富山鹿島町教会

礼拝説教

「それぞれの召しに従って」
イザヤ書 6章1〜8節
ヨハネによる福音書 21章18〜25節

小堀 康彦牧師

1.ヨハネによる福音書の結論
 2011年の2月から御言葉を受け続けてきましたヨハネによる福音書が、今回で終わります。その意味では、今朝のメッセージはヨハネによる福音書の結論と言っても良いかもしれません。「初めに言(ことば)があった。」から始まりまして、主イエスというお方が誰であるのかということに集中して記されていた福音書でした。この福音書にしかない、独特の表現もたくさんありました。「わたしは○○である。」という印象的な御言葉がありました。「わたしは命のパンである。」「わたしは世の光である。」「わたしは良い羊飼いである。」「わたしは門である。」「わたしは復活であり、命である。」「わたしはまことのぶどうの木。」「わたしは道であり、真理であり、命である。」などです。主イエスが与えられた「互いに愛し合いなさい。」という新しい掟もありました。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる。」という表現もありました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。」との御言葉もありました。数え上げればきりがないのですが、主イエスというお方がまことに救い主である、神の御子である、ということを明らかにしようとして、主イエスのお語りになったこと、為された業をヨハネによる福音書は記してきた。そして、その結論として最後に私共に与えられておりますメッセージが、これです。
 「わたしに従いなさい。」主イエスが私共を一切の罪から救ってくださり、新しくしてくださり、その上で私共に求めておられること。それは、私共が主イエスに従うということなのです。イエス様を信じる。神の子、救い主として信じる。それは、この方を愛し、この方に従って生きるということにならざるを得ないのです。私の人生、私の生き甲斐、私の目的というものがあって、それを充実させるために、それを達成するために私共の信仰があるというのではないのです。そうではなくて、私共の人生、生き甲斐、目的、目標といったものが根底から変えられていく、主イエスというお方を愛し従う中でそれらが形作られていくということなのです。
 今は受験や就職のシーズンですけれど、私共は受験や就職がうまくいくようにと神様にお願いし、それが実現されるために神様を信じるというのではないのです。受験にしても就職にしても、そこに神様の御計画があることを信じ、神様にお仕えするためにその学校に行き、その仕事をするということなのでありましょう。

2.ペトロの殉教の予告
 今朝与えられております御言葉において、復活された主イエスは、ペトロに対して「あなたはわたしを愛しているか。」と三度問い、そして三度「わたしの羊を飼いなさい。」と命じられました。そして、18節です。主イエスは「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」と告げられました。これは、その次に「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」とありますので、ペトロの殉教を予告しているということは明らかです。
 この福音書が記されたとき、既にペトロは殉教の死を遂げておりました。ペトロは紀元67年頃、ローマにおいて逆さ十字架に架けられたと言い伝えられております。そのペトロの殉教の場所に建てられているのが、先週何度もテレビに映りました、次のローマ法王を選ぶためにコンクラーベという会議が開かれたバチカンにあるサン・ピエトロ大寺院です。復活の主イエスからこの言葉を受けたとき、ペトロはまだ若かったでしょう。20代か30代だったでしょう。しかし、この時から30数年後、年をとったペトロはローマで殉教するわけです。それが、「若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」と主イエスがここで語られたことの意味なのです。この「両手を伸ばして」とありますのは、両手を左右に伸ばすのです。つまり、十字架に架けられるときに両手を広げる、その姿を指しているのです。
 主イエスはこのように話してから、ペトロに「わたしに従いなさい。」と言われたのです。主イエスが十字架にお架かりになったように、ペトロもまた十字架に架かることになる。そこまで、主イエスに従っていくということなのです。そうしなければ、主イエスの羊を飼うことは出来ないということなのでしょう。主イエスは唯一人の大牧者です。この大牧者に従う者として、牧師は立てられている。私はペトロのように殉教することになるのかどうか分かりませんけれど、どこかでその覚悟はしていなければならないと思っています。献身したときからそう思っています。先週のコンクラーベの映像で、枢機卿という、法王の選挙権と被選挙権を持つ人のことですが、この人たちが全員赤い服を着ていました。これは、いつでも羊のために、キリストのために死ぬことが出来る者という意味で、血の赤を意味しているとのことでした。ペトロの後継者を自任するローマ・カトリック教会らしいと思いますが、これは大切なことだと思います。

