富山鹿島町教会

夕礼拝説教

「祈ることを教えてください」
ルカによる福音書 11章1〜4節

小堀 康彦牧師

1.わたしたちにも祈りを教えてください
 主イエスが祈っておられました。主イエスの弟子たちは、祈っておられる主イエスの姿を見ていました。主イエスの祈る言葉も聞いたかもしれません。そして、主イエスが祈り終わると、弟子の一人が主イエスにこうお願いしました。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。」主イエスの弟子が、主イエスに祈ることを教えてくださいと願い出たのです。皆さんは、この弟子の願いをどう思われるでしょうか。「おやおや、主イエスの弟子は祈ることも知らなかったのか。しょうがない弟子だな。」と思われるでしょうか。それとも、「私と同じだ。私も祈ることを教えていただきたい。」そう思われるでしょうか。

2.祈りの種
 私共はどこかで、祈ることを知っている、そう思ってはいないでしょうか。多分、ここにお集まりの方の中で、自分は祈ったことがないという人は、一人もおられないでしょう。今日、初めて教会に来たという方であっても、私は今まで祈ったことがないという人はいないと思います。確かに私共は祈ったことがあるし、今も祈っている。祈ったことがない、祈るということが全く分からない、そういう人は一人もいないと思います。
 私はカトリックの幼稚園に通っておりました。50年以上前のことで、私自身はよく覚えていないのですが、父は、私が幼稚園の頃、食事のたびに「お祈りしないと食べちゃいけないんだ。」と言い、幼稚園で習ったお祈りをしてからでないといただきますをさせてもらえなかったと言っておりました。ですから、きっと3歳、4歳の頃も私はお祈りしていたのだと思います。しかし、それは自分では覚えておりません。
 私自身の記憶にはっきり残る一番古い祈りは、小学校の二、三年生の頃のことです。それは、「雪を降らせてください。」という祈りでした。私の父はスキー場で小さなロッジを経営しておりましたが、その年は雪が少なかったのです。このまま正月を迎えると、キャンセルが相次いで、手形が不渡りになってしまう。そんな話を父がしているのを聞いたのです。子どもですから、手形が何か、不渡りがどういうことなのか、それは分かりません。しかし、このまま雪が降らないと大変なことになる、そのことだけは分かりました。私はその夜、寝床に入ってから祈りました。「雪を降らせてください。」と一生懸命祈りました。次の日の朝起きてみると、小雪がちらちらと降っていました。私は大喜びで、「お父さん、雪が降っているよ。」と言いました。父は、「そうだな。でも、こんな雪じゃ駄目だ。」そう言いました。スキーが出来る程の雪は、ちらちら降る程度ではどうにもならないのです。父の暗い顔は少しも変わりませんでした。これが私の記憶に残る一番古い、そして自分が本気で祈った思い出です。その頃、私はまだ教会に行ったこともありませんでした。
 私共は誰でも、このような祈りの記憶、祈りの体験を持っているのではないでしょうか。お子さんがおられる方ならば、我が子のために祈ったことのない親などいないでしょう。若い方でも、受験や恋愛などで祈ったことがあるでしょう。神様を知らなくても、私共は祈ったことがある。宗教改革者カルヴァンは、それを「祈りの種」と呼びました。人間は神様に造られましたから、自覚的に信仰を持つようになろうとなるまいと、誰でも「祈りの種」を神様から与えられているというのです。これは本当のことだと思います。神様が与えてくださった「祈りの種」。これはまことに尊いものです。美しいものです。我が子のために祈る母の祈りは美しいし、本当に尊いものでしょう。私共は皆、誰かに祈ってもらう。祈られる。そして、誰かのために祈る。そういう者として、ここまで歩んできたのだと思うのです。ですから、私共は祈るということを全く知らないわけではないのです。祈りの種を誰も与えられているからです。
 しかし、改めて「あなたは本当に祈ることを知っていますか。」と問われたならどうでしょう。「はい、私は祈ることをよく知っています。」そう答えることが出来るでしょうか。正直に申しますと、私は牧師でありますが、それでも「私は祈ることをよく知っています。」と答えることは出来ません。あの一生懸命に祈った小学二、三年生の頃よりはよく知っていると思いますけれど、まだ十分に、本当によく分かっているとは言えないのです。「牧師がそういうことでは困るではないか。」そう思う方がおられるかもしれませんが、本当なのですから仕方がありません。まだよく分からないところがあります。たくさんあります。
 先程、「祈りの種」と申しました。人は誰でも「祈りの種」を神様から与えられている。しかし、種は、そのままにしておけば種のままです。種というものは、地面に蒔いて水と肥料と太陽の光を与えられるならば、芽を出し、葉をつけ、花を咲かせ、実を結ぶものでしょう。そのように、「祈りの種」は成長するものなのです。豊かな実を結んでいくものなのです。
 祈りの世界というものは、実に深く、広く、豊かです。とてもこの短い人生で知り尽くすことなど出来ない、それほどに広大な世界なのです。ですから、適切なガイド、案内がなければ、道に迷って大変なことになってしまう、そういうことだって起き得るのです。
 イエス様の弟子は、イエス様に祈りを教えてくださいと願いました。弟子たちだって、私共が知っていると思っている程度には、いやそれ以上に祈ることを知っていたと思います。彼らはユダヤ教の世界に生きていましたから、毎日何度も祈ることが当然のこと、日常になっていたと思います。それにも関わらず、主イエスに祈ることを教えてくださいと願い求めた。それは、主イエスの祈る姿に、自分たちが知っている祈りとは違う何かを感じたからなのだろうと思うのです。

