富山鹿島町教会

伝道礼拝説教

「思い悩まぬ者へ」
マタイによる福音書 6章25~34節

小堀 康彦牧師

1.主イエスが「思い悩むな」と告げている
 今朝ここに集っている私共に向かって、主なる神様は聖書を通して、「思い悩むな。」と告げられます。私共は、人生の旅路において、寝ても覚めてもそのことばかり考えてしまう。こうしても駄目、ああしても駄目、どうしたら良いかさっぱり分からない。でもそのことから自由になれずに、いつも心に重くのしかかっている。そういう問題を抱え込んでしまう時があります。自分が頑張って、こうやっていけば良いのだという見通しが立つのなら、それほど思い悩むことはありません。しかし、私共が思い悩んでしまう場合の多くは、自分が何かをすることによって解決出来るというようなものではなくて、自分ではどうしようもない、そういう問題なのだと思います。自分の健康のことであったり、家族のことであったり、仕事のことであったりと、私共が思い悩む事柄は様々です。今、自分はそれほど思い悩むような状況にはないという人であっても、一旦事が起きれば、どうしようどうしようとうろたえ、思い悩んでしまうのが私共なのでしょう。そのような私共に向かって、イエス様は「思い悩むな。」と告げられるのです。
 自分から好き好んで思い悩む人はいません。誰も思い悩みたくはない。でも、そのことに心を囚われ、堂々巡りの思考回路の中で、にっちもさっちもいかなくて、気分が落ち込んでいく時がある。そういう時に「思い悩むな。」と言われても、「私だって好きで思い悩んでいるわけじゃない。」と言い返したくなる。その通りです。  しかしイエス様は、闇雲に、頭ごなしに、何も知らずに、「思い悩むな。」と言われているのではありません。イエス様は、私共がどうして悩んでいるのかを、本当によく御存知なのです。その上で、「思い悩むな。」と告げておられるのです。ですからこれは、「もう思い悩まなくても良い。もう大丈夫。わたしが何とかする。」そういう意味で言っておられるのです。そのことを順に見てまいりたいと思います。

2.空の鳥、野の花を見よ
 イエス様は、「思い悩むな。」と告げて、まず「空の鳥をよく見なさい。」と言われます。そして次に、「野の花を見なさい。」と言われるのです。
 私は、このイエス様の言葉かけは何と素晴らしいのだろうと思います。私共が思い悩む時、私共の心はいつも、その思い悩んでいる一つのことに占められています。その一つだけに心が囚われておりますから、外で何が起きていても、少しも心が向きません。目の中に何が飛び込んできても、心にはとまりません。そういう私共に向かって、空の鳥を見よ、野の花を見よ、と言われる。これは、視点を変えよ、ということではないかと思います。しかし主イエスはここで、「自然を見てごらん。そうすれば心が安らかになるよ。気分も変わるよ。」そんなことを言おうとしているのではありません。全く違います。
 空の鳥を見ますと、「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。」ことが分かる。別に見なくても分かります。鳥なのですから、当たり前のことです。そして、イエス様は、「だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」と言われるのです。ここで主イエスは神様のことを「あなたがたの天の父」と言われています。これが重要なのです。神様が父であるということは、私共は神様の子どもであるということです。鳥だって、餌を探すのに苦労している。ボーッとしていたら、もっと大きな鳥に狙われてしまうかもしれない。厳しい生存競争の中で生きているのだ。たたのんびりと遊んで飛んでいるわけじゃない。その通りでしょう。イエス様も、そんなことは百も承知です。しかし、ここでイエス様が言いたいのは、あなたは鳥より価値があるということなのです。誰から見てか。神様です。神様は私共の天の父だからです。私共は神様の子どもだからです。イエス様は、そのことを思い起こしなさい、そう言われたのです。  野の花を見よ、というのも同じです。花は、働きもせず、紡ぎもしない。当たり前です。でも、あの栄華を極めたソロモン(これは旧約聖書に出てくるソロモン王のことですが、イスラエルの歴史の中で最も繁栄を誇った王様です。)でさえ、野の花の一つほどにも着飾っていなかった。神様は、野の花だってこのように装ってくださるのだから、あなたがたにはなおさらではないか。あなたがたは天の父なる神様の子なのだから。そう言われているのです。

