富山鹿島町教会

礼拝説教

「御心は何処にあるのか」
レビ記 19章18節
マルコによる福音書 3章1~6節

小堀 康彦牧師

1.神様の御前で
 主の日、私共はここに集い、主なる神様に礼拝をささげております。この礼拝において、私共はまなざしを天に向けます。私共は、天に向かって、神様に向かって祈りをささげ、賛美をささげるのです。神様の御前に集い、神様を拝むのです。この一週の歩みにおいて様々なことがありました。楽しいことも嬉しいことも、そして悲しいこともありました。愛する者を天に送った者もいます。愛する者を看取っている者もいます。そのすべてを携えて、今、私共はまなざしを天に向け、父・子・聖霊なる神様を拝むのです。神様の御言葉を受け、神様と共にある新しい一週の歩みへと、ここから歩み出していくのです。この礼拝は神様の御前にささげられるものでありますから、人の目を気にする所ではありません。人の目をはばかることなく涙することもあるでしょう。何の問題もありません。社会的な立場も、地位も、この礼拝の場においては何の意味も持ちません。ただ一人の罪人として、神様に赦され、愛されている神の子として、私共はここにいるのです。

2.安息日に癒やす
 今朝与えられております御言葉において、主イエスもまた、安息日に会堂に行って礼拝を守られました。しかし、その日の礼拝は、少し様子が違っておりました。会堂に集った人々のまなざしが天に向けられていなかったのです。
 その日の礼拝には片手の萎えた人がおりました。多分その人は、いつものように安息日の礼拝を守るために会堂に来ていたのでしょう。この人は、いつもは少しも人々から注目されることの無い人であったと思います。しかし、この日は違っていました。人々の目は、この人に向かって注がれておりました。理由は、そこに集った人々はこの日、主イエスがこの人を癒すかどうか、それを見ようと思っていたからです。もし安息日に主イエスがこの人を癒すとすれば、明らかに安息日規定に違反しているものとして訴えようと思っていたのです。
 主イエスは、人々のその思いを見抜きます。そして、この手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい。」と言われ、人々の目の前でこの人を癒されたのです。
 当時の安息日規定によりますと、安息日には生死に関わるような緊急の場合以外は、医療行為を行ってはいけないことになっていました。しかし、この片手が萎えた人は、多分急にそうなったのではないし、この片手が萎えたという状態は生死に関わることでもありません。ですから、当時の安息日規定に従うならば、この人は日が沈んで安息日が終わってから癒やされるべきだと思われていたのです。主イエスも、そのような規定があることは百も承知でした。承知の上で、イエス様はここでこの人を癒されたのです。それは安息日規定そのものに対しての挑戦であり、律法を守って正しい人となり神様の御前にその義しさを主張するという信仰のあり方が、根本的に間違っているということを示すためでありました。

3.神を愛し、人を愛する
 もちろん、神様が与えてくださった律法そのものを否定するつもりは、イエス様には全くありません。イエス様御自身、マタイによる福音書5章17~18節において「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」と言われています。イエス様は律法を否定したり、廃止する意図は全くなかったのです。問題は、この神様が与えてくださった律法を、どう受け取るのか、これにどう従っていくのか、ということでした。
 イエス様はまた、律法の中で最も重要なものは何かと問われて、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイによる福音書22章37~39節)と答えられました。第一に神様を愛すること、第二に隣人を愛すること。この二つに基づいて律法を受け取り、これを守るのだというのが、主イエスの律法理解であったと考えて良いと思います。この「神様を愛すること」と「隣り人を愛すること」を全うするために、様々な律法は機能するのです。この二つに対立するのでは、神様の御心に適ったあり方で律法を守ることにはならないのです。この二つから見て、この安息日の会堂にいた人々の有り様はどうだったでしょうか。
 まず、神様だけを見上げるべき礼拝において、この日会堂に集っていた人々の目は神様に向かっていません。この片手の萎えた人に対して主イエスがどうするか、そんなところに目が向いています。これは、まことに神様を侮った礼拝姿勢であったと言わなければならないでしょう。神様を全力で愛する者の礼拝姿勢ではありません。第二に、この片手の萎えた人に対してはどうでしょう。ここで誰も、この人の苦しい状況に対して同情していません。それどころか、この人を、主イエスを訴えるための道具としか見ていないのです。神様に似た者として造られた人間を、自分の目的のために利用し、その道具と見なす。ここに愛はありません。
 実に、主イエスはここで、神様も隣り人も愛さず、それでいて、自分たちは安息日には何もしないのだから律法を守っている、自分たちは義しいと言い張る、その信仰のあり方を批判されているのです。
 神様を愛し、隣り人を愛する。この愛に生きる時、私共は本当に自由になります。神様は、この自由に生きることが出来るように私共を招いてくださり、その自由の中に生きることが出来るようにと律法を与えてくださったのです。ところが、あれをしてはいけない、これもしてはいけないというように、様々のしてはいけないことを守ることによって自ら正しくあろうとするならば、それは結局の所、自分を愛するだけで、神様も隣り人も愛することは出来ないのです。それは全く御心に適ったものではない。本来、律法というものは、この自分しか愛せない私共の罪を超えていく道として神様が私共に与えてくださったものです。自分しか愛せない私共の罪を明らかにし、悔い改めへと導き、神様を愛し、隣り人を愛する者へと一歩を踏み出させるために、神様は律法を与えてくださったのです。それなのに、自分しか愛せないという罪人としての有り様を守るために律法を用いる、律法を利用する。それは間違っている。それは御心ではない。イエス様はそのことをお示しになったのです。

