富山鹿島町教会

礼拝説教

「あなたはわたしの愛する子」
詩編 2編1~12節
マルコによる福音書 1章7~11節

小堀 康彦牧師

1.あなたは何者であるか。
 「あなたは何者であるか。」と問われたら、私共は何と答えるでしょうか。自分の仕事を言うかもしれません。「サラリーマンです。」「主婦です。」「何々大学の学生です。」と答えるかもしれません。「二人の子の父(あるいは母)です。」と答えるかもしれません。それらもまた、私共が何者であるかということの答えであるには違いありませんけれど、私共の命、私共の全存在を賭けた答えとしては、「私はキリスト者です。」という答えになるのだろうと思います。私共は、いつでもどこでも「私はキリスト者です。」という答えをもって生きる者なのでありましょう。
 では、更に「ならば、キリスト者であるとは如何なる者なのか。」と問われたならば、何と答えるでありましょうか。「イエス・キリストを我が主と告白している者です。」「父と子と聖霊を信じている者です。」「イエス・キリストを愛している者です。」あるいは「神を愛し、人を愛する者です。」など、これもまた様々な答え方があると思います。
 しかし、更に「イエス・キリストを信じている、愛している者とは如何なる者であるか。」「三位一体の神を信じている者とは如何なる者であるか。」「イエス・キリストを我が主と告白している者とは如何なる者であるか。」などと問われたなら、どう答えるのでありましょうか。
 何か禅問答のような話になってしまいましたが、実際に面と向かって私共にこのように問う人はいないでありましょう。実際にこの様に面と向かって私に問う人に出会ったことはありません。しかし私共は、このような問いにさらされることが絶対に無いとは、決して言えないのです。それどころか、この問いと無縁であるキリスト者は一人もいないと言って良い。何故ならこの問いは、私共の心にささやきかけてくるサタンの声だからです。私共の信仰を根本から揺るがし、信仰の確信を失わせようとする問い。「お前はそれでもクリスチャンか。」そんな言い方で迫ることもあるでしょう。「お前がイエス様を信じているというのは、その程度のことなのか。」「神様・イエス様を愛していると言っても、所詮その程度のことか。」そのように迫られることもあるでありましょう。これは大変厳しいものであります。牧師とて、この問いと無縁ではありません。「お前はそれでも牧師か。」そのようなささやきを聞くことは何度もありました。私共は欠けがあり、失敗もします。何と愛のない言葉を言ってしまったことかと落ち込むこともあります。そんな時にこのささやきが聞こえてくるのです。私共はそのような時、どうやって持ちこたえ、信仰に踏みとどまったら良いのでしょうか。

2.私は洗礼を受けた者だ
 私の信仰、私の熱心、私の真面目さ、私の愛、そのようなものがすべて役に立たない。そんな時でも私共の信仰を支え、私共がキリスト者であることの確信を失わせない根拠。それは洗礼です。「私は洗礼を受けた者だ。」これは事実ですから、私共の心の問題ではありませんから、サタンでさえこの事実の前には口をつぐむしかないのです。「私は洗礼を受けた者だ。」この事実こそ、私共の信仰を支え、持ちこたえさせる神様の恵みの出来事なのです。
 キリスト者とは洗礼を受けた者のことです。この洗礼は、二千年の間途切れることなく使徒以来綿々と続いて、私共に繋がっています。皆さんの中には、私から洗礼を受けた方もおられますが、私もまた、福島勲という牧師から洗礼を受けました。その福島勲は新宮教会で洗礼を受けました。福島勲に洗礼を授けた牧師もまた、誰かから洗礼を受けています。世界中の何十億というキリスト者は皆、そのようにして使徒たちにまで遡るのです。この洗礼は、マタイによる福音書28章19節にあります復活された主イエス・キリストの御命令、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」に従って為されてきました。
 この使徒たちから始まる洗礼、その根本に主イエス・キリスト御自身が洗礼を受けられたという出来事があるのです。私が、洗礼の準備会の中で必ず見ることにしている聖書の箇所の一つに、ローマの信徒への手紙6章3~5節があります。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」ここには、洗礼を受けるということが、「キリスト・イエスに結ばれる」ことであるとはっきり記されております。そして、この洗礼によって、私共はキリストと共に死に、キリストと共に生きる者となる、復活の命にも与る者とされるということが告げられております。これが、私共が受けた洗礼というものなのです。この洗礼によって主イエス・キリストと一つに結ばれた者の群れ、それが教会です。教会は、信仰を持った者が集まって作った宗教クラブのようなものではないのです。教会の成立の基礎には、この洗礼という出来事があるのです。そして、この私共の洗礼の根本に、主イエス・キリスト御自身が洗礼を受けられたという事実があるのです。主イエスは、自ら洗礼を受けることによって、後の私共の洗礼の基礎を定めてくださった。そう言っても良いだろうと思います。