3.神様の御手の中にある明日
 イエス様の言葉を詩的に、ただ現実を知らない夢想家の言葉のように受け取ってはいけません。イエス様は、私共の人生の苦労というものを知らないで、こんなことを言われたのではないからです。イエス様の所には、本当に様々な問題を抱えた人々が助けを求めて来ていました。イエス様は、その一人一人の悩みを知り、知った上でこう言われているのです。34節には「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」とあります。イエス様は、私共の苦労というものが、一つ終わればまた一つという風に、際限なく続いていくものであることを知っておられました。困ったことが次から次へと起きる。それが私共の人生であることを十分御存知なのです。今日の問題が何とかなったと思ったら、明日は明日でまた問題が起きる。しかし、だからといって、明日こんなことになったらどうしようと思い悩むことはない。明日のことは、明日になってから考えれば良いと言われるのです。何故か。それは、明日という日は、神様の御手の中にあるからです。ああなったらどうしよう、こうなったらどうしようと、私共は心配します。しかし、私共の明日は、私共が思い描くようには決してならないのです。皆さんは、10年前、20年前に、将来自分はこうなっているだろうと思った通りに、現在なっているでしょうか。私は、10年前にこの教会に赴任してきたのですが、11年前にはそんなことは考えたこともありませんでした。私共は明日を知らない。しかし、神様は知っておられるのです。そして、神様は私共の父であられるのですから、何とかしてくださるのです。
 イエス様はここで、神様が何とかしてくれるから種を蒔かなくていい、刈り入れもしなくていい、倉に納めなくてもいい、働かなくていい、紡ぎもしなくていい、そんなことを言っておられるのではもちろんありません。私共は鳥でも草でもないのですから、種も蒔かなきゃいけないし、やらねばならないことは、やらなければならない。働かなくてはならないのです。しかし、そのすべてが、天の父なる神様の御手の中にあるということを忘れてはいけない。そのことを思い起こしなさい。そう言われているのです。
 私共は、思い悩む時いつも、神様のことは蚊帳の外に置いています。私の力で、私の知恵で、私の能力で、何とかしよう、何とかしなければ、と思っている。しかしイエス様は、大切な方を忘れていませんか、神様を忘れていませんか、と言われているのです。神様に生かされているということ、神様が私を愛してくださっているということを、忘れていませんか。これを忘れてしまっている所に、あなたの思い悩む原因があるのではないですか。そうイエス様は告げておられるのです。

4.私共の本当の価値
 私共は、自分の本当の価値というものを、よく分かっていない所があります。ですから、人の評価というものがいつも気になる。人から駄目な奴だと言われたら、ましてそんなことが繰り返されたら、自分は本当に駄目な奴だと思ってしまう。逆に、ちょっとでも他の人より優れた所があったりすると、そしてそれを人が褒めたりしてくれると、自分は大した者だと思い上がってしまう。単純と言えば単純ですが、私共は皆、そういう所があるのでしょう。でもこの、人の評価というものは、当てにはなりません。自分が思っている自分自身の評価と、他人の評価が一致するということは、滅多にないのです。
 イエス様はここで、人の目に依らない、神様の評価というものがある、そこに目を向けなさいと言われたのです。神様は私共をどう見ておられるのか。神様の御前に立って、大した者だと誇れる人など一人もいません。でも、神様は私共を造ってくださった方です。しかも、御自身に似た者として造ってくださった。そして、その作品である私共を、神様ははなはだ良いものとして御覧になったのです。そればかりではありません。愛する独り子であるイエス様を十字架にお架けになって、私共の一切の罪の身代わりとしてくださった。そして、「我が子よ」と私共を呼んでくださり、私共一人一人を神の子として受け入れ、愛してくださっているのです。
 このことこそ、私共がこの世界でどのような者であったとしても、他の人から、能力がない、駄目な奴だと言われていたとしても、病気があり、障害があったとしても、年老いて昔のように仕事が出来なくなったとしても、決して変わることのない、絶対的な評価なのです。その自分の価値に気付きなさい。そうイエス様は言われたのです。神様に愛されている。神様の子とされている。これが、私共の揺らぐことのない本当の価値なのです。自分のことを誰も正当に評価してくれないとしても、神様は御存知なのです。神様は、私共の弱さも愚かさも罪もすべてを知った上で、その上で「我が子よ」と呼んでくださっているのです。