3.父よ 〜誰に祈るのか〜
 そして、イエス様が弟子たちに教えてくださった祈り、それが私共が普通「主の祈り」と言っている祈りなのです。この祈りは、「祈りの中の祈り」と言われます。二千年のキリスト教会で捧げられてきたすべての祈りは、この祈りから生まれたものだと言っても良い程です。私共が祈りについて学ぼうとするならば、まずこの「主の祈り」に導かれていなければなりません。この祈りに導かれていくならば、私共は広大な祈りの世界において迷子になることはありません。今朝は、この「主の祈り」についてすべてをお話しすることは出来ません。ただ、最初の「父よ」という呼びかけの所に集中して、私共の祈りを点検したいと思います。
 イエス様は、私共が祈る時にまず、「父よ」と神様に向かって呼びかけて祈り始めるようにと教えてくださいました。これは、実に重大な一句です。祈りの世界において、私共が決して道に迷うことのないようにしてくださる、決定的な羅針盤、コンパスのような一句です。
 そもそも、私共が与えられていた「祈りの種」において、誰に向かって祈っているのか、そのことをはっきりと意識したことがあったでしょうか。私が幼い頃に「雪を降らせてください。」と祈った時、一生懸命に祈ったことは本当ですが、誰に向かって祈っているのか、それはよく分かりませんでした。私が今仕えております富山鹿島町教会という所は、町内に鹿島神社があり、それで鹿島町という町名が付いているのですけれど、歩いて3分の所には富山護国神社という大きな神社もあります。正月になりますと、道路という道路は初詣の人の車でいっぱいになります。その初詣をしている人に、あなたが祈っているこの神社の神様は何という神様ですかと聞いたなら、答えることが出来るのは多分100人中1人か2人ではないかと思います。誰に向かって祈っているのか、そんなことはほとんど意識しない。それが種の状態のままの、私共の祈りのありようではないでしょうか。
 そんな私共に対してイエス様は、祈るべきお方は「天地を造られたただ一人の父なる神様」なのだと教えてくださったのです。これはとても重大なことです。誰に向かって祈っているのか分からない祈りというものは、本当に聞かれているかどうかもはっきりしない、そういうことになるのではないでしょうか。しかし、ここで私共が祈りをささげるお方が誰であるかということがはっきりします。これは本当に大切なことです。

4.父よ 〜神様の子として〜
 しかも、その神様に向かって「父よ」と呼びかけて良いというのです。イエス様が天地を造られた神様に向かって「父よ」と呼びかけるのは分かります。イエス様は父なる神様の独り子なのですから、それは当然でしょう。しかし、どうして私共も神様を「父」と呼ぶことが出来るのでしょうか。そもそも「父」と呼ぶことが出来るのは、その人の子しかいないでしょう。どんなに親しい関係になっても、よその子が私を「お父さん」と呼ぶことはありません。私を「お父さん」と呼ぶのは、自分の子だけです。教会学校の子どもたちのことは大切ですし大好きですけれど、その子たちが私を「お父さん」と呼ぶことはありません。当たり前のことです。ということは、私共が天と地を造られた唯一の神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来るということは、私共が神様の子とされているということではないでしょうか。そんなことがあるのでしょうか。あるのです。それが恵みなのです。それが救いというものなのです。
 私共は、自分を造ってくださった神様を知らず、それ故に唯一の神様を崇めることも知らず、自分の思いのままに生きていた者でした。神様なんて関係ない。自分が楽しく、面白く、元気に生きればそれで良い。そんな風に生きていた。それは神様を侮り、神様に敵対して生きていたと言っても良い程です。忘恩、恩を忘れる。神様に向かって忘恩の罪を犯していた、そういう私共です。しかし、神様はそれでもなお私共を愛してくださり、愛する独り子イエス様を私共に与え、私共のために、私共に代わって十字架にお架けになり、そのイエス様の十字架によって私共の一切の罪を赦してくださったのです。そして、私共を神様の子として受け入れ、「我が子よ、我が許に来よ。」と招いてくださったのです。何とありがたいことでしょう。
 イエス様は弟子に、神様に向かって「父よ」と呼びかけて祈りなさい、祈って良い、と言われました。このことは、父なる神様と子なる神様であるイエス様との間にある永遠の愛の交わりの中に、私共を招いてくださったということなのです。イエス様は、父なる神様に向かって「父よ」と呼びまつり、まことに親密な交わりの中に生きておられました。まことの神様の子であられますから当然です。イエス様は、その同じ交わりの中に私共をも招いてくださったのです。何とありがたいことかと思います。