3.行きたくないところへ
 ただ、ここで主イエスがペトロに告げられた「わたしに従いなさい。」との御言葉、あるいは「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」という御言葉を、ペトロだけに、あるいは牧者だけに告げられた言葉として聞くべきなのかと言えば、そうではないでしょう。キリスト者は誰でも、「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」のです。そして、そういうあり方において、「主イエスに従う」ことが実現していくということなのではないでしょうか。
 私共は、いつでも自分が願ったように、願ったところで、願ったことだけをして生きていけることなどないでしょう。「こんなことしたいわけじゃないけれど」あるいは「断り切れないで」ということだって多いでしょう。先程、受験や就職の話をしましたけれど、自分が行きたい大学に入って、就きたい職業についている人がどれだけいるでしょう。あるいは、希望の会社に入るには入ったけれど、思っていたのとは大違いという人もいるでしょう。結婚したり、子供が出来て、その仕事を辞めなければならなかった人もいるでしょう。また、転勤で富山に来てしまったという人もいるでしょう。私共の人生は、自分ですべてを決め、選択しているように見えて、自分で決めたわけじゃない、そうなってしまったんだということが実に多いのではないかと思うのです。そして、その与えられた状況の中で精一杯、神様・イエス様を愛し、隣人を愛し、神様・イエス様に仕え、隣人に仕えていく。主イエスの愛を伝えていく。それが、主イエスに従って生きるということなのではないかと思うのです。
 「主イエスに従う」というのは能動的と言いますか、私が従っていくということですけれど、しかしその根本においては、主イエスが「わたしに従いなさい。」と告げてくださったことを聞くという、受動的なところがあるのでしょう。私共は、私共の人生を導いてくださる神様の御支配というものを信じておりますから、その御手の中で与えられた場所、状況、環境を受け入れ、そこで精一杯主イエスに従っていくということなのでありましょう。主イエスに従うということは、受け身だけでもないし、私が、私が、というのでもないのです。

4.この人は?
 ここで、ペトロは納得したのだと思います。ところが、20〜21節「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である。ペトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った。」とあります。「イエスの愛しておられた弟子」が誰かということについては、議論をし始めるとそれこそ本一冊になってしまうところですが、使徒ヨハネと考えて良いでしょう。ペトロはヨハネを見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか。」と言うのです。自分は殉教する。だったらヨハネはどうなるのか。
 ヨハネは、ペトロたちが殉教した後、3、40年も生きたと伝えられています。殉教ではなく、百歳近くになって老衰で死んだと言われています。実は、ヨハネについては様々な伝説が生まれていたのです。ルカによる福音書9章27節で、主イエスが「ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」と言われたのは、ヨハネを指しているのではないか。ヨハネは主イエスが再び来られる時まで生きているのはないか。そう考える人もいたのです。ところが、この福音書が書かれた頃にはヨハネも死んだ。だったら主イエスは本当に再び来られるのかということが深刻な問題になっていたのです。それが、23節「それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである。」に反映しているのだと思います。イエス様は、「彼は死なない」と言われたのではない。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われただけだと、わざわざ記したのはそういう理由です。
 ペトロの「主よ、この人はどうなるのでしょうか。」という問いに対して、主イエスは22節「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」と答えられます。ヨハネのことはあなたには関係ない。あなたはあなただ。わたしに従えばよい。そうピシャリと言われました。これは、主イエスに従うという場合に、とても大切なことだからです。
 私共はこの時のペトロのように、あの人は、この人は、と他人のことが気になります。何で私だけこんなに大変なことをしなきゃいけないの、あの人は何もしていないのに、といった具合です。しかし、この心の動きは、主イエスに従う時にとても邪魔になるものなのです。
 私が神学生の最後の学年になった時、少しの間修道院でお世話になったことがあります。この修道院は、一日中沈黙の業をする修道会で、夕食後の一時間だけ自由に話せる。それ以外の時は祈りと沈黙だけ。朝の5時から祈りの時が始まります。そこには5〜6人の修道士がいたのですが、その中によく朝の祈りに遅刻する人がいたのです。それで、私を指導してくれていた方に、あの人はどうなんでしょうと聞いたのです。するとその方は、「そんなことは修道院長が考えるでしょう。私たちは自分のことをしていれば良いのです。」と答えたのです。そして、こうも言われました。「他人のことを気にしている暇はありません。そんなことをしていると、私たちの霊的状態が悪くなります。」その言葉を聞いて、なるほどと思いました。
 子どもはよくこの時のペトロと同じことを言います。「おもちゃを片づけましょう。」と言われると「○○ちゃんは?」、「野菜を残さず食べましょう。」と言われると「○○ちゃんは?」といった具合です。自分のことは棚に上げて、「○○ちゃんは?」とすぐに言います。子どものことなら笑って済ませられますが、これが私共の信仰の歩みにおいても顔を出すとなると、笑って済ますわけにはいきません。それは、私共の信仰が子どもであるということだからです。信仰において私共は成長し、成熟していかなければならないのです。信仰において大人になるということは、他の人のことなど気にせずに、自分に与えられた務めを主イエスの召命として受け取り、精一杯為すべきことに励んでいくということなのでしょう。