3.何故、主イエスは洗礼をお受けになったのか
 さて、今朝与えられている御言葉において、主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりました。この主イエスが洗礼を受けられたという記事は、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書すべてに記されております。このことは、主イエスが洗礼を受けられたということが、間違いなく事実であったことを示しています。それは、救い主であるイエスがヨハネから洗礼を受けるということは、主イエスの方がヨハネより下にいるようで、あまり都合の良いことではなかったはずだからです。にもかかわらず、四つの福音書が記しているということは、これは疑いようのない事実であると、疑い深い学者たちさえも認めていることなのです。
 問題は、何故主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったのかということです。洗礼者ヨハネが授けていた洗礼は、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」でした。主イエスは、何か赦しを受けなければならないような罪を犯していたのか。あるいは、悔い改めなければならないことがあったのか。主イエスがまことの神の子であるならば、そんなことはないはずです。しかも、主イエスが洗礼を受ける前に、ヨハネは「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(8節)と言っているわけです。聖霊で洗礼を授ける方に、どうして聖霊が降って来なければならないのか。何とも理屈に合わないことばかりです。
 しかし、この理屈に合わない所が大切なのです。それは、この矛盾が、もっと大きな矛盾、もっと重大な矛盾と一つになっているからなのです。聖書が告げる最も大きな矛盾。最も理屈に合わないこと。それは、天地を造られた神様が、神様に敵対し、罪の中にある私共を愛されたということであり、そのような私共を救うために、愛する独り子を天から降し、私共の身代わりとして十字架に架けられたということであります。この最も理屈に合わない神様の愛、神様の救いの御業と、同じ矛盾がここにはあるのです。
 罪無き神の子が、悔い改める必要の無い神の独り子が、罪の赦しを必要とする私共と同じ所にまで降ってきてくださった。それが、主イエスがここで洗礼をお受けになった意味です。主イエスには必要ない。しかし、私共には必要だったのです。十字架と同じです。主イエスが十字架にお架かりになる必要はなかった。しかし、私共が必要としていたのです。
 多分主イエスはこの時、洗礼者ヨハネの所に洗礼を受けるために集まってきた多くの人々の中の一人として洗礼をお受けになったのでしょう。少しも特別じゃない。罪の赦しを必要とする多くの人と同じ所に、主イエスは立たれたのです。罪の赦しを必要とする人と全く同じ所に立つ。そのことをもって、マルコによる福音書は、主イエスを登場させる最初の場面として記したのです。それは、罪人と同じ所に立って、その一切の罪を担い、それにより一切の罪から救う者として天より降って来られた方、それが主イエス・キリストである。この方による罪の赦しこそが福音なのだ。マルコはそう告げようとしたのです。この罪人と同じ所に立ってという主イエスの姿勢は、生涯にわたって貫かれます。罪人と共に食事し、罪人を癒やし、そして最後は罪人として、二人の罪人が架けられた十字架のその真ん中の十字架の上で死なれたのです。主イエスの十字架への道は、罪人と共に洗礼をお受けになったこの所において定まったと言って良いのです。

4.三位一体の神の業として
 主イエスが洗礼を受けられると、まことに不思議なことが起きました。10~11節「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」この時、天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを見たのは、主イエスだけでした。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聞いたのも、主イエスだけでありました。その場に居合わせた多くの人々が一斉にこの光景を見、この声を聞いたのではありません。ですから、この時の話は、後で弟子たちが主イエスから聞いたということだと思います。
 ここには、父と子と聖霊なる神様が出てきます。これが大切なことなのです。主イエスは、ここから救い主としての歩みを始めます。その出発の所で、父と子と聖霊なる神様が出てくるのです。このことは、主イエス・キリストの救いの御業が、まさに父と子と聖霊なる三位一体の神様の御業であるということを示しているのでありましょう。これからの主イエスが語り、奇跡を為すすべての場面において、父なる神、聖霊なる神様について記されるわけではありません。しかし、ここから始まる主イエスのすべての言葉と業が、父と子と聖霊なる神様の御業であるということを、この洗礼の時に起きた出来事は示しているのです。