5.父よ 〜信仰を与えられた者として〜
 この「父よ」という呼びかけが言えるかどうか、それは、私共に信仰があるかどうかということと同じです。神様に向かって「父よ」と言うぐらい、どうということはない、簡単なことだと思う人がいるかもしれません。しかし、そんなことはないのです。私は、教会に通うようになって一年半程して洗礼を受けたのですが、洗礼を受けようと思うまで、受けたいと思うまで、この「父よ」が言えなかったのです。牧師先生が祈りは大事だと言うものですから、家で祈ろうとするのですが、祈れませんでした。この「父よ」が言えなかったのです。もちろん、「父よ」という音を口から出す、口先だけで「父よ」と言うことは出来ます。しかし、そう言った後で、何とも唇寒しと申しますか、白々しい思いになりました。私は、この「父よ」という一句を何のてらいもなく神様に向かって言えるとすれば、その人はもう信仰があるのだと思っています。使徒パウロはローマの信徒への手紙8章14〜15節でこう言っています。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。……この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」つまり、まことの神の子である主イエス・キリストが聖霊として私共に宿り、私共に信仰を与え、私共を神の子としてくださることによって、初めて、私共は神様に向かって何のてらいもなく「父よ」と呼ぶことが出来るのです。何度も申しますが、子以外に「父よ」と呼ぶことが出来る者はいませんし、子以外の者が父でない者に向かって「父よ」と呼べば、何とも居心地の悪い思いをするものなのです。信仰が与えられる、救われるということは、天地を造られた唯一の神様の子とされるということなのです。そして、この恵みの中で、私共の祈りの生活は始まっていくのです。

6.父よ 〜祈りの種が芽吹く〜
 祈りは、少しも観念的なものではありません。実際に「アバ、父よ」と呼びつつ、神様の御前に立って、神様との交わりに時間を費やすという行為です。祈りは、スキーや水泳と同じで、そのフォームや理屈を聞いても、実際に雪の上を滑ったり、水の中に入って泳いでみなければ、何も分かりません。実際に祈らなければ分からないのです。
 「父よ。」これは当たり前の祈りではないのです。「祈りの種」しか知らない者には、決して口にすることが出来ない祈りなのです。この「父よ」と口にした時、私共の「祈りの種」はしっかりした芽を出し始めるのです。まずは祈ることです。「父なる神様」でも良い。「天のお父様」でも良い。「父よ」でも良い。まずはこの言葉を口にして、心を神様に向けることです。そこで、神様を「父よ」と呼び、自分が神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来るようになるために神様が一体何をしてくださったか、そのことに思いを巡らしていただきたいと思うのです。そうすれば、何と自分が愛されているかを知るでしょう。まずは、このことをしっかり受けとめることです。
 神様に向かって語りかける「父よ」との呼びかけは、いつも新しい。決して、慣れきってしまった、古びて何の感動も呼び起こさない言葉にはなりません。もし、そうなってしまったとするならば、それは「父よ」という言葉が、単なる記号、口から出る意味のない音になってしまったからでしょう。神様の御前に立って「父よ」と呼びかける時、神様は私共の前に、私共の側に、私共の中に来てくださり、私共の声にならぬ声さえも耳をそばだてて聞いてくださっています。誰にも言えない、誰も知らない、自分さえよく分かっていない心の叫びを、神様はしっかり聞いて、受け止めてくださいます。私共が、神様の愛してやまない、神の子だからです。まことにありがたいことです。
 今、共に「父よ」と呼びまつり、この恵みの中に生かされている幸いを、心から感謝したいと思います。

[2013年4月7日:夕礼拝]

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