてを捨ててあなたを愛します。」と自信を持って答えることが出来る人はいないでしょう。しかし、私共はイエス様が好きなのです。
 イエス様は三度目の問い(17節)において、日本語に訳してしまえば同じ問いになってしまいますが、一回目、二回目とは違う言葉、アガパオーではなくて、ペトロが使ったフィレオーを使って問うておられます。それは、主イエスがペトロの「好きです」という答えを受け取って、「それで良い。」と言われたのではないかと、私は思うのです。
 主イエスはペトロの愛の不徹底さ、私共の愛の不徹底さを御存知なのです。そして、その不徹底な愛を受け取ってくださり、その愛を強く豊かにしようとしておられるのです。こう言っても良い。この三度まで愛を問うというあり方において、ペトロの中に、そして私共の中に、愛と呼べるほどのものはないことを明らかにしつつ、それでも主イエスはそのあるか無きかの愛を受け取ってくださり、愛の交わりの中にペトロを、私共を置こうとしてくださるということなのです。主イエスがペトロを、私共を、アガペーの愛の交わりの中に招いてくださっているということなのです。私共の中に愛はなかった。しかし、私共の中に愛は注がれ、私共の中に愛が育っていくのです。それは結婚と同じです。愛があるから結婚するのではありません。私共の中に愛と呼べるほどのものなどないのです。しかし、結婚し、祈り合い、支え合う中で愛は育まれていくのです。イエス様が育んでくださるのです。

4.わたしの羊を飼いなさい
 主イエスは、ペトロに「わたしの羊を飼いなさい。」と命じられます。ペトロは元々人間をとる漁師として召された人です。これは伝道者として召されたと言い換えても良いでしょう。そして復活の主は、ここで「わたしの羊を飼う」という役目をペトロにお与えになったのです。これは牧会者として召されたと言っても良いでしょう。伝道者として召されたペトロが、ここで牧会者としても召されたということです。これは、単にペトロ個人に与えられたというよりも、キリストの体としての教会に伝道と牧会という二つの務めが与えられたということなのだと思います。
 「釣った魚に餌はやらない」という言葉があります。釣った魚は食べてしまうのですから、餌は与えません。しかし、ペトロに与えられた人間をとるという伝道は、そういうものでないことは言うまでもありません。伝道とは、その人が神様に造られた神様の似姿を持つ者、神の子、神の僕としての本来の姿を回復するということ、神様のものとするということです。そして、その後は神の国に向かって、救いの完成に向かって養い、育んでいくのです。それが牧会です。伝道は、伝道だけで完結しないのです。その後の牧会とひとつながりの、神様の救いの御業なのです。主イエスを知らない人に対しては伝道と言い、信仰が与えられている人に対しては牧会と言う。それだけの違いです。
 主イエスは、御自身を「わたしは良い羊飼い」(ヨハネによる福音書10章11節)と言われました。良い羊飼いは、羊のために命を捨てるのです。それが十字架を指していることは言うまでもないでしょう。ここで主イエスは、御自身が十字架の血をもって罪から救い出した御自分の羊を、ペトロに託したのです。これほどの信頼があるでしょうか。主イエスが十字架をもって為された救いの業を、ペトロに託したのです。それはペトロがその任に堪える者であったからではありません。主イエスを三度知らないと言ってしまう人が、どうして自分の羊のために命を捨てることが出来るでしょうか。出来ないのです。では、出来ないことを承知で、主イエスはこの務めをペトロに与えられたのでしょうか。そうではありません。主イエスは、この務めをペトロに与えるにあたって、愛を問うたのです。これが大切なのです。主イエスの羊を飼うためには、意志の力、指導力、見識の高さ、自己犠牲、そういう種々の能力が求められると考えられがちです。確かに、そのような能力があれば、それはそれで素敵なことでしょう。しかし、主イエスが問うたのは愛なのです。しかもそれは、主イエスに対する愛です。この主イエスを愛するというところにおいて、すべては与えられていくのです。主イエスが与えてくださるのです。
 主イエスが飼いなさいと言われたのは、「わたしの羊」です。主イエスの羊なのです。ペトロの羊ではありません。ペトロ自身、主イエスの羊なのです。ペトロに求められたのは主イエスの羊を飼うことです。つまり、主イエスの羊の群れが、主イエスの声を聞き分け、主イエスの声に従う群れであり続けるようにするということです。必要のすべては主イエスが備えてくださるのです。どこに水があり、どこに草があるかを主イエスはご存じです。主イエスはそこに私共を導いてくださいます。主イエスの羊を飼う者に求められているのは、その主イエスの導きの声に従うことです。ペトロに求められているのは、この主イエスの声をしっかり聞き分け、迷う羊が出ないようにすることなのです。
 この主イエスの声を正しく聞き分ける唯一絶対の条件、それが主イエスを愛しているということなのです。愛がなければ言葉は通じません。主イエスが聖書を通して語られる言葉をしっかり聞くために必要なのは、主イエスへの愛なのです。この愛がなければ聖書は分からないし、聖書を通しての語りかけも聞こえてはこないのです。そして、主イエスを愛する者は、主イエスの羊を愛さないではいられないのです。そこに、愛の交わりが形作られ、主イエスの愛によってうち立てられるキリストの体としての教会が建っていくのです。
 愛を追い求めてまいりましょう。主イエスを愛する愛を、主イエスから注がれる愛を、主イエスの羊を愛する愛を、隣人を愛する愛を、神様が私共にいよいよ増し加えてくださいますように。

[2013年3月10日]

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