5.天が裂けた
 ここで、聖霊について、「天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。」とあります。「天が裂けて」というのはどういうことなのか。イメージとしては、雲が開いて、光がサーッと天上から差してくるような光景を思い浮かべることが出来るかもしれません。しかし、この「天が裂ける」というのは、地と天との境が裂けるということです。天というのは、地上何千メートル以上を言うというようなものではありません。月であろうと、何万光年離れた遠い遠い星であろうと、そこは地です。地とは、自然界であると言ったら良いでしょう。そして天は、すべての地の上に広がる神様の世界です。御国です。地と天とは、罪の幕によって完全に隔てられているのです。どんなロケットでも、その幕を破ることは出来ません。しかし、その幕が裂けたのです。栄光に輝く父なる神様の光に満ちた世界が見えたのです。主イエスがこの洗礼から歩み出す営みは、まさにこの幕を裂き、神の国を来たらしめる業であることが示されたのです。主イエスが十字架にお架かりになった時に、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」と15章38節にあります。これもまた、神様と人間との間にある罪による隔たりが取り除かれたことを示しています。このことの先取り、このことを指し示す出来事が、ここで起きたことなのです。

6.わたしの愛する子
 そして、父なる神様が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」とお声をかけられたのです。私は、この父なる神様の御声は、どれほど主イエスを励ましたことであろうかと思います。主イエスが罪人と同じ所に立つこと、それはやがて十字架の上の死に至るわけですが、その歩みを神様が良しとされた。それがわたしの心に適うことだと言ってくださった。この父なる神様の保証こそが、主イエスの歩みを揺るぎないものとして支えることになったのではないでしょうか。
 イエス様は父なる神様の子なのだから、改めてそんなものは必要ないと言われる方もあるかもしれません。そう、必要ではなかったかもしれません。しかし、主イエスはいつも祈っておられました。父なる神様との親しい交わりの中に生きられた方です。その交わりの中で、父なる神様は子なるキリストに、いつも言葉と業とをもって親しく臨んでおられたに違いないのです。そして、主イエスが救い主としての公の歩み、十字架への歩みを始めるに当たり、父なる神様は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」との御言葉を与え、励まし、支えられたのです。ここには実に、父なる神と子なる神との深い確かな交わりが示されているのです。
 主イエスの十字架への歩みは、まことに困難な道でした。誰一人、主イエスの歩みを理解する者はなく、様々な誘惑が主イエスを襲い続けていたに違いありません。サタンの誘惑は、主イエスが十字架にお架かりになられた時に最も強く、激しく襲ったことでありましょう。「もしお前が神の子なら、十字架から降りてみよ。」との言葉はまさしくサタンの誘惑の声でありました。これを退け、主イエスは十字架の上で、私共のために、私共に代わって死んでくださいました。自分を十字架につけた者のために死の苦しみを味わうのです。この想像を絶する困難な道を歩む日々の中で、この父なる神様の御言葉は、主イエスをどれだけ励まし、支えたことだろうかと思うのです。

7.洗礼を受けた私共の向かって
 そして更に言えば、洗礼を受けて主イエスと一つにされた私共に向かって、この父なる神様の「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」との言葉は告げられているのです。もちろんこの言葉は、神様の独り子に向けて告げられた、父なる神様の言葉です。私共と神様の独り子を同列に、同じように考えることは出来ません。そのことを百も承知の上で、私は、この言葉は今朝、私共にも向けられている、そう信じるのです。何故なら、私共は洗礼を受けた者だからです。主イエス・キリストと一つにされた者だからです。聖霊なる神様によって信仰を与えられ、神様に向かって「父よ」と呼び奉ることを許された者だからです。私共が神様に向かって「父よ」と呼ぶのは、私共が勝手にそうしているのではないのです。そうではなくて、神様御自身が私共に向かって「あなたはわたしの愛する子」と呼んでくださったからなのです。神様が「あなたはわたしの愛する子」と呼んでくださったから、私共は自らの罪と汚れと愚かさを顧みず、神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来るのです。
 私共のどこが御心に適うのかと問われるかもしれません。確かに、御心に適わない所ばかりが目につく私共であります。主イエスとは全く違います。しかし、主イエス・キリストを我が主と告白している私共です。神様を愛し、人を愛する者として、神様に仕え、人に仕える者として生きていきたいと願っている私共です。そのことにおいて、私共はまことに御心に適っているのです。神様が愛する独り子さえも惜しまずに与えることによって備えてくださった救いを、私共は受け入れているからです。これこそが御心に適ったことなのです。ここを外してしまえば、私共の中に御心に適う所など、どこにもありません。
 私共は、ただ今から聖餐に与ります。聖餐は洗礼の恵みを改めて心に刻む時です。良き所など何も無い私共が、洗礼によって主イエスと一つとされ、神の子とされ、救われている。本当にありがたいことです。この恵みをしっかり受け止め、心から神様をほめたたえたいと思います。 

[2013年10月6日]

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