5.それぞれの召しに従って
 イエス様は「わたしに従いなさい。」と言われました。ペトロは殉教するあり方で、ヨハネは長く生きて教会を建て導くというあり方で、それぞれ主イエスに従ったのです。主イエスに従うあり方は皆違うのです。他の人がどうであるか、それは、私が主イエスに従うということと関係ないのです。私は、私がおかれた場で出来るように、出来るだけのことをするだけです。誰もが牧師になるわけではありません。誰もが長老になるわけでもありません。誰もが教会学校教師になるわけでも、誰もが奏楽者になるわけでもありません。誰もが婦人会や壮年会の役員になるわけでもありません。大切なことは、自分に与えられたそれぞれの務めを、主イエスから与えられた務めとして受け止め、主イエスにお仕えする者として各々忠実に励むということです。人はそれぞれ皆違うのです。体力も能力も状況も違う。その違いもまた、神様が与えられたものでしょう。ですから、主イエスに従う、主イエスに仕えるということにおいて、人と比べるということは全く意味がないのです。
 こう言っても良いでしょう。私共は様々な役目を与えられます。それは、この世の中では役職という形をとることもあるでしょう。教会の中の役割や、地域の役だってあるでしょう。それを「役目だから仕方がない。」と言ってやるのか、「これは主イエスが私に与えられた務めだ。」と受け止めてやるのかということです。「役目だから仕方がない」というのが普通なのかもしれません。しかし、そういう心の態度だと、必ず不平が出て来ます。人と比べるということが起きます。そして、「どうして私ばっかり。」ということになる。こんな考えが教会に入ってきては困るのです。一方、「主イエスが与えられた努め」として受け止めるならば、その労苦を通して主イエスにお仕えすることになります。そこでは当然、祈りつつ事に当たるという姿勢も生まれてくるでしょう。大変な思いをして成し遂げた時には、神様への感謝も生まれてくるでしょう。私共が主イエスに従って生きるというのは、何も特別なことではないのです。
 例えば、子が与えられたとします。その子を育てるのは親として当然のことですけれど、これを神様から与えられた使命として受け止めるかどうかで、その子育てへの関わり方は大きく違ってくるのではないでしょうか。私共がこの世で生きている、生かされている、その所で為す一つ一つが、主イエスに従う者としての歩みなのでありましょう。自分が生きている場は、誰にも代わってもらうことは出来ません。会社の仕事だけなら、自分が辞めても他の誰かがやってくれるでしょう。しかし、私共はそういう所だけで生きてるのではありません。父として、母として、息子として、娘として、その地域の人間として、様々な人との関わりの中で生きている。その関わりの全てを誰かに代ってもらうことなど出来るはずがないのです。実に私共は、それぞれ違ったあり方で主イエスに召されており、それぞれ違ったあり方で主イエスに従うしかないのです。ですから、他の人と比べるということは、全く意味がないことなのです。
 今朝、礼拝前に受付におりましたら、高齢になられた方が、文字通り「這うようにして」礼拝に集って来られる姿を見ました。歩くこともままならない方が、何としてもと主の日の礼拝へと集う。これは、具体的な主イエスに従うという姿そのものでしょう。若いときに何でもなかったことが、大変な労力を要するようになる。そういう中で、なんとしてもと主の日の礼拝へと集う。ここには、主イエスの十字架に結び合わされた者の主に従う姿がある。高齢になられた方の証しの姿です。

6.主イエスのなさったこと
 最後に、25節「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」と記して、ヨハネによる福音書は終わります。これはユダヤ的な誇張表現だと言われます。確かに、書物は地球上にある紙とインクで書かれるのですから、どんなに書いても世界がそれを収めることが出来ないということにはなりません。その意味では誇張です。しかし、私はこう思うのです。確かに、「イエスのなさったこと」には、ここに記されていない多くのことがあったはずです。その中から、イエス様が神の子である、救い主であるということを明らかにすることだけを選び、ヨハネによる福音書は記されました。主イエスはもっと沢山のことをお語りになったでしょうし、様々な業を為されたはずです。その意味では書かれなかったことの方がずっと多かったのだと思います。
 しかし、この「イエスのなさったこと」というのは、それ以上のことを意味していると思います。この福音書は「初めに言葉があった。」という言葉で始まっています。そしてこの言葉こそキリストであることを語ってきたわけです。主イエス・キリストは天と地が造られる前から父なる神様と共におられ、父なる神様と共に天地を造られ、この世界のすべてを支配されていた。それがこの福音書の主イエスに対しての基本的な理解です。ということは、「イエスのなさったこと」というのは、天地創造以来の神様の御業のすべてを指していると言って良いと思うのです。ですから、書き始めればきりがないということになるのでしょう。
 更に、主イエスは、聖霊なる神様として我々キリスト者の歩みと共にあるわけです。私共の人生のそれぞれの局面において、主イエス・キリストは生きて働いてくださり、出来事を起こし、出会いを与え、私共を全き救いへと導いてくださっています。これもまた、書き始めればきりがないということになるのではないでしょうか。そのようなことまで考えるならば、これは少しも誇張ではないのです。
 私が洗礼を受けた頃、「第五福音書を書く」という言葉をよく聞きました。聖書の中には福音書は四つしかありません。第五福音書というのは、私共が主イエスと出会い、主イエスに従い、主イエスの導きの中で生かされる中で、まさに第五福音書とでも言うべき、主イエスの救いの御業の物語の中に生きることを指している言葉でした。ということは、第五福音書はそれこそキリスト者の数だけ出来るわけで、それは大変な量になってしまうでしょう。
 私共は、それぞれが「わたしに従いなさい。」との召しを受けているのです。その召しをしっかりと受け止めて、置かれている状況の中で主に従う生活を為してまいりたいと心から願うのであります。

[2013年3月17日]

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