4.沈黙という拒否
 イエス様は、このことをはっきり示されるために、人々にこう告げられました。4節「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」これは、誰でもすぐに答えることが出来る、まことに当たり前の問いです。「安息日に律法で許されているのは」という言い方は、「神様の御心に適っているのは」と言い換えても同じでしょう。神様の御心に適っているのは善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。これはまことに単純な問いです。善を行うこと、命を救うことに決まっています。子どもでも分かることでしょう。しかし、このイエス様の問いに対して、人々は「黙っていた」のです。
 どうして黙っていたのでしょうか。理由ははっきりしています。これに答えれば、次に「だったら、あなたがたはどうしてそうしないのか。」と問われることが分かっていたからです。善を行うこと、命を救うことが神様の御心に適っていることは分かり切っています。彼らもそう思っています。しかし、それを答えれば、だったらそうしたら良いではないかと言われるに決まっている。しかし、安息日規定がある。そうするためには、これを破ることになる。それは出来ない。安息日規定を破ってはならない。そう思っていますから、彼らは黙っていたのです。主イエスの言われること、示されることを彼らは良く分かっていたのです。だから黙るというあり方で拒否したのです。こう言っても良いでしょう。彼らは、主イエスの言われるようには変わりたくなかった。いくつもの正しい規定を作り、これを守ることによって自分を正しい者とする。このあり方を変えたくなかったのです。
 主イエスが私共にいつも求められていることは、この「変わる」ことなのです。自分だけを愛し、自分だけを守ろうとする私共です。神様を愛さず、隣り人も愛せない私共です。主イエスが求められるのは、このような自分を変えることです。これが悔い改めるということなのです。悔い改めというのは、何か悪いことをしてしまったと反省することではないのです。もちろん、そういうことも含まれるでしょう。しかし、それだけではないのです。大切なことは、変わること、変えられることなのです。神様を愛し、隣り人を愛する者に変えられることなのです。しかし、私共は本当に変わろうとしません。それは、自分のどこが悪いのかと思っているからです。口では言わなくても、自分は正しい、自分は悪くない、そう思っているのです。しかし、主イエスは、いいえ、あなたは変わらなければならないと言われるのです。本当に神様を愛し、隣り人を愛する者となるために、変わらなければならないと言われるのです。
この時人々は、主イエスの問いに対して黙るというあり方で、主イエスの招きを拒否しました。その結果、彼らは主イエスを十字架に架けるという所にまで至らざるを得なかったのです。6節に「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」とある通りです。自分の罪を認めず、自分の正しさをどこまでも握りしめる者は、結局、主イエスを殺すという所に至ってしまうのです。神様に敵対してしまうのです。