5.まず、神の国と神の義を求めなさい
 更に、イエス様はこう言われます。31~32節「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」とあります。「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って思い悩むなというのは、何も今晩の夕食の献立や、今日着ていく服を何にしようかと思い悩むなということではないのです。そんなことでしたら、大したことではありません。ここで、イエス様が言われているのは、衣食住といった、私共の生活全体を指しておられるのです。私共の思い悩みの多くは、病気であれ、お金のことであれ、仕事のことであれ、人間関係のことであれ、つまりは生活に関わることでしょう。
 若者の就職難ということが新聞でもよく取り上げられます。これは本当に大変な問題です。深刻なことです。若者にとって、どの仕事に就くかということは、とても大きな問題です。しかし、聖書が私共に改めて問うているのは、何を求めてその仕事を為すのかということです。ただ給料が良いとか、社会的地位が高いとか、安定しているとか、そういうことだけではないはずなのです。
 イエス様は、33節で「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と告げられます。神の国というのは、神様の御支配という意味です。神の義とは、神様の義しさですが、これは神様がその愛を実現するために為そうとされることです。ですからこれは、神様の御心を求めなさい、と言い換えても良いでしょう。神様が良しとされること、神様が喜ばれること、神様の愛の道具として仕えること、そのことをまず第一に求めなさい。そうすれば、神様は、生活のことで思い悩むことがないように、すべてを備えてくださると言われているのです。自分の損得よりも大切なものがあるでしょう。神様の御心に従おうと、まず心を定めなさい。そうすれば、神様が何とかしてくれる。そう言われたのです。
 本当に、神様は何とかしてくれるのでしょうか。大丈夫。何とかしてくださいます。それは、自分が思い描いていた姿ではないかもしれません。しかし、神様に従うということを心に定めたならば、神様は、有り余るほどではないかもしれませんが、必要のすべてを必ず満たしてくださいます。そしてキリスト者は、その神様の御業の証人として立てられているのです。キリストの教会の二千年の歴史は、この神様の助けと守りの証言に満ちています。その例をお話しすることはいくらでも出来ます。私自身が、その神様の守りの御業の証人です。

6.いつも天は開かれている
 私は仕事柄、思い悩む方の相談を受けることがよくあります。話を聞いているうちに、胃が痛くなるような思いになることもよくあります。ああしても駄目、こうしても駄目。八方塞がり。だいたい、自分で何とか出来ると思えば、牧師の所に相談になんて来ませんから、相談を受ける時の状況というのは、本当にどうしようもない、だだただ困り果ててしまうようなものばかりです。私は、法律の専門家でもないし、福祉の専門家でもありません。医者でもありません。そういう問題であるならば、専門家の所に一緒に行きましょうということになります。その意味では、相談し甲斐のない者です。ただ、私がいつもお話しを聞きながら思っていることは、八方塞がりであっても、一方は決して塞がれていないということです。右にも左にも行けない。前にも後ろにも行けない。どうすれば良いのか分からない。たとえ、そのような状況であったとしても、一方は必ず開いているのです。その一方とは、上です。天です。天の父なる神様に向かっては、いつも開かれている。私共はどんな状況の中でもそこに向かって祈ることが出来るし、そこから神様が全能の御力をもって道を拓いてくださるのです。この、いつも開かれている一方、天に目を上げる。そこから、必ず新しい道が拓かれていきます。道は拓かれていくのです。神様が拓いてくださるのです。私はそのことを信じています。
 神様のなさることは、私共の思いをいつも超えています。こうなったら良いのに。こうなれば大丈夫。そう思い願っていても、なかなかそうなることはありません。しかし、それで良いのです。いや、それが良いのです。私共は、目的地に向かっていつも一直線の道が良いと思っています。でも、山があれば回り道をしなければなりませんし、川があれば浅瀬を探さなければなりません。その曲がりくねった歩みの中でこそ、神様は私共に必要な出会いを与えてくださり、天を見上げることを学ばせてくださり、本当の目的地を教えてくださるのです。
 私共の本当の目的地。それは天の国、神の国です。私共は、そこに向かって、一日一日歩んでいるのです。その歩みの中で私共は、エジプトを脱出したイスラエルの民が、40年の荒野の旅において、天からの食糧であるマナをもって養っていただいたように、神様の養いの中に生かされていることを知らされ続けていくのです。そして、その歩みこそ、思い悩まぬ者とされた者の歩みなのです。この歩みへと私共は招かれています。この招きに応えて、共々に歩んでまいりたいと願うものです。

[2013年9月29日]

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