5.主イエスの招きに答える
 イエス様は、神様を愛するということ、隣り人を愛するということはどういうことなのか、身をもって示してくださいました。それが十字架です。神様を愛し、神様に従う。人を愛し、人に仕える。その有り様を明確に示してくださったのが十字架なのです。主イエスは、私共の一切の罪を我が身に負って、私共に代わって神の裁きをお受けになられました。それが主イエスの十字架です。私共は、とてもイエス様のようには生きられません。十字架につくことなど出来ません。その通りです。でも、「だからこれでいいんだ」「仕方がないんだ」とはならないのです。イエス様は、「わたしに従いなさい」と私共を招かれています。私共がこの招きに応えないのなら、私共はこの時の人々と同じように、黙るしかありません。黙るというあり方で、主イエスの招きを拒否するしかありません。しかし、私共はそうは出来ないのです。イエス様を愛しているからです。どうして主イエスが十字架にお架かりになられたのかを知っているからです。ですから私共は、「不十分な者です。不徹底な者です。でも、どうか神様を愛し、隣り人を愛する者にしてください。」と答えるしかないのではないでしょうか。そしてそう答える時、私共は一歩、昨日までの自分から踏み出していくのです。神様に向かって、隣り人に向かって、踏み出していっているのです。
 5節を見ますと、「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。」とあります。イエス様は黙っている人々を見回して、怒ったのです。そして、悲しんだのです。自らの罪に胡座をかき、少しも変わろうとしない人々に怒り、悲しんだのです。
 もし私共が、「わたしに従いなさい。」との招きに対して黙りこんで拒むなら、やはりイエス様は怒り、悲しまれるでしょう。私共は、イエス様を悲しませたくありません。私共は、自らの頑なな心を知っています。本当に変わりたくない、変わろうとしない自分を知っています。しかし、その心に逆らって、私共は今朝、主イエスの招きに応えたいと思うのです。それが、何よりも神様の御心に適うことであるからです。神様の御心はどこにあるのか。それは、神様の独り子、主イエス・キリストの招きに応えて、主イエス・キリストに従っていくことです。主イエスの招きを拒んではなりません。それは、イエス様を、神様を悲しませることになるからです。
 自分が正しい者であるなどとは、夢にも思ってはなりません。神様の御前にあっては、私共はまことに小さく愚かで、自分のことしか考えられず、損得の計算ばかりしているような罪人でしかないのです。しかし、そのような私共のために、神様はイエス様を与えてくださり、わたしの愛の中に生きよ、隣り人と愛の交わりを形作れ、と招いてくださいました。この招きに応えていく。一歩でも、半歩でも、この招きに応えて足を踏み出していく。そこに神の国への道が開かれていくのです。

6.この癒やしの意味
 最後に、この御言葉に出てくるもう一人の人、片手が萎えた人を見てみましょう。イエス様はこの日、片手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい。」と言われ、みんなから見える所に招きました。それは、主イエスがこの人を癒やすところを人々に見せるためでありましたが、それと同時に、この人を主イエスの癒やしに与ったことの証人として立たせるということでもあったのだと思います。イエス様の癒やしに与った人が、イエス様の恵みを証しする者となる。そのことをイエス様は求めておられたのでしょう。
 さて、イエス様はこの人に「手を伸ばしなさい。」と言われました。その手は萎えている手です。この人が「何を言っているのだ。この手は萎えているのだ。伸ばすことなど出来るはずがないではないか。」と言って手を伸ばさなかったのならば、この癒やしは起きなかったでしょう。しかし、イエス様が言われたようにこの人は手を伸ばしました。すと、手は元どおりになったのです。神の独り子であるイエス様によって、奇跡が為されたのです。主イエスの招きに応えて、主イエスの言葉に従うなら、そこに神の御子の力によって驚くべき出来事が起きるのです。私共もそのような出来事に生きるよう招かれている者なのです。
 主イエスによって癒やされたこの人は喜んだことでしょう。そして、主イエスの問いに黙った人々は、苦々しく思ったことでしょう。この奇跡は、天地を造られた神様の子であるイエス様の力を持ってすれば、難しいことではなかったと思います。イエス様の力、能力という点から見れば、そういうことだったと思います。しかし、この奇跡は、ファリサイ派の人々やヘロデ派の人々にイエス様を殺す決意をさせることになってしまったのです。イエス様はそのようになることを承知の上で、この人を癒されたのです。ということは、この人の萎えてしまっていた片手の癒やしを、イエス様は御自分の十字架の死と引き替えに与えられたということになるのではないでしょうか。多分この時、この人はそんな風には思っていなかったと思います。イエス様が自分の萎えた片手を癒してくれた。ありがたい。そう思っていただけだと思います。しかし、この癒やしは、主イエスの十字架の死を求めることになったのです。イエス様はここで、御自分の命を捨てて、この人の萎えた片手を癒されたのです。隣り人を愛するということはこういうことなのだと、イエス様は、その身をもってお示しになったのです。
 私共は、「ここに来なさい。わたしに従いなさい。」という主イエスの招きを受けています。まことに不徹底な、愛のない私共です。自分のことしか愛せないような私共です。しかし、私共はイエス様の十字架によってすべての罪を許され、神の子とされました。そして、まことに愚かで、自分のことしか考えられない私共のすべてを承知の上で、イエス様は「わたしに従ってきなさい。」と招いておられるのです。この招きに応えて、一歩でも半歩でも、神様を愛し、隣り人を愛する者へと踏み出していきたいと思うのです。

[2014年2月16日]

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